クマちゃんからの便り

火星大接近



今まで過ごしてきたゲージツジカンに、
受けたこともない高い評価と確実な手応えがあった
ヨーロッパでのゲージツ遠征は、
しかし今やっと始まったばかりである。

熱く長かったヴェネチアから戻ってすぐに、
暮れのパリでのOBJE制作の準備にはいったものの、
どうもすっきりしない。
時差のボケはほとんどないのだが、
異常気象だった炎天下での作業で脳天を少しやられて、
水分が不足した頭蓋内は砂漠状態になっていた。
絶望的な気分で買ったまままだ海を知らない
ペンリールを研いては油をさしては、
平日に海までオレを運んでくれるヤツはいないものかと
電話するが、「残念ながら忙しい」とつれない返事だ。
少し前までオレのまわりには
志の高い無職渡世の輩がウヨウヨいたものだ。
もう今や、そんな余裕者も
すぐには見つからなくなってしまったのだ。

ジィジィジィジィ……。
遙か彼方の海の底と繋いだラインをリールに巻き取って
溜息をついていると、

「今日六時で終わったら迎えに行くよ」

キコリさんからだった。
彼は下町のサンドブラスト工場の工場長だ。

「明日朝のヒラメ釣りに間に合うな」

「ワタシもしばらく行ってません。楽しみです」

千葉の外川まで二時間走るあいだ、
赤い星が寄り添った十五夜が間近な腐ったトマトみたいに
大きく膨らんだ月が追いかけてくる火星大接近ショウを、
助手席からを眺めていた。

午前四時半無口な船長の<政勝丸>の帆には
「今日も楽しく朗らかに」と書かれている。
ヒラメフリークは自己顕示が強く
小心者が多いような気がする。
だから、殺伐としがちな船中を警戒した標語なのか。
マ、海に漂うだけで満足なオレには不要なコトバだ。
釣れたらそれは海からのプレゼントである。

ヒラメの海は穏やかだった。
やっぱり海はいい。
オレの渇ききった頭蓋に海が充たされていった。

ヒラメ釣りの生き餌はイワシだが、
一人あたり二〇匹前後の見当だ。
<政勝丸>の生けすには大きなアジも混じっていた。
一時間二時間経つが船中釣果なし。
オレはみんなが避るアジに鈎を通して、
海底を慎重に探っていた。

ガツガツガツ‥‥。

ついに来た。ヒラメの魚信だ。
ペンリールのドラッグを慎重にゆっくり締め
もう一度強いヒラメの締め込みが来るのを待った。

ガツガツガツガツ‥‥。

やった、二kgのヤツだった。
それからも続けて三枚上げて、
三kgオーバーのイシナギまで揚げた。
いいリールである。
オレは今日の竿頭になり、海が甦っていた頭蓋から、
ヨーロッパでの喧噪が薄らいでいった。



『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

クマさんへの激励や感想などを、
メールの表題に「クマさんへ」と書いて
postman@1101.comに送ろう。

2003-09-14-SUN

KUMA
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