雑誌『編集会議』の連載対談
まるごと版。

2.田坂広志さん篇。

第1回 「届けたい」「伝えたい」のやるせなさ

雑誌「編集会議」上で連載される月一度の対談と
おんなじ録音テープを使って、雑誌とは別に
ほぼ日が勝手に編集するというページです。
前回のアップル原田さん篇では、
ほぼ日は、「気持ちよさ」に焦点をおきましたが、
今回は、多摩大学教授でソフィアバンク代表の
田坂広志さんとdarlingとの長い長い対談を、
「ことばで伝えること」に焦点をおいてまとめました。

田坂 偏差値の能力と
これから求められる能力とは、
全然違うような気がしています。
シンクタンクで人材面接を随分やったのですが、
東京大学の理学部でドクターだというような方が、
「どうだ、俺が最適だろう?」
という感じで面接に来られるんですよ。
・・・一番向いていないタイプなんですよ。
糸井 そうですね。
固定して考えたいタイプのひとですからね。
田坂 シンクタンクって、
どちらかと言うとやわらか頭でしょう?
タレント系なんですよ。

東大はやはり偏差値の一番高い大学ですから、
「答えのある問題」に対しては、
処理がものすごく早い。
ところが「答えのない問題」に戸惑うひとが多くて、
「答えを創造する」ことができないんですね。
それに、理学部のドクターとなると、
理学部ということで実学から離れているのと、
大学院に行ったことで、
5年間余計にスポイルされてしまっています。
まあそういう感じで、向いていないんですね。
糸井 そうか、だめなんだ。
田坂 これからは、シンクタンクにも
業界系のひとが来たほうが、おもしろい。
糸井 そうですよねえ。
そういうひとのほうが、
ものごとを動きで見ていますからね。
田坂 これからの時代は、シンクタンクは、
シンク(think)ではなくて、
フィール(feel)、フィールタンクになるんです。
実は、直観や洞察やセンスといった
感覚で勝負をしているんですよ。
糸井 よくわかります。
田坂 だから糸井さんは、
「おいしい生活。」の頃から、
ずっと、言葉本来の意味での
シンクタンクをなさっているんですよ。
私が10年前、日本総研という
シンクタンクをつくったときに、
「そうだ、シンクタンクに転職するのなら、
 この本を読んでおかなきゃ」
と思ったのが、糸井さんの『萬流コピー塾』。

あれを真面目に読んで、
これからのシンクタンクは、
言霊の時代だと思ったのですね。
糸井 田坂さんの本は、枝葉に入っている知識を、
もう一度わかりやすい引き出しに
入れなおしてくれるじゃないですか。
研究者は、どうしてもひとりで
業績として突出したくなりがちですから、
わかりやすく語りなおしてくれる役をするひとが、
あまりいない。
突出するのを我慢して、
引き出しに容れ直して商売をすることを、
田坂さんはなさっていますよね。
田坂 それは、すごく、私のテーマですね。
「編集の知」と言われる時代でして、
交通整理に徹するほうが、
意外とクリエイティブだったりする。
だから私は、司会の役がすごく好きなんです。
実は一番おいしいポジションですから。
「なるほど」と人の話を聞いているようで、
実は裏技を使って、物語をつくっている。
司会をやると、
「裏地で勝負した」みたいな楽しみがあるんです。

見た目はパネリストの先生方がかっこいいし、
お見事ですけども、
全体で語られていることの流れを
物語として詰めていくのが、
司会のスキルなんです。
そういう意味で司会や編集は
アートだからおもしろい。
マニュアル化できないアートなんですよ。
糸井 その時々にどこに照明をあてながら
舞台演出をしていくか、が司会ですよね。
それぞれのゲストは、武芸者です。
武芸者たちの勝ちたい動機を失わせないで、
思い切り剣を振りまわさせて
ショーアップしていく、
これは、エディションの原点ですよね。
「ポンペイ展」を企画した学者の
青柳先生というかたがおっしゃったのですが、
コロシアムにおける格闘家を、
誰と誰を対戦させるかのマッチメーカーが、
エディションのはじまりだと言うんですね。

今田坂さんがおっしゃったのは、
まったくそうじゃないですか。
誰と誰を戦わせて、
どういう決め技を見たいか、ですよね。
田坂 本当にその通りです。
もともと、「論者」と名前のつく方々は、
自分の個性があり、論があり、
それを強く出してなんぼですから。
壇上に上がるとそういう方向を
各自が出すので、それはもう、お見事です。

しかし、ここで重要なのが「弁証法的な場」です。
Aさんが「A」と言い、
Bさんが「Aではない」と反論したとします。
ところが、司会がうまくモデレートすると、
その「AかAではないか」のふたつを超えた、
もっと高いレベルでの何かが見えてくるんですよ。
だから議論というものは、
おたがいの言い分が反対であるようで、
実はもう少し目線が上がっていくように努めれば、
結構、丸くおさまってしまう。
それがすごくおもしろくて。

複雑系の研究での
「カオスのエッジ」は、すごく好きな言葉です。
最も生命的な現象というのは、
カオスのエッジに発生するというものです。
完全な秩序でもなく、完全な混沌でもない、
そのちょうど中間の、
さじ加減のいいところに、
生命的な現象が生まれる、というものです。

