糸井 |
昔、ショックを受けたことがあって。
『グッド・モーニング・バビロン』という、
これは映画です。
アメリカのものなんですけど、
ハリウッドに、イタリア移民の貧しい兄弟が
就職してきたた話なんですよ。
就職したんですけど、
もともと左官屋さんかなんかだったんで、
映画の舞台美術みたいなものをつくる仕事で、
そのうちの兄弟のひとりが、女の子にほれるんですね。
大部屋女優みたい女の子に。
お兄さんのほうがほれたんだけど、うまくいかないで。
結局悲しくて、一人で森の中に入っていっちゃうんですね、
ふられて。行方不明になっちゃって。
みんなが、どうしたんだろうと思っていたら、
森の中からシンバルの音が聞こえるんですよ、ジャーンと。
ある規則でシンバルが鳴るんですよ。
何かというと、彼はイタリアにいたときに好きだった
オーケストラのシンバルの譜面のとおりに、
自分で頭の中でオーケストラを鳴らして、
シンバルのパートを演奏しているわけなんですよ、
悲しみから抜け出すために。
ぼく、それを見たときに、これにはアメリカ人、
コンプレックス感じるだろうなと。
つまり、職工さんの一人が、
長い組曲だかオペラだから知りませんけど、
自分の譜面でシンバルだけを鳴らしている姿というのは、
こいつら、すごいコンプレックスで
この場面を描いているんだろうと思って。
同時に、僕の貧乏くささがそこで洗い出されちゃって、
泣けましたね。
そんなのを覚えてて、こないだオペラに行ったんです。
日本人で見ている人はやっぱりガツガツと
全部吸収して栄養にしようと思って見ている人が多くて、
寝たり、起きたり、ワイン飲んだり、お見合いしたりという
オペラの観賞にはなれないんですよ、やっぱり。
最大漏らさず吸収しようと思っている人たちが
舞台を凝視してて、やっぱり貧乏くさいんですよ(笑)。
あれ、きっと、現地でずーっと習慣的に見ている人だとか、
江戸時代に弁当つかいながら歌舞伎見てた人だとかの、
舞台の世界との親和性みたいな、
とけ込みぐあいというのは、
僕らみたいな育ちの悪い人間には、
どうしたって追いつきやしない。
それをまねするとみっともないから、
おれはもう貧乏くさく。(笑)
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吉本 |
それはそう思いますよ、僕もね。
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糸井 |
瞬間的にガツガツ見て、
ああ、豊かってこういうものか、いいなって。
でも、そこから先はつき合えないので、
敬して、座布団の上に飾って見てますよと。
アメリカ人全体に僕らが妙に共感する部分って、
あの貧しさに、共感するんですよ、たぶん。
それは、きっと吉本さんの詩の中にある
世界が倒立した感じとか、
そういうものと近いんじゃないかと思うんですよね。
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吉本 |
なるほどな。
そうか、アメリカはそうか。そうだな。
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糸井 |
全員がそうなんですよ、きっと。
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吉本 |
うん。ばかに大規模な装置とか、
お金かけて映画でもつくって。
それだけど、人を驚かすだけで、
劇場出たら、映画館出たら、ぺろっと忘れたっていう、
そういうのが多いですもんね。
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糸井 |
時々移民の監督だとか、
ポランスキーだとかなんかが入ってくると、
その都度、新しい血が入ったり、
マイノリティー系の人たちがハリウッドの中に
入り込むことで、この豊かさって
再カタログ化できる可能性が出てるよっていうところを、
ちょこんちょこんと表現して、みんなが利用している。
それを循環させて、あの国って、
一番強いものを、
どう言ったらいいんでしょう、交配していくんですね。
ディズニーランドにこの間、四、五日間会議で
呼ばれて泊まってたんです。
これがね、大人になってからあそこにずっといると、
あの張りぼてというもののすごさを・・・
息がつまるほど「張りぼて!」なんですよね。
ほんとに息がつまるほどよくできているんですよ。
楽しむためのマニュアルをどうつくっていくかというのを、
ほんとにもう、意識できる部分は全部やる。
だけど、やっぱりそれを建てた場所って、
人工からいちばん遠いような場所、
土地の安い田舎に建てているおかげでできているんです。
もしディズニーランドにをニューヨークにつくったら、
とんでもないフェイクっぽさがばれちゃうんですよ。
だから、だれも開拓しやしないよというような、
空は青いに決まってるじゃんという場所に
あの人工の大国を建てることで、逆に、
あれがバランスをとっているんですよ。
何がすごいかといえば、
降ってくる現実の雨がすごかったり、
すぐそばを流れている川がすごかったりでして。
どれも、人工でないものでしょ。
実は、あそこに建てている張りぼてって、
みんなでウソをばれないように
約束し合いましょうねというしくみなんで、
そういう意味では、最高によくできているんですけどねぇ。
釣りしたんですよ、あそこで。
そしたらね、変な感じなんですけど、
釣れた魚まで張りぼてじゃないか
というような疑いを持っちゃうほど、
ガイドのおやじまで張りぼてなんですよ。
すっごい浅い知識で釣りのガイドしているんですよ。
情報が張りぼてっていうか、ね。
これは、アメリカに勝つチャンスはあると思った。
何だか知らないけど、
あいつらは、ここをつかれたら嫌だろうなという感じ。
それは、マイクロソフトの社長がおしのびで
日本に来てらんちき騒ぎしている
ってウワサを聞いたときもおなじだったんだけど。
このへんがアメリカ流の限界だなと思った。
クリントンがやっている不倫疑惑がどうのこうのって
話題になっていますけど、
ああやって人間のどうしようもない部分を、
やっぱりあいつらも解決できない。
ケネディとマリリン・モンローの話もそうだし。
でも、登場してくる女の子たちというのが、
どうしても人に自慢しやすい記号性を持っていますよね、
マリリン・モンローであるとか。
価値が量ではかれるような女の子がでてくる。
あそこでフルシチョフ夫人みたいなものが
混じり込むとアメリカは強いなって思うんですけど。
どうしても、ばれても「ナルホド」なところで、
情事までやりとりしている気がする。
エロチシズムの想像性も意外と単純ですね。
ですから、クリントンのやったことの、
おお恥ずかしいということも、
あ、やるだろうなということしか書いてないんですよ。
そこでもう一歩踏み込んだいやらしさとか、
これは変わったことやるなとか、
あるいはセリフがとんでもなくばかばかしかったりとか、
そういうものになれば、僕は、
逆にアメリカの強さを感じるんです。
スキャンダルを暴かれたときにも、
きれいにはまっちゃうんですね、ジグソーパズルみたいに。
これは、おれら、まだ日本人、
ひょっとしたら、もっとスケベだぜみたいな。
あのアメリカの「わかりやすさ」への徹底ぶりには、
ほんとにあきれるくらいびっくりしますけど。
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吉本 |
そうですね。僕も感心しました。
感心したって、ああいう
ばかばかしいことが問題になるのは
不健康だというふうに思って、一応は思ったけどさ、
だけど、とうとう何というか、
ドレスに体液がくっついてたとか、
インターネットでみんな流してとか、
そこまでやるのは、
やっぱりアメリカというのは大したもんだよという
感じを持ちましたね。
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糸井 |
人工的なことでできることは
全部まかせとけという。全部NASAスタイルですよね。
NASAであり、ペンタゴンであり。
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吉本 |
今、糸井さんの言ったことっていうのはさ、
アメリカ論といいましょうか、
アメリカ論としては、もう大変優秀なあれに属しますよ。
つまり、僕はいつでも不思議でしようがないのは、
アメリカの学校に行って帰ってきたとか、
研究に行って帰ってきたというやつがさ、言うアメリカは、
南部行ったって向こうとは違うしさ、そういうのは別々で。
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糸井 |
行った場所で違いますよね。
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吉本 |
そういうのは書いてあることはあるんだけど、
アメリカというのはどうなんだということを、
ばっと人にわかるというふうに言えている人っていうのは
そんなにいないんですよ。
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糸井 |
(笑)。
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吉本 |
だから、今のはものすごくいいあれになって、
