クマちゃんからの便り |
青い夢殿 東京のダウンタウンから移した山梨FACTORYで、 ゲージツの日々をおくるようになってから 今年で一〇年になる。 五〇歳過ぎてからの一〇年は夢のように速い。 マ、オレは生まれてこのかた 夢のなかにいるようなモノで、 この世からオサラバする瞬間が、 夢から覚める時なのかも知れないわい。 コンクリートを打ちっ放しの床は一〇年経ってもまだ、 細かい土埃が舞い上がる。 ヴェネチアに連れて行ったサポートメンバーや須田さん、 カーペン兄弟らを集めてFACTORYの大掃除。 一〇年分の鉄屑やヒカリの欠片に混じって、 カマキリ、オニヤンマ、トカゲなどの 干涸らびた死骸が大量に出てきた。 青い床塗装にリニューアルして またあらたなるヒカリを創り出していく FACTORYは、オレの夢殿である。 一〇年前、鉄の溶鉱炉を買って 一八〇〇℃の火力を手に入れたオレは、 頭蓋に浮かんだKUMABLUEを創るために 自分で設計し組み上げた硝子を溶かす巨大溶解炉 <サイバー・キルン>を、 二十一世紀を迎える前年の一九九九年暮れに完成させ、 さっそくスイッチをONした。 <完了>は二〇〇〇年騒ぎを跨いで春先の予定だった。 コンピュータに無知なオレは、溶解ステップが終わり 徐冷ステップに入ったばかりのコントローラーに 張り付いてカウントダウンしながら正月を迎えた。 バカバカしいほど何ごとも起きずに、 ショーチューを呑んで祝った。 徐冷が終わった春先に溶解炉から、 ヒカリを無事取りだした。 <サイバー・キルン>で試行錯誤するうち、 酸化第二銅を0.02パーセントの混入を突き止め 三〇〇kgの蒼いヒカリのカタマリを 取り出すことに成功した頃には、 二〇〇一年の日付も淡々とやって来て、 このFACTORYで 「オレはヒカリをゲージツする」宣言を 呟いたものだった。 以来、ヒカリを宿す三〇〇kgから三〇〇〇kgの 硝子のカタマリをゲージツするようになっていた。 二〇世紀を引きずり 新しい方向を模索できないままの世界も 二十一世紀になり、知識人や経済の人々はやたらと <グローバル>を連発しだした。 『グローバルなんてクソ喰らえ…』 とばかりに、オレの圧倒的なローカルな蒼いヒカリ群を、 壺やコップの類しかないヨーロッパの眼を驚かそうと、 二〇〇二年、自費で山奥のFACTORYから MILANOに運び込んだ。 たまげるばかりか誉められてしまった。 二〇〇三年、パワーアップして 今度はヴェネチアに三〇〇〇kgのヒカリと 七〇〇〇kgの鉄で創ったオブジェを放り込んだ。 やっぱりたまげられ誉められてしまった。 誉められることに慣れないローカルなオレは、 ヨーロッパの<アートもクラフトも大きなビジネス> であることに飽きていた。 そしてゼニも尽きてビンボーにもどった今年の春先に、 縁あって東大寺の森本住職にお会いして、 二月堂の内々陣で千二百五十三年途絶えることなく 続いてきた<ダッタン>という火の仏儀に 立ち会わせていただいた。 プリミティブな裸火を六時間見つめた。 まだ醒めない夢のジカンである オレのゲージツに火がついて、 八月の奈良の都に二〇〇〇〇個のロウソクを点す <燈花会>にオレの巨大なヒカリ <ヒカリ繭>を参入することになった。 奈良をあらためて訪れ東大寺近辺をロケハン。 <燈花会>の若い構成員たちをそそのかし、 たちまち一〇〇〇メートルの竹、一〇〇平米の蚊帳、 作業場、宿泊所までを手配した。 奈良の夜ショーチュー、鹿のクソを踏む。 久々にエキサイティングなジカンは、 サハラ砂漠、モンゴル草原でのゲージツ遠征を想わせた。 暑い奈良に<ヒカリ繭>は夜な夜な位置を変えながら 突如として現れ、春先に若草山の山焼きの炎のなかに また現れることだろう。 一〇数トンのトラバーチンと 硝子で創りあげるオブジェにもいよいよ取りかかるわ、 <大石>の石切場から切り出した庵治石を使って、 琴平の芝居小屋<金丸座>の 一〇トンのオブジェを彫刻するわで、 今年の夏も夢からまだまだ醒めるわけにはいかない。 |
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2004-06-06-SUN
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