クマちゃんからの便り |
光学計画 光学計画 夏の日照時間不足は美しい紅葉の気配もないまま、 樹々の葉っぱは汚れた黄色を散らしはじめ、 村の稲刈りが終わる今週末には、 殺風景な秋になるだろう。 山の果実は糖度も少ないだろうし、 今年もクマやシカが 麓までノコノコ降りてくる季節だ。 もう山奥の気配に戻った はずのオレの身体は、 長く暑かったヴェネチア仕様が まだ完全には抜けきってはいなかったらしく、 水を盛大に浴びての研磨作業で 少し風邪気味だった。 冷たい雨で鳥の声もなく黒ずんだ 甲斐駒ヶ岳を眺めながら、 顔見知りの百姓の軽トラが 通りかかるのを待っていた。 一時三分のアズサに乗るにはそろそろ掴まえなきゃ。 すると植木屋の小僧の車が停まった。 「駅まで送ってくれよ」 「いいだよ、今日は雨だから休みだから。 昨日研磨してただね、 声掛けなかったけど、 イタリアはどうでした」 「なんとかうまくいったよ」 「よかっただね。 今度甲府にメシ喰いに行きましょう」 小僧もしばらく会わないうちに 大人びた口をきくようになっていた。 オレが相模原に向かうときはいつも雨が降る。 アズサの車窓に流れる低い雲から 山々が見え隠れして、 研磨に集中していたジカンから解放されたオレは、 山を逃げ出すようだったし、 新宿からゲージツに向かうときは、 逆に山へ逃げ込むような気分になるのである。 株式会社<OHARA>は、 光学硝子の世界的な硝子メーカーだ。 通信やIT産業にも重要な素材にもなる光学は なかなかの高額。 工芸硝子には興味のないオレの ゲージツという個人レベルで使うには高すぎ、 そこがこの素材の欠点ではあるのだが、 それでもオレの頭蓋に去来する ヒカリのゲージツのために、 素材を廉価でサポートしてくれているのが <OHARA>だ。 ヴェネチアまで運び込んだ <La Ruce Circorante>の 評価とともに、<OHARA>の生産技術も 知らしめたのはゲージツからのお返しである。 もう少し勇気のある長い目で オレのゲージツに関わることを望む。 羽部氏は硝子の色付け技術の達人で、 時々相模原工場を訪ねては 巨大硝子について教わり、 度を過ごした酒を呑む 長いつき合いになってしまった。 OHARA敷地内にある別会社 <OPC>の社長になっても、 相変わらず年長の酒友達である。 油谷OHARA社長は、 「このたびはオメデトウ。 失透させ半透明にした 六百五十kgのカタマリを 是非ゲージツに使って下さい」 と言うじゃないか。 「今日は客があるので、 今度またゆっくり呑みましょう」 やっぱし念じてみるものだ。 いつものように羽部氏と 直径一メートルのレンズを削りだす計画を話しながら、 相模原の居酒屋でヒラメとクエの刺身で 芋ショーチュー<宝山>を呑む。 うまいなぁ。 いただいたタクシー券でひとり六本木。 グラスを持つ右腕が重いのは研磨のせいで、 酔ってはいたが壁に<詩画>が展示されていた 五万の額をひとつ購入していた。 <月の設計図を盗み出せか…>。 『蔓草のコクピット』 (つるくさのこくぴっと) 篠原勝之著 文芸春秋刊 定価 本体1619円+税 ISBN4-16-320130-0 クマさんの書き下ろし小説集です。 表題作「蔓草のコクピット」ほか 「セントー的ヨクジョー絵画」 「トタンの又三郎」など8編収録。 カバー絵は、クマさん画の 状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |
2003-09-28-SUN
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