クマちゃんからの便り |
まだ雪も積もらない甲斐駒の幾重にも山岳地帯は、 青い春霞のように重なっている。 蒼すぎる空を見上げると、 鼻の奥がむずむずしてきて盛大なクシャミをぶっ放した。 合併してついに町になってしまった元武川村の朝である。 師走に入ったせいか、標高五〇〇メートルにある FACTORY前の県道も、 往き来するヒトも工事用のトラックもほとんどない。 アカマツの枯れた針葉に覆われた敷地内の植物群は 越冬態勢だ。季節はずれの温暖に、 蟄居気味だった仕事場から這い出すことにした。 鞄に入れ放しだった上海土産の茶葉は、 一粒がパチンコ玉より小さな蕾らしい。 正式な愉しみ方が分からないまま三粒入れ お湯で満たしたジャムの空き瓶にブリキの蓋を締めて、 ノートと一緒に外に出て、 アカマツ林のはずれに置いてある石切場で割りだしてきた 大きな直方体の石に腰掛ける。 間抜けなくらい蒼い空の一部分が歪んで見えた。 疲れ目だろうと気もせず、 そこにヒラメの海を重ねてノンビリ見上げているうち、 奥まで乾きはじめていたオレの口も間が抜けていたはずだ。 シルエットになって落ちてくる雪や雨を、 いつまでも舌を出した口で吸い込んでいるオレは、 近所でも評判の馬鹿ガキだった。 どうしてあんな虚しいことに 夢中になったのかはもう思い出せない。 今でも空を見上げて 目眩(めまい)に似た気分を愉しむこともあるが、 乾くほど口が開いてしまう癖は治っていない。 親からも家からも重力さえからもの 飛行だったのかもしれない。 うっすらと色づいたガラス瓶の湯のなかで、 小さな赤い花が開きはじめていた。 モンゴルに向かう長距離列車の コンパートメントで同席した中国老人が、 手にしていたネジ式の蓋がついたガラス瓶の中で、 揺れるたび無数のひる蛭みたいなモノが絡み合っていた。 老人は車掌から何度もお湯を注ぎ足してもらい、 車窓に過ぎ去る変化のないの景色に眼をやっていた。 ときどき蓋をずらした吸い口から ゆっくり飲んでいる液体が、 不気味で不潔な印象だったが、 旅する中国人の茶の愉しみ方だったのだ。 オレも今頃になって、あの老人の仕草に習い 蓋を少しづらし蕾が出ないようにして茶だけを啜った。 醗酵した儚い酸味が心地イイ。 一個ずつ蒸して乾燥させた茶葉の小袋と、 このガラス瓶さえ帯同すれば、 コンビニなぞでお湯さえ貰えれば 浮遊者の茶の嗜みというモノだ。 シンプルな野点が孤独をいっそう豊かに 醗酵させていくようだった。 足元の作業靴からFACTORYの方に向かって クッキリとした影が長々と伸びていた。 ノートの影がせわしなく捲れる以外は、 全てが止まってしまったような静けさのなかで、 久しく意識することもなかった自分の影を眺めた。 頭蓋骨の頭頂あたりからタバコの煙をわきたたせて 己の影と遊んでいた。 しかし、オレが吐く煙の影が 少し遅れたタイムラグがあるように思えた。 いや、このシルエットは これからオレが吐く未だ来ぬ煙の影かも知れない。 さっき空に漂っていた歪んだカタマリが ジカンまで歪めたのか。 影は確かにオレの足元に密着していた。 影の頭頂あたりに黄色い花が、 五、六個かたまって咲いていた。 けなげな光合成や気温のジカンメモリーに従う タンポポの群れまで自分の影を伸ばしてみた。 スキンヘッドのあたりでタンポポのティアラになった。 蕾のお茶を啜る。頭蓋内に、 ガキの頃メリヤス編みに隠れて夢中になっていた ゴミ箱のシーンが大写しになり、ゴミ箱の前の通りは、 近所の子供が三角ベースや缶蹴り、 軍艦ごっこなどをする広場になっていた。 虫喰いのピンホールから見ていた<影踏み>を思い出す。 記憶が逆遠近法になったのだ。 鬼に影を踏まれてしまった者が、 鬼になってしまうという単純な遊技に みんな夢中になって興じていた。 メリヤス編みに夢中のオレは、 滅多に参加することはなかったし、 オレだけの秘密基地であるゴミ箱の暗闇を 誰にも見つかりたくなかったのだ。 三学期が始まる頃、継母が内地へ去ったオサムは、 自分の影を誰にも踏ませない達人だった。 社宅の影に紛れ込んだり、 影が伸びている北へ逃げる足も速かった。 影を踏まれたくないばかりにあの世まで走り去ったと、 最近人伝(ひとづて)に聞いた。 お茶を飲みきると、陽が甲斐駒に隠れて、 景色の影も薄くなってきたからオレの野点もおしまいにした。 |
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2004-12-15-WED
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