田坂 |
20世紀の後半からずっとそうだけど、
ビジネスの本質は、もう「癒し」になっている。
衣食住だとかは、
とっくの昔に全部満たされているから、
今の人々は、商売やサービスを通して
自分の癒しに向かうひとが、増えていますね。、 |
糸井 |
文豪の家に書生がいたとか、
蔦谷重三郎の家に十返舎一九がいたとか、
ああいう形が、今後は出てくると思います。
十返舎一九は事業計画は立てられないけど、
傍にそれが仕事になるとわかるひとがいて、
例えば、わけのわからない写楽という奴に、
「ちょっとお前、これ描いてくれ。
だめでもともとだ、わっはっは」
って言ったら、化けちゃった、みたいなものが。 |
田坂 |
その通りです。
それが今の、エンジェル
(ベンチャー企業にお金を提供する人々)
と言われる人の構図だと思います。 |
糸井 |
・・・そういうはず、ですよね。 |
田坂 |
アメリカのエンジェルは、
3億貸してあげようとやっているわけですが、
必ずしもぼろもうけしていない。
彼らはもう何千億ともうけてしまったので、
若い奴に数億あげるのは、
そんなにたいした話ではないのです。
何のためにやっているかと言えば、
「やってみたまえ」としゃべって、
時折その若い彼らを呼んで、
「いいか、ビジネスってのは・・・」
「俺が若いときにやったビジネスは・・・」
つまり、これも癒しなんです。 |
糸井 |
自分への。 |
田坂 |
はい。
もちろん、エンジェルたちにも
ある程度の計算はあるけれども、
単純にお金をもう何倍も増やしても仕方がない、
天国まで持っていけるものではないんで。
エンジェルたちにとって、
若い人は、かつての自分の姿なんです。
俺もエンジェルに救われて、こういう今がある、
お前も・・・と、癒されていますよね。
パトロンになるということは、
とても精神的なものだと思います。 |
糸井 |
そうですね。 |
田坂 |
ベンチャーをやる理由として、
お金もうけだけだとしたら、
決して効率のいいものではありませんよ。
結果として成功していますけど、
シリコンバレーでも何でも、
失敗している数のほうがずっと多いです。
死々累々のなかから成功例が出てくるのですが、
そこでの価値の本質は、
成功することではなくて、
とにかくチャレンジすることだと思います。
自分の夢を実現しようと、
動き出すことですよね。 |
糸井 |
自己実現をした自分をどこに置くかが
今まで日本では問われにくかった。
「フェラーリ、六本木のお姉ちゃん、億ション」
この三種の神器を、これは要らないと
言えてきちんとやれている人がいれば、
きっとアイデアはいいんじゃないかと思います。 |
田坂 |
そういう意味で、今、欠けているのが、志。 |
糸井 |
それそれそれ。 |
田坂 |
シリコンバレーの友人と話していて思うのは、
けっこう志を持っているということです。
ビジョンというか、明確な何かを持っている。
日本はそれよりもすぐに
フェラーリのほうに行ってしまうので、
これも日本の貧しさだと思います。 |
糸井 |
やはり、宗教が「お金」になってしまった、
実際には「金教」が一番布教されていた。
ということなのでしょうね。
批評眼は高まっていて、
チェックリストのつくり方は、
みんなが勉強していたんだけど・・・
「金教」に対して、
はっきりと提案できるひとがいなかった、
というのに日本の哲学の貧困を感じます。
田坂さん、何年生まれですか? |
田坂 |
1951年です。 |
糸井 |
俺はちょっと上で、
学生運動のさなかにいたわけです。
あれは、野党精神みたいな話なんだけど、
先輩の顔つきを見て、
「こいつらが、えばるんだろうな」と感じて、
ああ、もうほんとに辞めよう、と思いました。
あんな性格のやつが、
あんなことをするんだろうな、
そう思うと、ただ単に、
権力志向が反対になっただけのような気がして。
相変わらずいつでもパワーが軸になっていて、
フェラーリを買えるひとの順番を変えるような、
それが苦しいんです。
・・・さっきの、
「部長、お疲れさま」というあたりに、
極端に言うと、俺の人生の目的があるのかなあ? |
田坂 |
お金の使い方は、使う人の人間的な力が
すべて出てしまうと思います。
お金というメディアを通じて、
他の人に影響を与えていくから、
おっしゃった部分はすごく重要ですね。
昔「あまりイトイを信じるな」と、
糸井さんがおっしゃっていたでしょう?
あれはすごく正しくて、あるカリスマに
自分をアイデンティファイしたいという気持ちが、
ファンの中にはあるのですが、
それは実は結構病的なんですよ。
クリシュナムルティという宗教家が、
「あなたのほかに、
いかなる権威をもつくるべきではない」
という名言を残しています。
なぜ、自分以外に権威を認めて、
そこに自分をアイデンティファイして
擬似的な権力をもとうとするのか、
あなたはそのままでもう十分に満たされていて、
それだけで完全じゃないか、と。
誰かのファンになる必要も、
自分のファンをつくる必要もないという
その価値観が、21世紀には重要になるでしょう。
インターネットは、それを可能にする
インフラをつくっているような気がします。 |
糸井 |
今は、ひとりも信じなくても、場が持てる。
それがすごい光なんです。
ぼくは昔に「信じるな」と言った一方で、
「立候補しないやつに、票は入らない」
とも言いました。みんな、負けるのが嫌なので、
「これをやってみたいです」と言わないんですね。
自分も、もともとはそういう人間でした。
立候補しないくせに、
票が入ってくることを待っていたんです。
でも、票は入ってこない。
早い話が、ぼろぼろの負け戦になる。
ぼくの今までの歴史は、
他人が何と言おうが、負け戦の歴史ですから。
そこで、
「あ、俺、我慢しなきゃいけなかったなあ」
と気づいたんですよ。
パワーがゼロでは、戦えないんですね。
自分に2もあれば「相手の力×2」で相手が喜ぶ。
2を持つためには、我慢をするべきだと思った。
インターネットという世界で、
生まれてはじめて立候補したんですよ。
立候補するために言わなければならない
「俺はすばらしい」という言葉を、
「ほぼ日」という代理の自分を立てたので、
言えるようになったんです。
「場がすばらしい」と言うだけだから、
読者をほめているだけで、ぼくは影でいられる。
前に出て矢が刺さる役はしなければいけないけど、
「俺ってすばらしい」を言わなくてよかったので
はじめて立候補ができました。
「俺を信じるな」
「立候補しないやつには票が入らない」
このふたつを、ネットで矛盾なく接合できた。
それは、うれしいですよ。
パワーのないところには、雑誌も
「何か書いてください」
とは言わないですから。
最小ロットのようなものです。
クリシュナムルディーにしても、
信者がいたからこそ言葉が伝わるわけで。 |
田坂 |
なるほど。 |
糸井 |
そういう、実はわかりきった矛盾みたいなものを
ちょっとは引き受けないといけないんですよね。
ミディアムリターンというのも、その考えです。
たぶん、父親の政治なんですよ。
おいしくないお母さんの料理でも、
子供が「おいしくないよ」と言えば
「黙って食え」と言う。
実は、そこで自分を偽っているわけです。
自分もおいしくないと感じているから。
でも、それを言う役をすることが、
1か2かのパワーを行使することだと思う。
僕の美意識としては言ってはいけないんですが、
ちょっと歳を取ったので、
「黙って食え」という役をできるようになった。
このずるさが、うれしいんです。
人の生きる道として正しいという気がして。
(つづく) |