【嘲笑う】
あざわらう

[例文]
極度に神経を張りつめていたぼくは、背後に生じたわずかな物音に気づいた。なにか、葉っぱのすれるような音。視界を広く保ったまま、じりじりと後ずさりする。そして、周囲の様子をうかがい、意を決して音の生じたあたりの茂みを覗き込む。猫?‥‥しまった!視線を転じようとする刹那、ぼくの聴覚は土を蹴るスニーカーの音をとらえる。それは、ものすごい勢いでこちらへ近づいてくる。ぼくは茂みの陰からもといた場所へ戻る。全力で戻る。開けた視界のなか、ぼくは見る。束縛され、助けを求める数人の輪に向かって、一直線に近づいてくる勇太の姿。迎える歓喜の囚人たち。むろん、ぼくはすでにトップスピードに入っている。ぼくと勇太のあいだに、直立する缶がある。両者はそこへ向かってぐんぐん距離を縮めている。間に合う、と思ったそのとき、砂利を踏んだぼくの右足はインサイドへ流れ、残った推進力を持て余して上体は前方へ出る。コンマ数秒、ぼくの肉体は乱れた重心を本来の状態に戻そうとさまざまな調整を試みるが、歩幅は修復不可能なほどに広がりやがてぼくは前のめりに倒れる。あっという間に視界が黄土色で満ちる。てのひらに小石の食い込む感覚。あごに走る痛み。否、痛みはもう少しあとからやってくる。そして、砂埃の向こうにぼくはすべての顛末を見る。歓声のなか、残された最後の希望である勇太は、移動のエネルギーを右足へスムーズに移し、土を噛むぼくをあざわらうかのように、高く高く、蹴り上げた。乾いた金属音。青空へ、回転しながらのぼっていくスチール缶。午後の陽射しを受けてきらりと光る。解き放たれ、野に戻る囚人たち。率いるは、踵を返した勇太の雄々しい背中。おさまる砂埃のなかで、ぼくにとってはなにもかもスローモーションの出来事。

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