Yeah!Yeah!Yeah!
マイクロソフトの
古川会長がやってきた。

13

古川 デバイスというレベルで考えても
デジカメだとか、いろんなものが出てきましたよね。
そのなかで、今までと目のつけどころが違う人達が
ふっと出てきた瞬間に、
もう全然思いもしないところでひっくり返されることだって
あるかもしれない。
たとえば、パソコンが年間900万台前後の勢いを
持っているわけだけれども、
パチンコは470万台、自動販売機は400万から
600万台ぐらい出ている。
もし、自動販売機とパチンコの市場を完全に制覇したら
パソコン全体くらいの市場規模になるわけですね。
糸井 そうですね。
古川 自動車のなかには、セルシオだとかレクサスなら、
35個くらいCPUが入っている。
ドア1枚にもCPUが入っているし、ドアと本体の間にも
光ファイバーでネットワークを張っている。
ハンドルにもCPUが入っている。
そこの全体を制御するОSって、
誰もまだ考えていないんですよ。
糸井 ほほう……!
古川 ОSを制覇しようっていう話じゃなくてね、
自分が考えたいことっていうのは、
そのなかでも情報が自由にやりとりできればいいのにな、
ということなんです。
糸井 小さなCPUを人体にバラバラに埋め込んだら
面白いだろうな、という発想に近いものを感じますね。
古川 人間のそこの部分は、最後までとっておきたい、
という気もしますけどね。
孫正義さんは、最後にそれをやりたいって、
いつも話してますよ。
「もう勉強するのイヤだから、小さなチップを頭に
 組み込んで、『社会の勉強!』ってピューッて
 知識が入ってくるようになれば」
って。その商標ももう取ってあるって。
糸井 えっ!?
古川 「チップエレキバン」。
糸井 …………聞かなきゃよかった……(笑)。
古川 ボクじゃないですからね! 孫さんですからね!
糸井 ウオノメパッドくらいで済ませたかった……(笑)。
古川 でもね、こういうのは可能になってきてるんですよ。
PHSの小さな発信機を、子供がキーホルダーなんかに
くっつけていると、迷子になっても、どこを歩いているか
わかる、というもの。もともとは徘徊老人のために
開発されたんだけれど、これを子供がランドセルに
ぶらさげるだけで、子供の居場所がわかるようになる。
それと同じデバイスは、今、北海道の熊に使ってるし、
これから先、全ての牛に使われる予定なんです。
耳たぶなんかに埋め込んで、牛がどこにいるかとか、
そういう管理をしていこうと。
それから、サルや熊の調査に使うだとか。
携帯電話をしょった熊が、そこらへんに徘徊していると
いうわけなんですよ。
携帯電話を持っている人達は今4000万人から
5000万人まで来ているけれど、
9000万人まで来た瞬間にサチュレーションを
起こすことはわかっているから。
糸井 サチュレーションってなんですか?
古川 臨界点まで来てしまって、飽和状態になってしまうこと。
日本でも、テレビなら、各世帯に2台ずつ入った状態で
ちょうど9000万という数字が出るわけです。
1世帯に2コンマ何人しか家族がいないときに、
2コンマ何台の携帯電話で需要が飽和点に達するとすると、
それを3億個にまで拡大するためには何が必要か?
それは、二足歩行だろうが車輪がついていようが、
動くものには全部携帯をのせろ、という話なんです。
いまは、価格の問題があるから、自転車に携帯電話を
入れるというのはバカバカしい話だけれども、
でも、自転車についていればね、盗難に遭っても
どこにあるかがすぐにわかる。
そういうふうに考えると、自動車の中にも入っていて、
携帯電話と自動車を別々にしないでおくのもいいし、
ひょっとしたら旅行鞄だとか、ころがして移動する
ものは、すべからく、猫だろうが犬だろうが、
携帯電話をつけていったら、という発想になるんです。
糸井 デジタル時計に近いですね。
つまり、飽和点に達しつつある商品というのは、
どんどん、自分を無化していくことで生き残っていく、
みたいになっていきますよね。
古川 その結果、すべての営業マンがどこで何をしているのかが
管理の対象になったり、浮気の現場を押さえられたりとか
しちゃうかもしれないけど。
今は建物は平面だけじゃなくて、高さがあるから、
「ホテルだって? レストランにいただけだ!」
「あなたが18階にいたの、わかってるのよ!」
とかなっちゃったらどうするか(笑)なんて話にも
なるわけだけれど。
糸井 「そんなに知ってどうするの?」という世界になりますね。
知らなきゃよかったのに、って。
これからどうなっていくか、ってことなんですけれど、
まあ、どうなったっていいような気もするんだけれど、
どこのところが変わると、人間という生き物にとって
よかったな、という社会になるんでしょうか。
