2024-08-30

・じぶんというのも「自然」である。わかっているようなつもりになっているけれど、解明されていないことばかりの深い森である。「どうして、おれはこんなことを感じちゃうんだろう」、「なんで、こんなことにこだわるんだろう」とか、いったん考えはじめると、ちょっと謎が解けたりもする。

先日、とんかつを頼むときに、さんざん悩んで決めた。ロース定食なのかヒレ定食なのか、かつ丼かヒレかつ丼か、どれもいいところがあって、どれも食べたい。いざ決めて注文してしまったら、頼まなかったほうの「おいしさ」が味わえないことになる。「本気になったらロースもヒレも食えばいいんだよね」と、無理だけどねと思いながらぼくが言った。連れのY下さんが、「もうひとつをシェアしてもいい」と「シェア」なんてことばを使って言ったのだが、それについて、ぼくとK持さんはぜんぜん乗らなかった。「シェアはいやだ」「わたしもそれはいや」。料理を分け合うこと自体を嫌がっているのではないが、なんだか、たとえばロースを頼んで、もうひとつのヒレを分け合うというのはやりたくない。なんとなく、それで満足するような気がしないんだよなー。ここで、それはどうしてなんでだろうと考えたわけだ。

深い神秘の森のようなじぶんのこころに分け入った。そして、暫定的にだけれど、結論が出た。「ヒレを選べばロースに、ロースを選べばヒレに」はいはい、片方を選べばもう一方に?「未練が残るのがいいんだよ」。食べなかったあっちもおいしいんだよね、と思うところに、おいしさの陰影がつくのである。つまり、食べなかったほうの幻のおいしさまでも、実は味わえるということなのである。そして、満腹しても満足しきらないで帰る。「そうすると、また食べに来たいと強く思うだろう。やり残した感じこそが、満足に少し足りない未練こそが、とんかつの醍醐味なんじゃないだろうか」自らのこころという深い森のなかで、ぼくは何を見た? ひたすらに未練を残しながら、「次がまたある」と思い、何度でも繰り返すことの歓び、これこそが人生である、と。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。未練は大事です。期待も大事です。本番ももちろん大事です。

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