信頼の時代を語る。
山岸俊男さんの研究を学ぼう。

第4回 アリを見るように、人間を見ている?


(※山岸俊男さんとdarlingとの対談は、
  「まず、社会の構成する人々を、どう見る?」
  「人々の個人的な動きに関しては、
   全体と絡めて、どう眺めてとらえるの?」
  とうテーマで、進んでいくのです。
  今日の対談は「アリを見ること」をきっかけに、
  「社会とは何だろう?」と、展開しますよん)

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糸井 関係ないんですけど、ぼくは、
アリを眺めているのがすごく好きなんですよ。
山岸 私も、好きですよ(笑)。
糸井 それぞれのアリの動きは、
何か意味ありげに見えるのですが、
そのアリの群れを全体として見ると、
結果的にはひとつの動きに、
「だいたい、こんなもんだろうなあ」
という動きに落ち着くじゃないですか。
さっき「文化」という言葉を外して、
とおっしゃっていたけれども、人も、
遠くから見るとアリのようなものかなあ、と。

ぼく、毎年正月に、
アリを、1日3〜4時間とか見てるんですよ。
バリにでかけて・・・
そこでは何にもしないことにしてるから、
アリを眺めるのが、もう恒例の行事なんです。
「ああ、そろそろアリを見てこよう」って思う。
アメをなめてツバ出してみたり、
パンを置いたり・・・まあ、結局は、
エサとの対応関係だけなんですけど(笑)。
でも、別のアリが出現すると、
全然違う動きをしたりするのが、おもしろい。

そうやってアリを見ていると、
「ああ、何だかんだ、いろいろ言うけど、
 人も、本当は、遠くから見てみると、
 こんなような動きをしているんだろうなあ」
と思えてしまうんです。
これをニヒルに見てしまうと
勝ち組のマーケティング至上主義のように
なってしまうだろうし、ニヒルでなければ、
あたたかい海岸で動いてるアリを見ながら、
「人もこうなら、まあ、これはこれで、
 おだやかな、けっこうなことだよなあ」
という見方にもなるんですけど・・・。

ともかく、アリを見て何かを思うことって
ある意味ですごく気持ちがいいんですよね。
「文化」という言葉を抹殺したい、
というものの見方が、ぼくがアリを見てるのと
そっくりだなあ、と、今、ちょっと思った。
山岸 (笑)そうかもしれませんね。
糸井 吉本隆明さんも、そうだよね。
「いやあ、だいたい、そういうものだから」
という言い方をしますから。
諦めているわけではないのだけれど、
「そういうものだから、そういうものだ」
という視点は山岸さんとピタリとあうと思います。

ぼくが、10年くらい前に
ものすごく興味を持っていたのは、
「何で人は寝がえりを打つのか?」で、
寝ている時ですから、いやすいかたちを
自分で意識的に選んでいるわけではないですよね。
ところが、自然に寝がえりを打っている。

元気でいる時の人間は寝返りを打っているけど、
同時に、病人が長く寝て動けないままだと、
床ズレを起こして、背中が皮膚病になってしまう。

それをよく考えると、
文化的制約がたくさんある中で、
人は、起きている時にも、
寝がえりを打つのではないかと思うんです。

女性で、足をきれいに揃えて
傾けて座っている人がいますよね。
あれは無意識にやっているんじゃなくて、
非常に大きな文化的制約の中で、
約束を守っているわけで。

ぼくはそういうのがすごく薄い人間で、
まあ、だいたい形からだらしないんですけど。
でも、一応ちょっとずつ守っているんだけど、
そのだらしなさは、
実は寝がえりを打っていると
考えればいいのではないだろうか?と
思ったことがあるんです。

思想的にも寝がえりを打つことで、
人は自分を守っているのではないかなぁ。
・・・そう思うと、アリを見ている時の
アリの動きは、寝がえりそっくりだなあと、
最近、思っていたところでした。
山岸 アリはおもしろいですよね。
「お前は、アリを見ているように
 人間を見ているんじゃないか?」
と私は言われたこともあるんですけど、
たぶん、そうなんですよ。

そうやって認めた上で、
アリと人間がどこが違うかというと、
遺伝子の共有率が違うわけです。

それぞれのアリは、女王蜂以外は、
自分の遺伝子をまったく残さないですから、
利己的に行動する原理が、行動の中に
入ってこない・・・そのことによって
アリの群れ全体がうまくいくようなしくみが
アリの社会の中には、できあがっているんですね。
だからこそ、アリは自己犠牲をする。

一方で人間は、自分の子どもを残せる。
これは、まったく違うところなんです。
要するに、子供を育てない人間の
遺伝子は絶えてしまうということによって、
つまり人間は、どうしても利己的に
行動をせざるを得ないように作られているんです。
そこが、私の考えている
一番面白いところだと思います。

なぜなら、どうしても利己的に
行動しないといけないはずなのに、
社会の中で利己的に行動すると、
これがたぶんうまくいかないようで・・・。
そこのところの仕組みが、
おもしろいなあとぼくは考えています。
糸井 その仕組みを調べている時に、
「こうなると、いいなあ」
という基本的な想定というのは、
山岸さんの中に、あるのですか?
山岸 それは、ありますね。
そういうものがなければ、たぶん、
研究のエネルギーというのは出ないと思います。

「ある結論を導きたい」
という気持ちはあります。
だけど、そのためには、
導くためのデータをつくらないといけない。
糸井 そして、そこに、バイアスが
自分の考えでかかってはいけないという
注意深さはお持ちになりますよね、当然。
そういう目から見て、大まかに言うと、
今、希望というものが持てる気分には、
山岸さんとしては、なっているのですか?
山岸 そこは本当に、すごくわかりません。
私は原理的にものを考えているのですが、
原理的にものを考えていると、
短期間の予測がまったくできないんです。

だから、社会科学に関して短期予測をする人を、
私はうそつきだと思っています。
「短期的な変動があっても、絶対に起こるだろう」
ということしか、私にはたぶん予測できない。
そういう点から考えてみると・・・
進化の過程で人間の脳と心ができてきましたが、
それに適した社会がつくれるかどうか? が、
今はとても重要な問題だと思っています。

2000-11-24-FRI

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