糸井 |
「市場がないからできない」ということが、
すべての不自由のはじまりだったように思うけど、
今、ネットにつなげていろいろな声を聞けるのは、
そこの不自由を、ぽーんと広げてしまえるのでは?
・・・そう、思うようになりました。
まあ、ぼくの生きているうちにできるのかは、
よく分からないのですが、少なくとも、
将来に自由になれる、自分のわがままを
通せるかもしれないと思うと、うれしくなる。
「ほぼ日刊イトイ新聞」なんてやっていると
疲れるのですが、実はこれをはじめてからの2年、
先生が夢中になって研究しているのと
おんなじくらい、毎日がおもしろいですよ。 |
山岸 |
そうでしょうね。
あのホームページを見たら、そう思います。 |
糸井 |
間違えた時には間違えたと言えばいいのは、
そこはやっぱりネットというメディアのおかげで、
こんなことができるんだったら、俺は何で
もっと早くこういうことをやっていなかったのか?
とまで思うくらいです。
もちろん、今も、ぼくのまわりに、
ガマンのチェックリストは、山ほどあります。
だけど、それは俺が好きでやっていることだから、
そこは山岸さんが外国で研究論文を発表するために
徹夜する時もあるでしょうし、
語学も余計にやらないといけないし、
というようなものだとぼくは思っています。
今までよりも仕事はずっと大変なのですが、
「あ、できるかもしれない!」
というためには、ガマンできますので。 |
山岸 |
そうですね。 |
糸井 |
そうすると、ネットがこんなに楽しいなら、
みんなが、もう、こうなってしまえ!と思う。
最終的には、みんなが自分の情報開示を
徹底的にやることが、きっと、
何をどう間違えてしまうかは別として、
少なくとも、次の時代のものごとがどうなるかの
ヒントにはなるだろうなあと思っています。
長い目で見て、そういう社会が
良いか悪いかはわかりませんけれども、
不自由やガマンだけで生きていって、
ガマンガマンで死んだ人が美徳とされて
伝記を書かれるような社会は、
少なくとも「ふざけたもの」ですもんね(笑)。
ガマンし続ければいいという考えは、
ある意味では、一番不真面目だとさえ思います。
ぼくはもう少し真面目ですから、
みんなが毎日寝返りを打てて、自由を味わえて、
ああ楽しかった、というように死んでゆくのが
いちばんかっこいいなあと思ってるんです。
だから、山岸さんのやっている研究が、
どれだけ、うれしかったか・・・。
くりかえしちゃってますけど、
あの研究は、もう、すごくいいなあ。 |
山岸 |
私が、糸井さんにほめていただいた
いろいろなコメントのなかで、研究結果を、
「すごい当たり前のこと」と言ってくださった。
その表現は、いちばん嬉しかったです。
研究の結果というのは、
やっぱり、当たり前のことなんです。
だけれども、当たり前の当たり前を
主張することで、ものの見方が変わってくる。
おそらく私がやりたいと思っているそこを、
きちんと理解してくれたことが、嬉しかった。 |
糸井 |
さっき「文化の衣装」のようなものを
重ね着しているところをはがして、
裸にすることで見えるものもある・・・
山岸さんのしているのは、そういうことですよね。
「裸に見えるけど、それは実は文化の衣装だ」
というような指摘は、たぶん、
フーコーのような人たちがはじめたと思いますが、
そういうようなことについては、
ぼくも、ずうっと、のどが渇いた時に
「うわあ、水があった!」
というような感覚で読んだ覚えがありまして、
いろいろなものを読んで理解していたかどうかは
わかりませんけれど、でも、ほとんどの物事が
文化の重ね着の中での不自由だと思っていました。
そういう中で、山岸さんが
「だって、実験しても、そうなるじゃないか」
と見せてくれたものですから、
あれは、気持ちよかったですねぇ。 |
山岸 |
「何かいろいろと言ったって、
実験すりゃこうなるじゃないですか。
反論できますか?」というのは、
私がやりたいことなんです。でも、
「山岸のやってることは心理学の実験に過ぎない。
私が見ている現実から言うと、違う」
なんて言ってる人もいるんです。
その人が言う「現実」というのは、
自分の個人的な経験なんですけども。 |
糸井 |
(笑)うわあ。嫌な奴がいるんだなあ。
要するに、俺はこうやったら失敗したとか? |
山岸 |
「日本は低信頼社会で、
オーストラリアやアメリカは高信頼社会だ」
と私が書いたことに対して、
「だけども私は
オーストラリアでたいへんな目に遭った」と。 |
糸井 |
(笑)うわあ。
それで反論しているつもりなのかあ? |
山岸 |
きっと、その人には、私が話しても
どうしようもなくわかってもらえないと思います。 |
糸井 |
きついなあ。そういう時に、
無力感のようなもので、うなされませんか? |
山岸 |
いやあ・・・時々。
でも、うなされるような時というのは、
たいした「時」ではないですね。
こちらにエネルギーがない時期だけです。
やっぱり最終的には、
その反論もエネルギーにするしかないから、
無視をするか、あるいはもっと
グウの音もでないネタを出すぜ!と思います。 |
糸井 |
なるほど、そうかあ。
「エネルギーですね」って言えるところまで、
やっぱり山岸さんは、闘いをご自分の中で
もっと激しく、されていらっしゃるんですね。
ぼくも「ほぼ日刊イトイ新聞」で、
たくさんのメールをもらう立場にいますが
メールあたりという言い方をしているんですよ。
「暑気あたり」とか「薬にあたった」みたいに、
メールに、あたることがある。
たくさんのメールがあるということは、
それだけ反論もいろいろありますし、
間違った賛成意見だって、ありますし・・・
でもやっぱり、ぜんぶ目を通さざるを得ない。
ぼくもどこか研究者なところがあるので、
「どう読んだら、こういう意見が出るのかな?」
と思ってそういうメールもきちんと読むのですが、
やっぱり、体力が弱ってる時には、
読むと落ち込みますねえ・・・。
やっぱり何を言ってもだめなのか、
という、無力感が出るんですね。 |
山岸 |
そこは、最終的にはやっぱり体力ですよねえ。 |
糸井 |
(笑)そう。体力ですよっ。 |
山岸 |
私も、ほんと〜に、そう思いますよ。
研究者の条件のひとつは、体力だと思います。
いろいろなところで批判されもしますし、
実験がどうしてもうまくいかない時もありますし、
落ち込んだ時に、どう乗り越えられるかというのは
とても大切だと思うんです。
私の場合は、とにかく食べて寝るしかないです。 |
糸井 |
つまり、「自分全体として元気である」という
ことでしか、はねかえせないんでしょうね。
そういうことも、気になってました。
ぼくにとって、自分の指標になるような
原理的な研究をなさっている方のひとりに、
三木成夫さんがいらっしゃいます。
あの方もアリを見るように人間を見てますけど、
やっぱり、三木さんの研究そのものが体力ですよ。
「脳は、神経系のほんの一部であって、
からだ全体としては、自分が生存できる
チャンスを得られるように行動しているんだ」
というような、三木さんの書かいることを読むと、
「やはり体力ですね」ということでさえ、
まったく理論的に、納得できますもん。
時々、そうやって、
ぼくに勇気を出してくれるような人がいて。
やはり原理のところでも自分を支えていないと、
やっぱり、ふらふらしてしまうんですよね。
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