【柔和】
にゅうわ
[例文]
白石さんは背が高く、髪が細く、色が白かった。振る舞いはどことなく茉莉花茶を連想させ、三島由紀夫を読み、いつも僕に背を向けて眠り、うれしいときはいつも照れてそっぽを向いた。少し右に傾いた独特の文字を書き、「あなたは絵をやめるべきではない」と僕に言った。内側に虫の姿を封じ込めたまま長い長い時間を超えていく琥珀のように、僕は白石さんの思い出を抱えたままで生きてきた。彼女と僕はきっかり2年の時をともに過ごし、お互いがはじめから予感していたようにそれきり二度と会うことがなかった。白石さんの母親から送られてきた小さな小包には、古びた辞書が入っていた。どうやらそれは僕の辞書だった。借りっぱなしになっていることを気にしていました、と、彼女の母親は書いていた。それでも僕は泣くまいとしていた。「にゅうわっていう言葉、いつも読めないんだよ」突然よみがえってきた白石さんの声に導かれて、僕は古い辞書のページを繰った。その言葉はいつか彼女がひいた褪せたオレンジ色のマーカーで囲われていて、すぐそばの余白には新しいインクの文字があった。「ありがとう」とそこには書かれていた。細くて、少し右に傾いた、彼女独特の文字で。僕はしばらく泣き、短く眠り、起きてシャワーを浴びると、茉莉花茶をいれ、絵の具を溶いた。いま、僕は描かなければならないと思った。やがてキャンバスにひと筋、あの夏の日に島から見た水平線のような青が伸びた。(終)
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