アメリカ論としては非常に上等なものじゃないでしょうか。
僕は、一つだけいろんな、
僕にはふさわしくないんですけど、学問的なというか、
研究的なことで一つだけあるのは、
とにかくアメリカというのは、
こうじゃないかというのは、
とにかく何かを研究してやっちゃうというときに、
もうヨーロッパとか、日本もそうですけれども、
どう言ったらいいんでしょうね、このことと、
やるべき対象と同じ次元と言ったらいいんでしょうか。
つまり同種類のというか、同じ次元の同じ質に入るような
文献とか調査した結果とかは、ちゃんとそれでないと、
要するにこれは参考資料にしないという、
しないというか、ならないというか、
そういう考え方ってあるんですよね。
日本もヨーロッパもね。
だから、非常にきれいで整って、
もうほんとに建築的に文献も整っていて、
こういうのを、系統をたどっていけば、
たどって少し研究するとこういうのができると、こうなる。
そういうふうにしか思えないんですね。
だから非常に整っていて。
そうすると、この対象自体までも
静止した対象というふうに見えちゃうんですね。
ところが、アメリカというのはそうじゃなくて、
これを、このことを学問的になし遂げたいといったら
何でもいいんですよ。
つまり、それこそ
ディズニーランドで発見したことっていうか、
気がついたことでも何でもとにかく、
もう文献としても参考資料としても全部援用してね、
とにかくやっちゃえばいいわけですから。
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糸井 |
交配オーケーなんですね。
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吉本 |
全部、何やってもオーケーです。
そういうふうに遊びの中で発見したことでも
何でもいいんですよ。
週刊誌に書いてあったというのでも、
ちゃんと文献になるし、参考資料になるしね。
それでやっちゃうという。
とにかく、しかし、やっちゃいますね。
これは、どんなあれでもやっちゃう。
それは、アメリカ側に感じたことがあって。
これがアメリカかっていうふうに
思ったことがありますけどね。
日本のとかヨーロッパのは、それに比べると
研究対象からしてもおとなしいんですよね。
とまっている的を、同じような手段を使って
ここへ到達するみたいな、
そういうやり方しかしないんです。
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糸井 |
非常に律法的ですよね、アメリカ以外がね。
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吉本 |
そうですね。アメリカというのは、
それはもう構わないんです。
何でも、遊びとか週刊誌とかテレビでも
何でもいいんですけど、
そこでこういうことが言われていた、
これはこうだというのがあった、
それは参考資料なんですね。
ちっともそれは学問としておかしくない
ということになるのね。
ヨーロッパとか、日本もそうですけれども、
そんなことしたら、こんなものは学問に入らないと。
これは言いかえれば、例えば例としては、
中沢さんがさ、中沢新一が東大の先生の候補になって、
なれなかった理由なんですよ。
あの人は、そんな、学問をめかしてないから。
めかしてないけど、中身で言えば、相当高度なことを
高度なあれをやっているんですよ。
それはだけど、要するにそういう学問の研究、形式の中に
ちっとも入ってないでしょう。
だから、あれを東京大学なんか毛嫌いするんですよ、
ああいうのはね。
だから、ちゃんと、つまんねえ研究でも、
この研究は何々の目的を持って、
何々の目的でもってこういうふうにやった
というふうにいって、さて具体的にはこうでこうであって、
それでやった、って。
それで結論はこうだった、と。
こういうのを、こういう形式が整っていないと
学問だと思わないんですね。
だから、そういうものになれているから、
中沢さんみたいな人はなれるわけないんだよ。
そうすると、上野千鶴子というのは
かたちになっているわけですよね、
中沢さんのかわりみたいになっている。
どうしてかといったら、もちろん、
これは言うべからずのことなんでしょうけれども、
それも言っちゃえば、要するに上野千鶴子は
共産党にはうけがいいんですよ。それが一つある。
それから、もちろんそういうことは抜きにして、
学問的なことだけで言うと、
上野千鶴子はちゃんとアメリカへ行って勉強しましたけど、
ちゃんとしたそういう形式の論文がちゃんとあるんですよ。
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糸井 |
