クマちゃんからの便り

東京浮遊


ヴェネチアからEメールで送った二〇枚の原稿が載った
<小説現代七月号>を買うつもりだった。

近くのキヨスクに無かったから
そのまま地下鉄に乗っていた。
FACTORYや釣り宿でなら自在なオレだが、
ヴェネチアの暑さで脳天をやられたのか、
久しぶりに予定もない東京に戻ると
何も思いつかないまま、地下を走る電車を適当に降りた。
雨が降りはじめていた<蔵前>の地上に出た足は、
自然に合羽橋に向かっていたのだ。

浅草橋、秋葉原、合羽橋辺りは、
小さな釦からコンピュータまで
都市生活のパーツを商うゾーンである。
普段のオレの暮らしには余剰な物品ばかりだが、
買うでもなく昼下がりのこの辺りを
ただウロウロするのは好きだった。

ヴェネチアの安アパートに備え付けの
電熱式エスプレッソ・コーヒーメーカーが
気に入って探したが、
ヴェネチアの何処の店にもなかったコトを
足が覚えていたのだろう。

嗅覚を失ってコーヒーなぞ口にしないオレの舌に、
香りさえ呼び戻すエスプレッソは別である。
鼻粘膜の機能がないままにきたオレは、
強い酒を水なぞで薄めずに強いまま呑むのも、
濃いスピリッツを口腔粘膜から
頭蓋に染みこませているのかもしれない。
加熱された蒸気が濃厚な液体を滴らせる
シンプルな装置の金属の輝きにも惹かれる。
見つかるかもしれない。

合羽橋の中程にある<ユニオン>は
コーヒー道具専門店で、
若旦那がオレを覚えていた。
いろいろ見せてくれたが、
電圧の違いもあり故障も多い電熱式は扱ってないと言う。
<アレッシー>のモダンな形の直火型は、
ヴェネチアの店より安かったから
コーヒーも五〇〇g挽いてもらった。
家内工業で鍋をコツコツ打ち出していた
<アレッシー>は、デザイナーを参入させ
キッチン道具を一新させるメーカーになったのは
まだ最近のコトらしい。

漂う香りを捉えることができないオレは、
ガスの直火で沸騰しても気がつかない。
その為に今まで何個の鍋を焦げつかせて駄目にしたことか。

次は秋葉原の電気街。
硝子を溶かす電気炉を造る時に
何度も相談に乗ってもらった小さな電熱専門店
<サカグチ>だ。
<アレッシー>のコーヒーメーカーを取り出し、
これに合う小さな電熱コンロを作ってもらった。
一〇〇Vで二〇〇W。
完璧になった。

八重洲ブックセンターに立ち寄り、
やっと当初の目的の<小説現代>を手に入れた。
なんとも建設的な東京浮遊だった。



「金気を出さないようにストレナーを洗ったりしないんだ」

TSUCHYが言っていたように、
アパートにあったコーヒーメーカーのストレナーの隅にも
コーヒーがこびりついていたコトを思い出した。
小さな電熱の上で一〇分ほどで出来上がった
エスプレッソを飲まずに、
何度か沸騰を繰り返し金気を抜いた。

ゲージツの朝のエスプレッソ。
クールダウンする夜の煎茶。
しばらくオレのつかの間の愉しみになったわい。



『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

2003-06-26-THU

KUMA
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