クマちゃんからの便り

空からきた鰈



日曜日。テレビもなく、扇風機もなく、
もちろんクーラーなぞなく、本を読むことにも飽き、
眠ることにも飽きてぶらりと外に出たら、
サンタマリア・エリザベッタ行きのバスが来た。

ヴェネチアでは水上も、陸のバスも、
みんなスゥーと乗りスゥーと降りるのである。
船着場の切符売り場で折角買った切符を
車掌が切る気配がない。
たまに検札があり
無賃乗車は十倍の罰金だというのだが、
出会ったためしはない。
リドの波止場からピアッツァレ・ローマ行きの
水上バスは日曜日の朝でまだ空いていたけど、
やっぱり検札はなく、チェレステアで降り、
万国旗のように窓から窓へ、
壁から壁へと繋がってひらめく洗濯物の下を、
オレの足音だけが石畳にこだましていた。
フランチェスコ教会に向かっていた。
今日はCINZIAの日だ。

オーストリアとの国境にある
山岳地方ベルーノに住む彼女は、
朝六時半の汽車で一時間半かけてここに来ているという。
ヴェネチア見物をしたいという両親も一緒だった。
六月十二日開催してから
毎日八十人から百五十人が見に来ていて、
今日も回廊のあっちこちで
何組かが現れたスペクトルと戯れ
写真を撮ったりしている。

シカゴから来た中年カップルは、
しきりに感心して

「ぜひ連絡先を教えてくれ」

と言う。作品集を渡すと
自分のメールアドレスを書き込んだ
名刺を置いていった。
キュレーターと大学教授の夫婦だった。

雨樋の下に黒いスリッパが片方落ちていた。



よく見ると鰈である。
教会の中庭に一枚の鰈はまるで、
<手術台におけるコウモリ傘とミシンの出会い>
のようで不思議な取り合わせだった。
「左ヒラメ右カレイ」。
まだ腐ってはいない鰈は、
オレが到着するまでの時間に
空から来たか、
猫に運ばれて陸上をやってきたかだが、
教会の大扉は朝まで閉まっていて猫も入れないし、
樋を伝って落ちてきたにしては、
雨はここひと月は降っていない。
CINZIAも教会のパイプオルガン弾き
アッシリオに訊いても
頸を傾げ、疑問は深まるばかりだった。

帰りの水上バスから、
運河にのんびりボートを浮かべ
釣り糸を垂れる老人たちを眺めていた。
底を小突く釣り方は
きっと小魚か鰈を釣っているのだろう。
この海は小さな魚しかいないのだ。
その上を鰈をくわえた大きな白い鳥が
悠々と教会の方向に飛んでいく。
老人のボートか魚市場から
掻っ払ってきたに違いない。
犯人は奴だ。

フランチェスコ教会の上空に差しかかり、
<La Ruce Circorante>が
空に放つ強烈なヒカリのピンポイント帯に入り
一瞬眼をやられて口の獲物を放してしまったのだろう。
<循環するヒカリ>に海まで絡ませ
シュールリアリズムの一端を担った鳥が、
今度は無事に鰈が喰えるといいのだが。
炎天にスキンヘッドは雨の温度を感じた。

まだヴェネチア人は気付いてないが、
きっと明日は待望の雨になるだろう。



『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

クマさんへの激励や感想などを、
メールの表題に「クマさんへ」と書いて
postman@1101.comに送ろう。

2003-09-01-MON

KUMA
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