クマちゃんからの便り

天気晴朗なれど異国の浪高し


車の乗り入れが一切ないヴェネチア本島と違って、
タクシーやバス、トラックなぞが走り回るリド島は、
朝からエンジンの文明音と浪音が混じってはじまる。
海岸線に沿ってナマコの腸のような
メインストリートには、
金持ちの高級ホテルや別荘が立ち並び、
オレの安アパートはそのゾーンから少し離れている。

湿気はすでになく、
そっちこっちの夾竹桃の赤い花に真夏の日差しだ。
それにしても昨夜のディナーで喰ったウナギの、
パリパリにグリルして北京ダックのようになった
皮に張り付いていた脂身に、
質のいいバルサミコをどぶどぶ掛けた
一口二口は美味かった。

しかし一息ついた三口目は
オレの口のなかをポマード状の瓶にしてしまった。
荒々しいこんな喰い方も好きなのだが、凄すぎた。
高知民らとのエン会でオレが必ず特注する
<ウツボのたたき>のナイーブな味を思い浮かべ、
三口目を飲み下した。

さすがに堪らずあとは残して
頭蓋内を浄化しながらワインで口を清め、
何喰わぬ顔でゲージツの話をつづけていた。
PAOLOが恩師であったレスタニが
遺していったという
最高級のキューバ葉巻を取り出してきた。
飲み物を冷えたグラッパにした。

風雅な繊細とやらを欠落して産まれてきたオレは、
この煙を優雅な野生の味に変換した
ウナギの脂を愛おしみながら、
頭蓋内はアドレア海から
夢のキューバまで駆け回っていた。

朝のヒカリに充ちた枕元に薄いカーテンが、
海からの空気をなぞっている。
強い酒は強く呑み、
野生の味は野生に喰って迎えた朝は、
すでに<痛風>の欠片も残っていないじゃないか。

オレが来る何日か前に、
小説家の伊集院静氏がフランスから
わざわざフランチェスコ教会を訪ねて
<La Ruce Circolante>を
観てくれたらしいが、あまりに膨大な規模と
時間や費用に呆れたという。

『これが往けるところまで往き、
 チカラ尽きたとしても惜しくはない
 オレのゲージツなんだよ、ジュッちゃん‥‥』



訪ねてくれた数少ない友人に
逢えなかったのは残念だったが、
またどっかの巷で彼とは必ずすれ違うだろう。

水上バスで久しぶりにサンフランチェスコ教会に行く。
何が原因なんだかまだ税関から解放されない
コンテナーが届くのは
オープニング当日になるかもしれないとの連絡だ。

『木っ端役人どもめが!』

なぞと叫んでも仕方がない。

着いたら全力でボルトアップして
間に合わすしかないから、
大量のヒカリのなかで
暮れのパリでやるコラボレーションのことや、
来年のロンドンに想いを馳せていた。
個展会場の案内嬢をしてくれているのは
横浜国大留学生のCINZIAさんだ。
赤テント<状況劇場>の研究をしているという
碧眼美人のインテリ娘である。
毎日刻々と移りゆくオレのヒカリを眺めるのは
幸せなことだと、
しっかりした日本語で嬉しいことを言ってくれるわい。



『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

クマさんへの激励や感想などを、
メールの表題に「クマさんへ」と書いて
postman@1101.comに送ろう。

2003-08-24-SUN

KUMA
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