海の欠片
新宿駅で買った駅弁を食い終わる頃、
アズサは山岳地帯の襞を縫いはじめ、
閉じた目蓋の上を闇とヒカリが交互に過ぎていく。
肘のあたりに覚えた痒みは虫刺されの不愉快さはなく、
貼り付いた皮膚を軽く引っつらせている
三枚の小さな鱗だった。
車窓のヒカリの加減で複雑な色に変化して光ったりする。
日灼けでソバカスの斑点が目立つ腕の二枚は、
爪の先で簡単にとれたものの、一枚はなかなか剥がれない。
千葉の海でヒラメ釣りの生き餌だった鰯のものが
何かの加減で貼り付き乾いて、
オレの皮膚の一部になっていたのだろう。
どんより深まる山の緑を映す鱗の小さな鏡を着け、
魚に憧れたウミウシを想わせる左腕を
車窓の縁に掛けたままにして、
乳白色の硝子のカタマリの中を直進しては屈折する、
紅い毛糸のようなレーザー光線の
行き着く果てを思い浮かべていた。
ヴェネチア個展が終わる11月後半からは
寒くなった山奥で、
紅いレーザー光線が繋ぐ大小のいくつかの形をした
ヒカリのFORMを削り研磨する日々が
始まるのだろうなぞと思っているうち眠くなった。
意識が戻ってほんの一瞬だった。
そのトンネルとトンネルの間の切り開いた小さな斜面に、
豆や芋の小さな畑があって、
雨の日も晴れた日も無言で手入れしていたり、
弁当を拡げていたりしている老夫婦がいた。
彼らのほとんど直角に折れている腰は、
斜面の作業には都合が良さそうだった。
激しいゲージツの行き帰りのアズサ車窓から、
意識するわけでなく、うつらうつらしていても
そのトンネルの直前で目を覚まし、
いつも見逃すことはない山岳の景色だったが
そのうちコトバを交わしたわけでなく、
アズサの車窓から見掛けるだけの
何の変哲もない景色に
ホッとしたりもするようになっていた。
豆の畑を登る消防団の半纏を着た数人見えた。
『何かあったか?』
目を凝らすと、畑の隅にある小さな家の入り口に
<喪中>の紙が見えたが、
すぐにまたトンネルに入った。
オンナの方だけか、
両方が逝ったんならやがて
ヤブカラシや雑草に被われた斜面に戻るのだろうし、
もし先立ったのがオトコだけなら
畑はもう少し続くはずだ。
最後のトンネルを出ると
ウミウシの鱗がレーザーのように輝き、
せいぜい五秒間の景色が甦っていた。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |