糸井 |
古川さん自身は、プログラマ出身なんですか? |
古川 |
プログラマも、やってました。
ただね、わりと早い時期に、自分自身の能力の限界を
見てしまって。 |
糸井 |
わかるものなんですか。 |
古川 |
そりゃ、わかりますよ。
理由は2つあったんです。
ひとつは、若い子が、同じものを書くとき
自分の半分の時間で書いちゃうんですよ。 |
糸井 |
速度ですね。 |
古川 |
そう。そうすると、僕自身は彼らが
書きなぐったものでは、そのまま納品できないんです。
まるで、編集の終わっていない粗原稿みたいなもので。
納品物として出すためには、ちゃんと体裁を整える
必要がありますよね。そのときには、お掃除もするし、
おのおののプログラムに、コメントを書いたり、
それがちゃんと動くことをデバッグして、
そのうえで納品するという事をやってたんです。けれど、
そのときに思ったのが、自分の倍以上のスピードで
プログラムを書く人間には、ちょっとついていけないな、
ということ。それからもうひとつの理由ですが、
若い子たちの書いているロジックというのが、
自分自身でも読み取れなくなった瞬間があったんです。
あ、ダメだ、これは、と。
自分自身もいろいろ勉強してきたけれども、
そこそこ、どんなロジックでぶつかってきても、
「よく書けてるじゃないか、かしこい、かしこい!」
って見えていたのが、
「何、これ!?」
というように、全く見えなくなった瞬間があったんです。
そうなると、ああ、これは自分には向いていない、
逆に、これをマネージする側に行ったほうがいい、
というふうにも思った。 |
糸井 |
それは、深刻なものだったんですか?
挫折感というようなものはあるんですか。 |
古川 |
挫折感を感じる前に、たまたまアスキーの西さんが、
「お前、明日から営業に行け」
って言ってくれたんですね。 |
糸井 |
ちょうどよかった(笑)。 |
古川 |
ちょうどよかったんです。
そのときはまだプログラマに未練があったから。
「この領域のプログラムは自分のほうが上手い」
とかね。別のことが上手い人間とチームでやれば
まだまだ仕事はできる、って思ってたんだけど、
それまでGパンにTシャツ着てた人間が
「明日から営業行け!」
って言われて、
「こんな優秀なエンジニアを何で営業に出すんだ!」
って、やっぱりちょっと憤慨していたところはあります。
けれどもその時には、自分でプログラムを書いていたから、
……その当時はCP/MというOSの
バイオスを書いていたんですね。
でも明日からMS−DOSの営業に行け、ってなった。
CP/MとMS−DOSというのはその当時の
競合製品だったんだけれども、
その競合製品のエンジニアとして日本で一番だった僕、
というのが、そろそろ技術者としての メッキがはげたかな、という時に、
MS−DOSが出てきたわけです。
そうするとMS−DOSもいいところがある。
営業に行ったときに、
「これはこういう風に置くんですよ、ちょっと
やってみましょうか、ほらバグが出るでしょ」
と。 |
|
糸井 |
説得力がありますよね、その営業マンにはね。 |
古川 |
そういう意味では、たまたまのチャンスだった。
だから、編集を2年やって、プログラマを2年やって、
営業を2年やって、そのあとにソフト開発のトップを
2年やらせてもらった。
そのときはちょうどUNIXだとか、XENIX、
ジャストシステムがJS-WORDっていう
ワープロをつくっていた。
そんな時期だったんです。 |
糸井 |
グルグル回っていたのが、
結果的には良かったんでしょうね。 |
古川 |
そうですね、アスキーの時代も、僕は8年間、
雑誌編集、プログラマだとか、営業だとか、事業部とか、
いろんなところを2年ずつ回してもらって、
そのセクションの裁量だとか、そういうことを一通り
見たことが、結果として良かったですね。
プログラマだけやってたら、今ごろツブシの効かない
おじいちゃんプログラマになっていた。 |
糸井 |
おなじ物事を別の面から見たら、全然立場が
違ってるんだよ、ということを若いうちに知っておく
というのは非常に大事なことですね。 |
古川 |
8年、アスキーに御厄介になって、
32歳になったところで、マイクロソフトの社長になって、
そこから5年、社長をやったんですけれどね。
同じ仕事を5年やってるのって……(笑)。 |
糸井 |
自分としては珍しいことだったんだ!(笑)
……でも5年って、ぜんぜん、長くはないですよねえ。 |
古川 |
うーん、ただ……、 |
糸井 |
性格的に、そういうものなんですか? |
古川 |
32から37まで走ってたときに、最後の2年間、
走りすぎて、体を次から次へと壊していったんです。
1週間か2週間、入院するようなことを
2〜3年くりかえして。
ストレスのために、体中の血管が、穴という穴から
プチっと切れていくという。
目ン玉から、咽から、おしりから、みんな…… |
糸井 |
順番に切れていく? |
古川 |
「次は頭の内側だ」
って医者に言われて、
「ああ、俺、このまま死んじゃうのはもったいないかな」
って。 |
糸井 |
そのときってどれくらいひどかったんですか。
働きぶりは? |
古川 |
働きぶりはね、今となっては笑い話ですが、
ビル・ゲイツにプレゼンテーションやってる
まさしくそのときです。
「今期のビジネスプラン!」
「予算参照!」
「これからさきの営業方針は!」
なんて説明をやるわけですよね。
その際中に、どこかでプツッ、って音がして、
「……あれ? 出血したかもしれない……」
それでビル・ゲイツに、ちょっと悪いけど、って
お手洗いに行ったら、……自殺してこういうところを
切ったら、きっとこのくらい血が出るんだろうな、
っていうくらい、とにかく、座っているだけで、
「私はあと10分こうして座っていたら、
死ぬかもしれない」
っていうくらいの出血で。 |
糸井 |
えっ……それは、どこですか? |
古川 |
…………おしり(笑)。 |
糸井 |
おしりに行っちゃったんだ。 |
古川 |
それで手術はしたけれどもね、
こんなことで苦しむんだったら、早く手術をするのが
絶対正解だったよな、って思いましたよ。
目ン玉のときは、網膜の毛細血管がプチッと切れて。 |
糸井 |
それは僕も経験がありますよ。
真っ赤になるんですよね。 |
古川 |
薄暗くなって、見えなくなって、
「ああ、このまま失明するんじゃないかな!?」
と思った。病院で造影剤をうちながら高速写真を撮ったら、
毛細血管の一部が切れていて、
そこから血液が染み出していたんですね。
それでさ、先生はジョイスティック持ちながらさ……、 |
糸井 |
ジョイスティック!?(笑) |
古川 |
攻略マップ持って、手術ですよ(笑)。 |
糸井 |
(笑)そのときっていうのは、仕事以外はもう
何にもしてない、っていうふうになってたんですね。 |
古川 |
でも入院中は、さすがに仕事は……いや、
ぜんぜんしなかったわけでもないですけどね。
「先生、仕事、変えなきゃ、いかんですかね」
「でも、無理でしょう?」
とかいわれながら、ここまで来て。
その当時、会社とすると300人くらいの規模で。 |
糸井 |
アメリカも入れて? |
古川 |
日本だけで。
300人くらいまでだと、全員の顔と名前が
一致するんですよ。
これから先、組織として大きくして動かして行かなきゃ
ならなかったり、自分の信条とするところとは
関係ないところで競争と打ち勝ったり、
組織を通じて、企業と企業の戦争のなかで
勝たなきゃいけない、ってなったときに思ったのが、
「待てよ?」
と。
「俺がやりたかったのは、企業の戦争に
打ち勝つことだったんだっけ?」
とね。自分自身の人生設計の中で、
「私は優秀な経営者になろう」
なんて思ってここまで歩んできたわけ、ないな、と。
自分自身は、テクノロジーを通じて実現したいビジョンが
あって、それが実現できるバックグラウンドがあれば
僕はもう変な話だけれどアップルでも、
マイクロソフトでも、
サンでも良かったという気持ちはあって。
しかし、これからマイクロソフトがイケイケドンドンで
勝たなきゃいけない、となっている。
その勝ち戦を生き抜くための将軍なり、鬼軍曹が
きっと必要になるだろう。そのときに求められている
キャラクターって、自分とは違うだろう? と。
(つづく) |