議論にもそういうところがあって、
あまりにも拡散し過ぎてもだめだし、
あまりにも「文部省推薦的」な結論もだめだし、
ちょうどさじ加減のいいところで
行わなければならない。
その細いエッジみたいなとこに
話題を持っていければ、
聞いている人々の満足度が高くなる。
文部省推薦の授業を聞きに
来ているわけではないから、
「AがBだからCです、以上」
というだけではなくて、
実は共同幻想の場をつくっているんですよ。
聴衆が帰りのアンケートで、
「おもしろかった」「わくわくした」
と100人が書いているときには、
その100人が全員、別のことを考えている。
つむぎだせる言葉があまりにもうまくはまると、
全員がおんなじ共同幻想のなかに入るんですけど。

そういう共同幻想をうまくつくりあげるのも
またスキルのような気がするんです。
糸井 宗教にも近いところがありますね。
田坂 おっしゃる通りですね。
糸井 去年、蜷川幸雄さん野田秀樹が、
両方おんなじ脚本の芝居をやったんです。
「パンドラの鐘」という、
もともと蜷川さんのために
野田くんが書いたものですが、
ある程度教養人的な批評をするひとは
蜷川さんの芝居のほうがよかった、と言う。
ただ、若い人たちとかは、
野田くんのほうがおもしろかった、と。
ぼくなんかも、野田くんのほうがおもしろい。

蜷川さんの劇のほうが、
あとで言葉になりやすいように
つくってくれているんですよ。
「こうだったね」と言えるようにつくってある。

例えば、劇の中に釣鐘が出てくるんです。
野田くんの劇中では鐘のままなのですが、
蜷川さんの劇では爆弾の頭になっている。
この劇の釣鐘が歌舞伎の「桜姫」の引用なんだ、
とわかりやすくしてくれているんですね。

蜷川さんの劇では、
どうでもいいセリフを小さい声で言わせている。
重要なところはゴチック体のように言う。
そうすると、劇の批評に慣れているひとが、
「全部読み取った」と爽快になれるんです。
そこにやられちゃう。

野田くんのほうは、
若い人にしかわからないようなギャグも
おんなじ声の分量で、
おんなじボルテージでやるから、
テーマ性が拡散するわけです。
しかもわざと「何言ってるかわからない」と、
言わせるためにつくっているところもあって。
「テーマのある言葉になったときには、
 テーマ足りえないじゃないか」
というのが、ぼくは野田くんの手法だと思う。

芝居が終わるときに
「愛って大事でしょう?」と言っていても、
「それはそうだ」で終わるんですね。
つまり、その後の人生に何の関わりなくなる。
「愛は大事」「戦争はいけない」
「人間はすばらしい」・・・
野田くんの芝居を見たあとには、
そういう中味のメッセージだけではなくて、
箱だとか包み紙の部分が記憶に残っていて、
真ん中にあるものがとても大事に見えたり、
「これは、自分にとって、
 どういう関係なんだろう?」
と観たひとたちがあとで
生活のなかで検証していく場面に、
何度も出会うんです。

田坂さんのおっしゃる「カオスのエッジ」は、
どちらに振れるかわからない、塀の上ですよね。
その「塀の上加減」を無責任にならずに
送り込む力を、ぼくはパトスだと思う。
そのパトスができたときに次の何かが見えてくる。
そして、全員に関係のある演劇をやっている。
・・・そんな自覚が、野田くんにはあると思う。

蜷川さんにとっては、
芝居というメディアが大事なんだと思う。
方法論の違いなので、お客さんが
それにあわせていけばいいんですけどね。
田坂 そのへんは現在の知のありかたの根本的な問題で、
とにかく、答えが出てこないと納得しない、
という時代なんですよ。
偏差値教育で生きてきちゃってるから、
「結局答えはどうなの?」
「この芝居で言いたいことは、何なの?」
と、答えを求めてしまうんです。
「あなた、考えなさい」
「それにはいろいろな答えがありますよ」
と、求められてもはねかえす強さを持つ表現者が、
少なくなってきていると思います。

ぼくの好きな亀井勝一郎の言葉に、
「割り切りとは、魂の弱さである」
というのがあります。
やっぱりそうだと思うんですよね。

例えば「戦争はいけない」というのも
その通りだけれども、歴史がはじまって以来、
戦争がなくなったことはないわけで。
戦争は、ほとんど生活現象として存在している。
「戦争は絶対いけないよね」も、
「結局戦争は人のサガだよね」も割り切りだし。
その間のところで、
「サガなのか」と悩みながらも、
カオスのエッジをずっと歩んでゆくのが
人間の存在みたいなものじゃないですか。
「答えのない問いを、問い続ける」
というスタイルが、今、失われているんですよね。
糸井 よくわかる。
田坂 ひとつの講義を終えたあとに必ず学生に言うのは、
「知性とは何かということを、わかって欲しい。
 いかに早く答えを出すかを知性とは言わない。
 答えのない問いを、
 生涯かかっても答えが出ないとわかっていながら
 それでも問いつづける力が、知性なんだ」
ということです。
50年、80年と知の格闘技のようなものをやり切る
気迫のようなものが欠けているのではないかと。
糸井 「わからないものを届けよう」というのが
マーケティングのひとたちの言う動機であり、
哲学者の言うパトスであり、
一般的に言えば情熱なのでしょう。
精神主義的に言うつもりはありませんが、
届けたい、伝えたい、考えたい、
そういうやるせないものになるような気がします。
これは、何なんでしょうね。

(つづく)

2000-06-08-THU

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