様式もオーケー。
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吉本 |
様式がオーケーな論文があるんですよね。
学術論文めかしたという、そういうのがあるからね。
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糸井 |
どこで発表するかはもう
決まっているわけですよね。
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吉本 |
そうなんですよ。
だから、もうそれがあれば、
あって、それなりの力があれば、
それはもう通るわけです。
だけど、中沢さんがどういうふうにあれして、
僕らが見ても、別に学問だと思わなくても読めるわけだし、
そういうあれだからね。
それは彼のあれだから。
それだったら、ちょっとあんなのはだめだと、
学問じゃねえと、そう言われたんだそうですけどね。
学問じゃねえなんて言われたんだって。
だけど、あの人はレベルが高いですから
決してそうじゃないんだけど、
ともかく様式がやぶれかぶれというか、
どうしてもいいというか、
いわゆる評論でいいんだという感じですよね。
だけど、中身はそうでなくてというようなことで
あるわけなんだけど、それは通らないですね。
それは典型的にそうで、それはヨーロッパもそうですけど、
あれはアメリカでは通るんですね、それは通ります。
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糸井 |
そこが僕らの
アメリカに感じる魅力のほうなんでしょうね。
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吉本 |
そうでしょうね。そう思います。
今言われたことはものすごくいいアメリカ論というか、
ものすごくはっきりして上等なアメリカ論だと思いますね。
僕はそう思いましたね。
そんなことを言う人、めったにいない。
それだけつかんだという感じの人っていないんですよね。
僕は、あるとき、アメリカっていうのを、
日本の留学した人たちがどういうふうに
言っているかなと。そうしたら、
栗本(慎一郎)さんみたいに南部の大学に行った人と、
こっちの人とは違うのね、
こっちの西海岸のほうの大学行った人とは。
アメリカについてのあれが違うんですよね。
だから、ああ、おやおやと思ってね。
統一的なアメリカというのはだれがあれしているんだと。
それは僕はちょっと見たことがないですね。
だから、今の一番、糸井さんの今の一番まとまってます。
僕が聞いた限りでは、一番まとまったアメリカ論ですね。
そうだと思いますね。よくわかりますね。
そういうところはよくわかります、
僕はそうだと思いますね。
そういうことと、あとは僕は、
アメリカってあんまり行ったこともないからあれだけどさ、
戦争中、戦争相手のアメリカっていうのと、
それからこっちが占領されたときのアメリカ
っていうのがあるんですね。
僕のアメリカというのはそれでつくられているんだけど、
戦争中のアメリカっていうのは、
そこから何を学んだのかという、
学んだのかしゃくにさわったのかわかりませんけど、
それはとにかく、何ていうのかな、
こんな島・・・何でもいいんですよ、
硫黄島でもなんでもいいですけど、サイパンでもいいけど、
こんな島で、たかが一万人足らずの人が
無理してひしめいて暮らしている、
そんなところを上陸して占領するのに、
とにかくすごい砲弾とかさ、
艦砲射撃とか爆弾とかめちゃくちゃ落としてさ、
もう何も余地はどこにもねえ、
当たらない余地はないという。
そしてこうやって占領しちゃうんだから、
それで上陸するんですよ。
日本のほうはそれでもってほとんどつぶされて、
何百人しか残らない。
洞穴に残ってたぐらいしかなくなっちゃうわけですよ。
もうそのやり方を見ていると、
もういったんやる気になったらアメリカというのは、
人がどう言おうが、人道に反するとか言おうが言うまいが
やっちゃうぞという、そこがやっぱりアメリカですね。
今でもそういうところありますけどね。
今テロ集団に大使館にロケット……。
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糸井 |
全部壊しましたね。
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吉本 |
壊しちゃうんだからさ、
あれむちゃくちゃと言えばむちゃくちゃですよね。
でも、ああいうのを日本人というのは、
日本人の人は甘いから、
あんなことはよくないんじゃないかって、こう言うけど、
確かによくないんですけど、だけど、あれなんだから、
