偶然
〜酸化の水先案内人か、錆びの世話人か〜
ヴェネチアはとにかく暑く、
ゆっくり歩くヴェネチア人の背中に張り付いたシャツに、
乾いた汗の白く波打つ跡がデザインされるほどだった。
フランチェスコ教会の中庭を根城にしている鳩や黒い鳥も
バテ気味に日陰を奪い合っていた。
評価も日に日に高まる
<La Luce Circorante>のH鋼は、
降ってくる鳥の糞を瞬間的に焼いてしまうほど熱くなる。
それでも回廊は涼しい。
虹が這い回る<Campanella>の石壁が放つ冷気は、
八〇〇年の石のジカンである。
誰ひとりいなくなった午後のつかの間。
山梨のクソ寒い季節に制作した
<La Luce Circorante>の
十三トンの鉄も、ひと月半の海路も、
暑いヴェネチアでの再構築も、
それを眺めているオレのジカンも、
みんな<偶然>である。
往き路そのものが<偶然>のゲージツなのだ。
中央線アズサで、酸化速度を想いながら
山梨FACTORYに引っ返した。
<OPEN2003>の仕上げである。
梅雨の湿気で、留守のジカンも、
酸化の<偶然>は美しく進行していた。
オレは酸化の水先案内人か、錆びの世話人なのか。
降ったり止んだりしながら球体の底に貯まった天水が、
螺旋の隙間から射し込むヒカリを反射しているではないか。
一〇〇リットルの海さえ包みこんでいる
<まだ未熟なピリオド>だ。
ボルトナットを外して解体した<ピリオド>は、
横浜埠頭から海を渡ってリド島に向かう。
新宿行きスーパーアズサの最終を待っていた
甲府駅プラットホームの蛍光灯に激しくぶつかる
分厚い羽音が降っていた。
薄鈍いヒカリを飽きることなく攻撃している
大きなカミキリムシだ。
美しい甲殻はついにオレの青いボストンバッグに墜落した。
丁度、ラスト一本になっていたハイライトの箱に入れた。
鉄路の上で息を吹き返し紙箱を食い破ろうと、
カミキリムシはしきりにギシギシ乾いた音をたてていた。
車両の最後部席の足元にはコンセントがついている。
繋いだパソコンを打つ間、
カミキリムシの奮闘は続いていた。
明るすぎる新宿駅、ハイライトの箱を喰い破って
長い触覚を震わせ、鋭く頑丈な口のハサミを動かして、
オレには眼もくれず
ブーン…
分厚い羽音で次の標的を攻撃しに消えた。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |