クマちゃんからの便り |
<偶然>の連続 生まれるなり嗅覚と片方の聴覚を失ったまま 現象しているオレは、 無いモノは無いものとして過ごしてきたが、 己の体臭さえ知らないオレが 肥溜めに墜ちたところで糞の臭いも知ることはなかった。 花や虫や動物の生き死にとって 重要な要素の聴覚や匂いは、 他の器官でまかなって 格別不便を感じないオレにとっては、 余剰なモノなのかもしれない。 そんなオレは、ふたたびサンセルボロ島へ。 今日中のコンテナー解放はないらしい。 だからといって命まで獲られるわけじゃないわいと、 学校へ向かって林をゆっくり歩く。 PINOはやっぱり凄いマエストロだった。 オレが日本語をまくし立てながら ボールペンで描きなぐるドローイングを、 道具から手順から寸法から硝子の色、 量までを計算尽くした午後三時。 溶解炉が燃えさかり開け放った彼の教室前には、 ヴィデオやカメラを構えた他の教授や 生徒までが授業そっちのけで、 オレと彼のパフォーマンスが始まるのを 待ちかまえていた。 もちろんダンテやダビデ、クラウディオ、 トフィーらそうそうたるメンバー 総勢十人も勢揃いである。 前に運び込まれた黒板に、 オレがチョークで今回のデッサンをすると 全てが始まった。 一本のバーに巻き取った火の硝子を ピンセット状の道具やハサミで創っていく。 炉のなかで重力にゆっくり垂れながら 甲殻類の鋭い攻撃的な大きな爪が生まれ、 鋭いピンヒールが息づいていくKUMABLUE。 カドミュームが燃え真紅の球。 最後は、急遽溶接した鉄の箱に収め クリスタルを流し込んだ。 鉄錆に煙があがる。 みんなが共有する色々なモノが燃え、 充たされていた誕生する匂いをオレは目で嗅ぎ、 片耳で感じていた。 重くなった硝子のオブジェをポンテに着けて 徐冷炉へ収納したら拍手がおこり、 二時間続いた熱い教室のパフォーマンスは終わった。 「ありがとう。大満足だったよ、PINO。 また今度、もっと大きなプロジェクトでやろうぜ」 近づき彼の肩を叩くと、大きな肩や腕から汗が滴らせ、 ほんの少しだけオレより若い汗だくのPINOが 初めて崩した顔で 「グラッチェ」 柔らかい声だった。 『俺の教室は路地だったんだ…』 彼のコトバを思い出した。 極貧家庭の子だったPINOは、 凍った線路の氷を剥がすシゴトで家計を助けていた。 途中にあった硝子工場の窓から背伸びして覗く眼の先は、 職人等が飲む美味そうなコーラで 隙をみて飲みさしを盗み飲むことだった。 しかしある時見つかってしまい、 散らかった硝子を拾い集め 工場内の清掃シゴトをすれば コーラと小さなゼニをもらえるようになったという。 彼はその合間に硝子の全てを目で覚えてしまい、 十歳の時職人になると、 十三歳ではもう マエストロになっていたという天才ぶりだ。 昨夜グラッパを呑みながら、 ゴミ箱のなかでピンホールのヒカリを眺めながら 編み物をしていたオレの話に、 ゴッドハンドを着けて生まれてきた彼が、 お返しにポトリと落としたのだった。 ゼニにありつくために駆けつけた職安や、 手配師のトラックが<肉体労働の市場>だったオレには、 <ワークショップ>なぞという なにも産み出すことのない ヘナチョコなコトバにしか聞こえない。 リド島に戻る水上バスでケイタイが鳴り、 CINZIAから、 商工会議所の社長が強力に抗議してくれて、 オープニングの前日に コンテナーが到着することが確実になったという知らせ。 間に合うか…、その為に土、日は完全休養にして、 のんびりと北野巨匠の <座頭市>の前売り券を買いに行くか。 『蔓草のコクピット』 (つるくさのこくぴっと) 篠原勝之著 文芸春秋刊 定価 本体1619円+税 ISBN4-16-320130-0 クマさんの書き下ろし小説集です。 表題作「蔓草のコクピット」ほか 「セントー的ヨクジョー絵画」 「トタンの又三郎」など8編収録。 カバー絵は、クマさん画の 状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |
2003-08-28-THU
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