山岸 |
私は、同世代の人たちを見ていて、
かっこいいことを言うというよりは、
いろいろなことをきちんと確かめたい、
と思います。
原理で考えるというのは、
「原理を考えるための公式」を使うのではなくて、
ほんとうに原理を使って考えることだと思う。
公式を使って考えようとした人は、
たぶん失敗してどこにも行き着けない。
何が正しい原理かはわからないんですが、
私が今使っている原理というのは、
「人間というのは、単なる適応の機械である」
「心というのは、適応の機械の特性だ」という。
これは一つの極端な考えかたですけど、
その考え方をつきつめていくと、
一体どこまで行き着けるんだろうと・・・。
論理で考えきれないところは実験でやって、
そこで行き着いたのが
「正直さ」という結論だったのですが、
自分でも、最初は実験結果を信じられなかった。 |
糸井 |
そうなんですか。 |
山岸 |
だから、面白かった。
ほんとにそんなことがあるのかなあ。
じゃあ、もう一回実験をしてみよう・・・
何回かくりかえしてもやはりそうなるから、
ようやく「やはりそうなのだ」と思えました。 |
糸井 |
ところで、
「正直が最高の戦略」という発想には、
山岸さんの側に、日本人ならではの予測が、
前提としてあったのですか? |
山岸 |
いえ。そういうことはないです。
言い方がちょっと難しいですが、私自身としては、
文化という言葉を抹殺したいと思っているんです。
文化によって何かを説明するというのは、
おそらくいいかげんであろうと考えていまして、
「**文化」という言葉を使わなくても
同じようなことを言い得る論理を作りたいのです。
つまり、何かを予測するにしても
「日本人だから」「日本文化だから」という言葉を
使わないで何かを説明してみれば、実は、
今までとは違ったものが見えると考えています。
具体的に申しますと、
最近、オーストラリアと日本の被験者を、
コンピュータでつないで
社会的ジレンマの実験していますが、
日本人よりもオーストラリア人のほうが、
明らかに協力率が高い。
しかも、ものすごい差で。
日本人は社会に存在するしがらみから
解き放たれると、本当に協力をしない。
システムで縛られる時にのみ、協力をします。
だけど、オーストラリア人、自発的に協力する。
この結果の予測はしましたが、その予測は、
「日本文化だから」ではなくて、日本人が社会で
一つの均衡状態を作って生活をしている中での、
その均衡状態をきちんと見てから、
行動する仕方も予測してみると、
そういうことが起こる、と予め考えられるんです。 |
糸井 |
今聞いていて急に思ったんですけど、
その結果は日本が島国だからということも、
関わりがあるのですか? |
山岸 |
いえ。島国だからというよりも、
日本的な集団主義的な生き方というのは、
人類に共通のものではないでしょうか?
おそらく、500万年の人類の歴史において、
99%以上の社会がそのような生活だったでしょう。
私は研究をしている中で、
日本とアメリカや西欧を比べて
つくづく思ったことがあるんです。
普通は、発想としては、
「西洋がスタンダード、日本が特殊」
と、思いますよね。
でもそれはたぶん、完全に逆なんですよ。 |
糸井 |
おもしろいなあ、それ。 |
山岸 |
日本的な集団主義的な社会の作り方は、
放っておいても出てくる集団のあり方なんです。
何にも手を加えなくても、大勢が集まって
その中でうまくやっていこうとするのならば、
外部の人間を寄せ付けないようにしたり、
差別することによって集団を強めたり・・・
これは、猿も行います。
むしろ非常に不思議なのは、
「どうして西洋的な普遍主義が出てくるか?」
ということのほうなんですね。
集団の境界を重視しないやり方が、
どうして出てき得たかを考えるほうが、
私にとっては、おもしろい。 |
糸井 |
前に、古代ローマを研究している
青柳正親さんという先生と対談していた時に、
ポンペイが紀元前4世紀に、どうしてあそこまで
豊かで政治の発達した社会になったのかを聞くと、
「非常に困難な立地条件だったから」。
国の外の外敵が非常に多かったし、
微妙なバランスの階級制度もあったわけで
(生産力の源が奴隷だったことも関係する)、
つまり階級と階級の間で上手に政治をやらないと
社会が成り立たない。だから政治家が育った、と。
青柳さんをおもしろいなあと思ったのは、
「そういうめんどくさいことを
やらなくてもいいような環境では
政治は育っていかない」
とおっしゃっていた点です。
その話には驚いたんですけど、今の西洋の話も、
「いろいろ難しい状態だったから普遍が進化した」
ということになりますか? |
山岸 |
たぶん、集団を作って、
その中だけで生きていくのは、
すごく簡単な生き方なんですよね。
西洋が、なぜそういうやり方をしないで
集団の境界を弱めて、効率をよくしようとするか?
・・・そこに興味があるんです。
その原因としては、基本的には
商業的な考え方から、来ると思います。
集団の中にある限界を定めて、
その中で人々を支配する人にとっては、
集団主義はむしろ都合のいいシステムなのですが、
そうやって集団の境界を定めてしまうやり方は、
商業にとっては、完全に「敵」になりますから。
そういう意味では、支配層の中に
「商業的な人がどれだけ入っていたのか」
が、とても重要なことになってくるでしょう。
例えばベネチアの貴族はみんな商人ですよね。
しかし、商業が普遍主義を作ったのだとしたら、
なぜ中国にはそういうものが興らなかったのか?
そこが、すごく不思議なんですよ。
貨幣経済の程度が違うからかな?
というような気もするのですが、
そこのところは詳しくはわかりません。 |
糸井 |
そうすると、信頼という概念は
簡単には生み出せなくて、必然性がないと
信頼というのは、もともと発生しないのですか? |
山岸 |
それはそうだと思います。
それが私の研究の基本的な発想です。 |