自分らのあれもテロのあれにやられた、
とにかく人が何と言おうとやっちゃえという、こういう、
それはちょっとアメリカですね。
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糸井 |
どこまで戦闘員かという考え方がやたらに
広いんじゃないかということですね。
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吉本 |
広いでしょうね。
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糸井 |
例えばの話、武器、弾薬をつくる女工さんが
仮にいたとしたら、その人たちが
たくさんつくるということは直接じゃないけど、
戦闘員ですよね。
そういう村ぐるみというか、国ぐるみというか、
その発想を発明したのは、組織論という機械のかたちで。
例えばの話、小さい島があって、
日本が占領しようというのに戦略を立てたときには、
方法を考えるんじゃないかという気がするんですね。
将棋の駒で言えば、この数以上に駒はないんだから、
これをどう効率的に人死に少なくして、
あとの使い道を考えて占領しようと考える。
でも、それをやるのは、
駒の数が限られているときの発想で。
でも、後ろに幾らでも武器、弾薬があって、
それをつくる人が協力してくれるとしたら、
そこまで全部利用すると、
おっ、弾は余っているから幾らでも撃てばと。
今、僕らの、話は飛びますけど、
ビジネスの社会が全くアメリカになっていますよね。
つまり、どこまで戦闘員かということでいえば、
技術者が三人でできますよということがあったとしても、
いや、後ろに二百人いますから、
これを全部使えば、天才じゃなくても
三人も頭いなくていいですから。
大勢で攻めれば何とかなりますよというやり方をすると、
これ、勝つんですよね、やっぱり。
どっちが勝つかというのは、
やっぱり大きなシステムを全部動かすというほうが
勝ちやすいんですね。
これは「巨大なゲリラ部隊」ですよね。巨大な。
今、アメリカニズムみたいに言われているものって、
どんどんそっちに行っちゃうんだけど、
失われるものの分量というのもやっぱりすごく多くて、
その人でなければいけないということが、
ご褒美のあげ方もわからなければ、
彼がやっていく理由もわからない。
そうすると、やっぱり旗を一つ立てて
シンボルを強く持たせないと
集団を統合できないというところで、
おそらく今のアメリカが
グローバルだと言い張っている体制が、
次のステップでモチベーションがばらばらになって
壊れるんじゃないかなと。
そうすると、やっぱりシンボルをつくってまとめるような
戦争ももうつくれないし。
そうすると、冗談じゃないですけれども、
宇宙戦争のイメージだとか、巨大隕石だとか、
そういうバーチャルなものだとかになっちゃう。
多分、モチベーションの不在で破綻する時代が
またくるだろう。
今のまんまだと、ほとんどの人が
言うことを聞いてないんですよ。
一部分の人たちが幻想のアメリカで
大きなシステムを動かしているけど、
ディズニーランドでも、
それをつくってビジネスしてる側でなく、
風船を持って歩いているお客の側、
ダイエットなんて考えてもいない太った夫婦は、
何かよくわからないけど、
グローバルどころじゃないわけで。
今何ができるのというところで生きているわけですから、
ここに随分スキができているなというのが
ぶらぶら歩いて見てきた僕の印象です。
モチベーションをつくれないというのはね。
つまりじゅうたん爆撃するときに、
工場で弾薬つくっている人が、
ちょっと前だったら星条旗ふることでまとまれたんですね。
兵隊さんが帰ってきたときに、
お帰りなさーいって旗をふっていた。
それがつくれなくなったら、
やっぱりあの巨大な大国も限界あるだろうなと。
やっぱりじゅうたん爆撃的に
大きい富をねらうみたいな世界戦略って、
もう終わったなと、終わるしかないかなと。
まだそのプロセスにいますけどね。
ですから、マイクロソフトが大体どっかで行き詰まって、
あれはまるで政府みたいな組織ですから。
そのときに、次に何がくるかというのを、
みんなが小さい市場を分割し合って、
ぴーちくぱーちくやり合って、
一番楽しい人が一番勝ちだなって、
そういう時代だってきっと、
案外早くきちゃうんだろうなと。
|
吉本 |
なるほどね。
いや、それはとてもおもしろいですね。
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(今回は、ここまでです)
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