クマちゃんからの便り

暗黒の生成


石切り場で石を削って過ごすことが多かったうえ、
たまに予定したオレの釣行は、
台風だ、低気圧だと、海に漂ってボンヤリするジカンを
絶望的にされてしまった一年だった。

四国から戻って山梨中央病院の設置まで師走のつかの間、
千葉の外川港の船宿へ行く。
ところがここ二、三日は台風並みの大風で
明日は出れるかどうかと船長がいう。
こんなとき船宿でころがって過ごすための
本とメモノートも道具箱に入れてくる。

風は真夜中になっても海側の窓を激しく鳴らしていた。
暮れから彫り始める、大型木版画の版分けを
ノートしながらもヒラメが遠のいていった。
しかし、お世話になっている四、五十代の
職業婦人の寄り合いに<明るく閉経を迎えよ>と言い、
酔払った勢いで歳暮代わりに
ヒラメの昆布締めをプレゼントするとまで
宣言しちまった手前、
なんとしても釣らなければならなかった。

裸電球の下でノートしながらも
頭蓋内の版を彫刻して三次元にしていたのだ。
今までイメージしてきたヒカリと言う板に、
いくつも彫刻した版を加算して、
純正の暗黒というモノを生成していくのである。

夜中の二時過ぎ風がピタリと止まった。
風が変わったのだ。
この風なら五時出港までには海が治まるはずだ。
石の激しい制作で痛んでいる膝や背筋にシップを貼って、
身支度をすれば

「時間だよぉ」

階段を登ってきた宿の婆さんの声だ。
船はなんとか出るようだが
嵐続きの海底は濁って食い渋りだろう。
<明るい閉経>のことも<暗黒の生成>も
もう頭蓋から消えて、
釣り糸を垂れているだけでも充分だった。
でも底荒れは相当ひどくて
船中、誰のラインにも反応がないまま
たちまち十時が過ぎていた。

寝不足もあって、
ドラグを微調整した竿をロッドキーパーにセットして
釣座で睡魔に堕ちていた。
海と一体になってただ漂っている感じだった。
遠くで叫んでいるようだった。
その声がひとつ増えた。
船長や隣の釣人がオレのロッドを指差していた。

「当たっているよ」

気が戻るとオレの竿先が
激しく上下しているではないか。

『落ち着くんだ。
 もう一度もっと激しい喰いこみがあるはずだ』

ロッドーキーパーをはずし竿を握る。と同時に

『来たっ!』

合わせはピッタリだった。
巻き上げるが張ったラインがズルズルと出ていく。
1.5kgはあるぞ。
あと一〇メートルだ。
ヒラメの抵抗が弱り、
羨望に充ちた他の釣人の視線を感じながら
慎重にひと巻き巻いた。

フワリ、軽くなった!
外れてしまったのだ。
あんなに慎重にやっていたのに。
鈎のかかり処が悪かったのだ。世界を一瞬で消

滅させたような喪失感だ。羨望の視線が安堵に変わる。
すでに十一時半になろうとしていた。
もうそろそろタイムアップだろう。

オレは甕から大き目の鰯を選んで、
素早く丁寧に鉤をかけ孫針を背びれのうしろにつけて
海に落とす。相変わらず止まったままの潮、
底荒れの海へ落とした錘が着底したあと、
喰い渋りのヒラメに抵抗を感じさせないよう
ラインを弛ませ気味に出してやる。
望みは薄かった。

ラインを弛ませているから
ロッド先の小さな反応を見逃してはならない。
底を引きずる錘の揺れではない。
ヒラメが喰っている。
だんだん大きくなってきた、
気付かれないよう弛みをゆっくり巻き上げる。

『よしっ! 鉤まで喰った。今だっ』

リールを握りロッドを小さく強く合わせた。
ヒラメが慌てている様子が伝わってきた。

『獲ったぁ』

オレはオレのなかで叫んでいた。
デカイぞ。
無理に巻き上げればラインを切られるから、
緩めたドラグとロッドの反発力で
ヒラメの勢いをかわすのだ。
3kgはオーバーだぞと確信していた。
海の底を引っ剥がしたような褐色が見えてきた。
船長が大きなタモ網で掬い取った。
船中はさっきより羨望に満ちていた。

出刃包丁を砥いだ。
五枚におろす。
美しい脂がのった大きな白身の柵四本と、
立派なエンガワ全部を利尻昆布でしめた。
彼女たちの口に入るころには
琥珀色した海の宝石になるはずだ。

オレが喰ったのは、モンゴル岩塩をふって焼き、
宮崎産のカボスを絞っただけの
アツアツカリカリ皮だけで、
立ったままアイラー島の
シングルモルト・ウィスキーを飲む。
強い酒を強く呑むオレの舌から染みこんでくる
極北のスピリッツに酔いながら、
純正の暗黒のイメージが湧いていた。
それにしても奇跡の海から引っ剥がして、
酔払った戯言を果たせてヤレヤレだわい。

出刃を砥いだ砥石で、
暗黒を紡ぎだす鋭い爪先になる刃である彫刻刀も砥いだ。



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2004-12-12-SUN
KUMA
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