座頭市ヴェニスへいく
夏ヒラメ釣りに投宿した千葉の船宿で、
畳が少し毛羽立った仏間がオレの部屋になる。
鴨居には古びた遺影の額と並んで掛かっている
黄ばんだ巨大なヒラメの魚拓の一番新しい日付でも
三年前の冬だし、壁際のガラス戸棚に並んでいる
大小の置き時計は、天使が鐘を打つ大袈裟なものや、
パンダやミッキィーマウスをかたどったものまであるが、
どれもバラバラな時間を指していて、無時間な空間である。
漁師は自然に眼を覚ますと正確な朝で、
気圧や風を躯に感じ、空を眺め、
潮の地合を見るのが全てで、
時間なぞNHKの夕方七時のニュースで
確認する程度ですむのだろう。
引きずる脚音が階段を昇ってくる。
載せた皿とスプーンごと冷蔵庫で冷やした
宿の老婆が作った寒天菓子の
滑らかに冷えた<もてなし>が、
胃袋に向かって墜ちていき
幽霊のように少し手前で儚く消えるのを愉しむ。
座布団を枕に、持ってきてくれたスポーツ新聞を開くと、
北野武氏の最新作<座頭市>が
ヴェネチア映画祭に正式に参加することが決まった記事が
載っていた。ひなびた海の集落で思いがけなく知った
嬉しいニュースである。
<誰でもピカソ>で会うたびに彼は、
「娯楽映画だからヴェネチアには向かないと思うんだ…」
と少し照れていたが、
座頭市というポピュラーなテーマに殺陣も自ら工夫し、
タップダンスを取り入れ
相当斬新な映像だと想像していた。
オレは<ソナチネ>以来、
彼の<詩>を映画館の暗闇に観てきた。
ヴェネチア映画祭のリド島で同時開催される彫刻展
<OPEN2003>で三度ヴェネチアへ向かうが、
本会場で<座頭市>を観るのは贅沢なものだが、
その時彼が二度目のグランプリを獲得したら、
物凄いゴーカなことである。
記事が載った新聞を被って三〇分ほどの昼寝は
頭蓋を新しくした。
明日はきっとイイ釣りの予感がして、
リールを取り付けたロッドにラインを通す。
長かった梅雨も明けた海から、
激しくロッドを絞り込んだ手応えだったが
2kg弱のヒラメは、
まだまだ魚拓には遠いサイズだった。
5kgクラスは冬ヒラメ解禁の一〇月の波崎か、
十一月の大原に取っておくとして、
そろそろオレのオブジェも
ヴェネチア目指して近づいているはずだ。
18日からまた四〇度ちかい気温の本会場のリド島で
<まだ未熟なピリオド>のボルトアップである。
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『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |