クマちゃんからの便り

浮遊…山ごもり…浮遊…


大武川の上流に掛かった<甲斐駒大橋>に
親柱を設置し終わり、
オレがあっちこち浮遊しているうちに
開通式も終わったようだ。
山岳地帯のFACTORYに戻ると
梅がやっと満開である。
今度は籠もりっきりで土鍋で粥を炊き、
自分で作ったニンニク味噌と、
梅干し、干物魚でメシを済ませては
夕方まで工場で過ごし、
一〇〇枚のオブジェをひたすらに創っていた。



たまに外に出てみると、
眩しい雪の遠景に田圃はまだショーユ色のままだ。
耳を澄ませば静かな山奥にも、
小さな得体の知れないこの世の音が充満していて、
景色の中で動いているのは
オレが吐き出すタバコの煙と、
蜜を集めている忙しない蜂に、
ひとひらふたひらと散らされている
梅の花びらだけだった。
ついに一〇〇枚のオブジェも出来上がった。

しかし、早朝眼を覚ましてから
粥を喰いシゴトをして過ぎていったこの二週間、
出来事の繋がりはもう覚えてはいない。
いつものコトだが出来上がってしまえば、
もうどうってコトもない。

卓袱台でぼんやりするのも久しぶりだった。
部屋の中はまだ五℃。
伸ばした爪先に紙束の柔らかい感触が当たった。
買ったまま忘れていた
習字の練習用の半紙が黄色ばんでいた。

先日、富山で手に入れた
<藤>蔓の繊維を揉み出した筆で、
気まぐれに遊んでみることにしたが、
字なぞを書きたいと思ったワケではなかった。
墨を含ませ『今だ!』と筆をおろし、
呼吸を止めたまま<今>を横一文字に引いた。
深呼吸して呼吸を整え、また呼吸を止め、
『今だ!』。
その下にまた五秒間の一文字を書く。

<今>が細くなり太くなり、
滲んだりかすれたり途切れたり。
一枚のなかに五秒間が一〇本並んでいた。
次の新しい半紙に、
また細く太く滲みかすれた五秒が一〇本。
そしてまた一枚…また一〇本…また一枚…。

たちまち畳の上は<今>の
横一文字ばかりの半紙で溢れていた。

汗がうっすら滲んだ頃には紙も無くなり、
すでに卓袱台の上だけでなく
畳に接したオレの尻の形だけを残し、
半紙に覆われていたのだった。

「また厄介な迷路に迷い込むわい」

やっと我にかえったのだが、
後の祭りだった。

おびただしい線に囲まれて、
まだ新宿の酒場でうろついていた朝のように、
頭蓋がもうろうとして堂々巡りをはじめていた。

息を止め<今>を描きだした五秒の経過を、
線の墨痕として確かに捉えてはいる。
しかし墨痕の最後の<今>は
描きだしの<今>ではすでにない。
そもそもジカンはこんな<線>の形をしているのか。
あの過ぎ去った五秒というジカンは
もうこの部屋のどこにもなく、
これから来る<今>は
どこに待機しているというのか。

『イマイマイマイマ…』

久しぶりの堂々巡りから這い出そうと、
溜息混じりに眼をおとす卓袱台の上に、
それすらも過ぎ去っていく時の<今>があった。

食い残しの粥が入っている土鍋の上で、
半紙がこんもりと脹らんでいた。

半紙の辺の一センチほどに
糊状になった粥を塗り
一枚ずつ貼り付け繋いでいき、
ちょうど卓袱台とオレを囲むほどの輪になったところで、
上辺に粥を塗り二段目を貼り付けていく。
過ぎ去った累々たるジカンの線を、
毛糸を編むように紡いでやろうと思った。
三段目が終わる頃には肩の辺りまできた。
五段目で頭の上を越えて、
中腰になれる高さになった。
天井から下げた洗濯ばさみで四つ角を摘むと、
幾重にも繋がった横一文字の墨痕が透ける
四角い部屋が出来上がっていた。
中から貼り合わせた半紙を屋根代わりに載せたら、
さっきまで聴こえていた鳥の声や、耕耘機の音や、
遠くのゴム工場のコンプレッサーなど、
この世の音が消えて
時々、何かの加減で半紙が鳴る
<今この時>の響きだけだった。
オレが放射する体温で
半紙のキューブ内の温度が上がって、
繭のなかにいるようだった。

「アレッ、いないのけぇ」

誰かが上がってきたようだ。

「ここだよ」

「どこでぇ」

オレは紙の壁を叩いた。

「アレ、この中けぇ」

オレは裾を捲って顔を出した。
F氏が甲府から訪ねてきたのだった。

「工場にはオブジェだけがズラーッとあるし…
 もう終わっただか」

「やっと終わっただよ」

「鰻喰いに行くか」

オレは鰻につられてキューブから這い出た。

「その前に手伝ってくれないか」

洗濯ばさみからはずし
外に運んだキューブの裾にライターで火を点けた。
たちまち暖まった空気が中に溜まった
四角い紙のバルーンは、
燃えながらフワリと空に舞い上がった。

五秒間の墨痕が燃えて黒くめくれながら
空中でくるりと返り、
ひときは燃えさかって落ちた。
炭化した黒い半紙の燃えカスが
つむじ風に踊っていた。

ケイタイが鳴った。
囲炉裏の上で三〇〇年過ごした
煤竹のイイ音の尺八が出来上がったという
京都の製管師・村田朋山からだった。

「近々に行くよ。きちんと教わりたくなったんだ」

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2004-04-06-TUE
KUMA
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