信頼の時代を語る。
山岸俊男さんの研究を学ぼう。

第7回 最終的にはやっぱり・・・。


(※自由が欲しくて、いろいろなことを
  やっているという前回の話にひきつづき、
  どういう自由を欲しているのかなどについて
  山岸俊男さんとdarlingの対談が展開されるよ。
  たぶん、後半がとてもおもしろいと思うので、
  ぜひ、読みすすめてみてくださいませ)

------------------------------------------

糸井 「市場がないからできない」ということが、
すべての不自由のはじまりだったように思うけど、
今、ネットにつなげていろいろな声を聞けるのは、
そこの不自由を、ぽーんと広げてしまえるのでは?
・・・そう、思うようになりました。

まあ、ぼくの生きているうちにできるのかは、
よく分からないのですが、少なくとも、
将来に自由になれる、自分のわがままを
通せるかもしれないと思うと、うれしくなる。
「ほぼ日刊イトイ新聞」なんてやっていると
疲れるのですが、実はこれをはじめてからの2年、
先生が夢中になって研究しているのと
おんなじくらい、毎日がおもしろいですよ。
山岸 そうでしょうね。
あのホームページを見たら、そう思います。
糸井 間違えた時には間違えたと言えばいいのは、
そこはやっぱりネットというメディアのおかげで、
こんなことができるんだったら、俺は何で
もっと早くこういうことをやっていなかったのか?
とまで思うくらいです。

もちろん、今も、ぼくのまわりに、
ガマンのチェックリストは、山ほどあります。
だけど、それは俺が好きでやっていることだから、
そこは山岸さんが外国で研究論文を発表するために
徹夜する時もあるでしょうし、
語学も余計にやらないといけないし、
というようなものだとぼくは思っています。

今までよりも仕事はずっと大変なのですが、
「あ、できるかもしれない!」
というためには、ガマンできますので。
山岸 そうですね。
糸井 そうすると、ネットがこんなに楽しいなら、
みんなが、もう、こうなってしまえ!と思う。
最終的には、みんなが自分の情報開示を
徹底的にやることが、きっと、
何をどう間違えてしまうかは別として、
少なくとも、次の時代のものごとがどうなるかの
ヒントにはなるだろうなあと思っています。

長い目で見て、そういう社会が
良いか悪いかはわかりませんけれども、
不自由やガマンだけで生きていって、
ガマンガマンで死んだ人が美徳とされて
伝記を書かれるような社会は、
少なくとも「ふざけたもの」ですもんね(笑)。
ガマンし続ければいいという考えは、
ある意味では、一番不真面目だとさえ思います。

ぼくはもう少し真面目ですから、
みんなが毎日寝返りを打てて、自由を味わえて、
ああ楽しかった、というように死んでゆくのが
いちばんかっこいいなあと思ってるんです。

だから、山岸さんのやっている研究が、
どれだけ、うれしかったか・・・。
くりかえしちゃってますけど、
あの研究は、もう、すごくいいなあ。
山岸 私が、糸井さんにほめていただいた
いろいろなコメントのなかで、研究結果を、
「すごい当たり前のこと」と言ってくださった。
その表現は、いちばん嬉しかったです。
研究の結果というのは、
やっぱり、当たり前のことなんです。
だけれども、当たり前の当たり前を
主張することで、ものの見方が変わってくる。
おそらく私がやりたいと思っているそこを、
きちんと理解してくれたことが、嬉しかった。
糸井 さっき「文化の衣装」のようなものを
重ね着しているところをはがして、
裸にすることで見えるものもある・・・
山岸さんのしているのは、そういうことですよね。
「裸に見えるけど、それは実は文化の衣装だ」
というような指摘は、たぶん、
フーコーのような人たちがはじめたと思いますが、
そういうようなことについては、
ぼくも、ずうっと、のどが渇いた時に
「うわあ、水があった!」
というような感覚で読んだ覚えがありまして、
いろいろなものを読んで理解していたかどうかは
わかりませんけれど、でも、ほとんどの物事が
文化の重ね着の中での不自由だと思っていました。

そういう中で、山岸さんが
「だって、実験しても、そうなるじゃないか」
と見せてくれたものですから、
あれは、気持ちよかったですねぇ。
山岸 「何かいろいろと言ったって、
 実験すりゃこうなるじゃないですか。
 反論できますか?」というのは、
私がやりたいことなんです。でも、
「山岸のやってることは心理学の実験に過ぎない。
 私が見ている現実から言うと、違う」
なんて言ってる人もいるんです。
その人が言う「現実」というのは、
自分の個人的な経験なんですけども。
糸井 (笑)うわあ。嫌な奴がいるんだなあ。
要するに、俺はこうやったら失敗したとか?
山岸 「日本は低信頼社会で、
 オーストラリアやアメリカは高信頼社会だ」
と私が書いたことに対して、
「だけども私は
 オーストラリアでたいへんな目に遭った」と。
糸井 (笑)うわあ。
それで反論しているつもりなのかあ?
山岸 きっと、その人には、私が話しても
どうしようもなくわかってもらえないと思います。
糸井 きついなあ。そういう時に、
無力感のようなもので、うなされませんか?
山岸 いやあ・・・時々。
でも、うなされるような時というのは、
たいした「時」ではないですね。
こちらにエネルギーがない時期だけです。

やっぱり最終的には、
その反論もエネルギーにするしかないから、
無視をするか、あるいはもっと
グウの音もでないネタを出すぜ!と思います。
糸井 なるほど、そうかあ。
「エネルギーですね」って言えるところまで、
やっぱり山岸さんは、闘いをご自分の中で
もっと激しく、されていらっしゃるんですね。

ぼくも「ほぼ日刊イトイ新聞」で、
たくさんのメールをもらう立場にいますが
メールあたりという言い方をしているんですよ。
「暑気あたり」とか「薬にあたった」みたいに、
メールに、あたることがある。
たくさんのメールがあるということは、
それだけ反論もいろいろありますし、
間違った賛成意見だって、ありますし・・・

でもやっぱり、ぜんぶ目を通さざるを得ない。
ぼくもどこか研究者なところがあるので、
「どう読んだら、こういう意見が出るのかな?」
と思ってそういうメールもきちんと読むのですが、

やっぱり、体力が弱ってる時には、
読むと落ち込みますねえ・・・。
やっぱり何を言ってもだめなのか、
という、無力感が出るんですね。
山岸 そこは、最終的にはやっぱり体力ですよねえ。
糸井 (笑)そう。体力ですよっ。
山岸 私も、ほんと〜に、そう思いますよ。
研究者の条件のひとつは、体力だと思います。
いろいろなところで批判されもしますし、
実験がどうしてもうまくいかない時もありますし、
落ち込んだ時に、どう乗り越えられるかというのは
とても大切だと思うんです。
私の場合は、とにかく食べて寝るしかないです。
糸井 つまり、「自分全体として元気である」という
ことでしか、はねかえせないんでしょうね。
そういうことも、気になってました。
ぼくにとって、自分の指標になるような
原理的な研究をなさっている方のひとりに、
三木成夫さんがいらっしゃいます。
あの方もアリを見るように人間を見てますけど、
やっぱり、三木さんの研究そのものが体力ですよ。

「脳は、神経系のほんの一部であって、
 からだ全体としては、自分が生存できる
 チャンスを得られるように行動しているんだ」
というような、三木さんの書かいることを読むと、
「やはり体力ですね」ということでさえ、
まったく理論的に、納得できますもん。

時々、そうやって、
ぼくに勇気を出してくれるような人がいて。
やはり原理のところでも自分を支えていないと、
やっぱり、ふらふらしてしまうんですよね。

(※明日掲載の対談につづきます)

2000-11-29-WED

BACK
戻る