クマちゃんからの便り |
シナンダレ
明日から村はお盆にはいるらしい。 沈黙の作業と散策の日が長くなり ヴェネチアへの旅立ちも迫り、 東京へ戻るつもりだったが 朝からの雨でぐずぐずしていて夕方になってしまい、 明日早朝に帰るつもりで卓袱台で書き物をしていた。 「焼き鳥喰いに行くけぇ」 村のSさんが訪ねてきた。 「オレは肉は喰わないけど 久しぶりにいっぺぇ呑るけぇ」 オレまで山梨弁になってしまった。 村の<焼き鳥>屋があることは知らなかった。 主の顔に見覚えがあったが思い出せない。 二、三人の百姓が焼き鳥でちびちび飲んでいる。 小さな店のメニューはみんな地鶏と 地場の農作物で出来ているらしいけど、 異常気象の熱波の中での激しい作業を前に、 口をウッカリ卑しくしてはならないから、 痛風の気があるオレはコロッケと冷や奴にした。 客はガキの頃からこの村で一緒に育った 顔見知りの常連らしい。 みんなイワナのことや、天候や、噂話なぞを 乱反射させていた。 ここは村の集会場なのかも知れない。 カウンターの上の棚に三〇個ばかりの 歯ブラシのプラスッチックケースみたいなものが 並んでいることに気付き、 よく見ると小口にはマーカーで それぞれ名前が小さく書かれている。 そういえば割り箸のオレ以外の客が使っている箸は、 色が違うだけで同じ大きさと形である。 つまり常連の置き箸というわけだ。 一〇時五分前になると客は自主的に帰り、 オレとSさんだけになり主も片付け始めた。 どうやら閉店らしい。 「ここのオヤジは御神楽の笛の名手だよ」 Sさんが言った。 そうだ神楽の舞台で笛を吹いているのを見たのだ。 「尺八を教えてくれる人はこの村にいないか。 教わりたいんだが」 「なんだ、さっきまでそこに居ただよ、 もっと早く言えばよかったのに」 「今、電話でお願いしたいな」 「駄目だよ。あいつは八時には眠るんだ」 尺八の独学は限界だ。 もっとイイ音にしたいし、 もっと自由に吹きたいと思っていた。 ヴェネチアから戻ったら教わるとするか。 「あ、お盆さんだ」 Sさんが叫んだ。 「きっと誰か帰ぇって来ただよ」 ちょっと気味悪そうに顔を歪めた。 振り向くと出入り口の網戸に、 大きな蛾が停まっていた。 「あれの毛虫は緑色してこんなにあるだ。 シナンダレというだよ」 今度は主が掌を広げて言う。 Sさんは御神楽の舞手だが 「役決めのとき長老が<シナンダレ>を 誰がやるかちゅうだ。 悪役や嫌われ者のことを言うだよ」 軽トラで送られる途中、 電信柱の街灯に飛び回るシナンダレが、 アスファルト上にラドンのように 大きな影を落としていた。 『蔓草のコクピット』 (つるくさのこくぴっと) 篠原勝之著 文芸春秋刊 定価 本体1619円+税 ISBN4-16-320130-0 クマさんの書き下ろし小説集です。 表題作「蔓草のコクピット」ほか 「セントー的ヨクジョー絵画」 「トタンの又三郎」など8編収録。 カバー絵は、クマさん画の 状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |
2003-08-15-FRI
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