2024-12-21 |
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・「気晴らし」というのは、あんまりいいもののようには語られていない。「まぁ、気晴らし程度のさ」みたいな、ほんとはもっと「やったほうがいいこと」があるのに、しょうがなくとりあえず消費している時間のような言い方。
でも、「気晴らし」をなめちゃいけない。まずは、「気晴らし」をつくっている人がいるのだ。「気晴らし」とは、なにかしらの創作物、客に問いかける「出し物(コンテンツ)」なのだ。軽いお笑いを見て「気晴らし」をする人がいるとき、その軽いお笑いをつくっている人がいる。そして、その軽いお笑いのおかげで、見ている人の人生を変えるようなことはないにしても、なんとなく気が晴れたとしたら、すばらしいことだ。「へただなぁ」とか思わせていらいらさせたら、残念ながら、そのお笑いは「気晴らし」にならなかった。そういうことなのだ。
ぼくも、よく「気晴らし」を求めている。ドキュメンタリーとか、「いい作品」みたいなのは困る。あんまり「これはすごい」とか感心させちゃだめなのだ。それじゃ「気晴らし」にならない、気が晴れないのだ。映画やドラマでも、ぼくらの立っているこの現実と「地続き」に思えるようなものは「気晴らし」に向かない。アクション映画とかがいいのは、地続きじゃないせいだ。かといって、「どうせ気晴らしだから」と、あまりにも都合のいい「娯楽大作!」みたいになると、なんだかごまかされているような気がしてだめなのよ。そういう意味じゃ、韓国のドラマとかはちょうどいい。背景や設定とか環境とかが、日本と似ているようでちがう。登場人物の行動とかセリフとかも、やっぱり日本じゃない。その「ちがう」があるおかげで、「気晴らし」になるのだ。最近ヒットしているネットフリックス日本発の作品『地面師たち』とか『極悪女王』なども、「いい作品」みたいにならないような距離をつくっている。どういえばいいのか、いい意味での「浅さ」が大事なのだ。だからこそ「気晴らし」になるんだよなぁ。頭のなかに風を送って余計な雲を晴らしたいなぁ。プロ野球のない冬には、いつもこんなことを考えている。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「いい作品」じゃ晴らせない、ということも言っておきたい。