古川 同じことを繰り返ししないで済む、ということ。
これは非常に単純な事でもいいんです。
たとえば、停電した後に、家の中で時刻をセットしなくちゃ
いけない場所が、何ヵ所あるか? と考えたら、
きっと10ヵ所以上ありますよね。
そんなものは、「いま時刻は何時何分です」ってことを
無線で飛ばしてくれるデバイスがあれば、
全部一度に入るはずなんですよ。
ひとつ賢いデバイスがあれば、そのデバイスを持って
近づくと、時刻に差がある場合、
「こっちのほうが正しい」
っていうことをデバイスが判断して、
全部修正してくれる、とか。
繰り返して人間がやらなくても、同期をとってくれる。
それから、メディアの違いをのりこえて、
情報をやり取りしてくれるもの。
ただ携帯電話に入ってきた情報で、いいな、と思って、
それを音や映像で見たい、となったら、それを
テレビやファクスに出してくれる。
つながっている経路も違うし、メディアの密度も
違うんだけれど、関連した情報に関しては、
それを乗り越えて伝えてくれる。
メディア変換しなくていい。
たとえばこの対談にしても、録音しているテープっていう
メディアと、キーボード叩いて文字原稿にするっていう
ことの間にあるのは、人間が介在して……、
糸井 無駄に見える作業をしている。
古川 その作業は本来、テクノロジーがやってくれたら
いちばんいいのに、いちばん気を利かせてやってくれる、
メディア変換ができる機構っていうのがなくて、
人間がテープ聞いて、キーボードを叩いている。
そういう部分は、人のかわりに置き換えられるもので
あれば、そこの部分の人間の作業を
限りなくゼロに近くする。
そして、文章のこの部分にハサミを入れて、
こういうふうに仕上げよう、という編集の部分に
人間は集中することが出来る。
糸井 「君じゃなきゃできないことをするのは、君なんだよ」
っていうのは、最後の理想社会なんですよね。
古川 そしてね、「君」というだけではなくてね、
最後に、いちばん「痛い」ものとか、「嬉しい」ものだとか
そういうものに、より自分自身の神経を
集中できるようにする時代にすること。
前に話した「心は一切変わっていないんだ」
とおっしゃる部分ですよ。
心を、じゅうぶん注ぐ、もしくはそれを使って感じ入る、
感じた後に涙を流す、やさしい気持ちになる、
という時間がないほどに、いろんなことに追われている。
それ自体を少しずつ減らしていくことによって、
もう少しやさしい時間というのかな、
一緒に泣ける時間が、生まれてくるんじゃないのかな。
糸井 うんうん。
古川 今は、本来、道具であって欲しいものが
目的化しちゃってるんです。
インターネットなんて本来は道具でしかすぎないのに、
それをやること自体が目的化しているものために、
なんかちょっと方向、まちがっているんじゃないかと
思うんですよ。
糸井 「過渡期」を感じますね。
古川 僕、よく言うんだけど、「マルチメディア」という言葉を
語っている時代があった。過去、ぼくらはそういうことを
前面に出して主張してうたい文句にしたり、
人を惹きつける言葉として使ったことがあるでしょう?
それは、白黒映画の時代に、カラーの映画を
「総天然色」ってうたったものがたくさんあったのと……
糸井 同じですよね。
古川 そういうものが前面に出ているのは何だ? っていうことを
考えると、映画に色のついていない時代だから、
色がついている映画が1本出てくると
「総天然色」って言わなきゃいけない。
糸井 やたらと色のついた花を映したりしてましたよね。
古川 本来そのなかで主張されるコンテクストじゃなくてね、
「色がついているんだぞ、すごいんだぞ」
っていうところにエネルギーを集中しちゃうために
かえって時間をつかってしまったり、
本質を見えなくさせてしまっている。
糸井 全く賛成だなあ。
「できる」ってことを喜びすぎていますよね。
できて、何を流すの? っていうことを忘れて。
僕、もっと素人の時から、マルチメディアがどうのって、
必ず会議とかで出るんだけど、
「早い話が、マルチメディアという言葉を使って
 いちばん嬉しいのって
 この研究会に出ている人じゃないの?」
ってイヤミを言ったことがあるんだけど(笑)。
その人達は面白いだろうけど、
何だかピンと来ないですよね、って思ってて。
そのときの気持ちって言うのは、「何流すの?」
ってことで。水道管をひく工事ばっかりに夢中になるけど
「出てくる水は何なの?」っていうところで、
おいしい・まずいがわからない人が水道管の話してると
取り残されたような気がするんですね。
そうでなくてもクリエイティブ単価がどんどん
下がっていますから、
「誰でも出来るものをやりとりしているだけ」
ってなっちゃったときには、やっぱり、
本当に面白いものってない、ですよね。
古川 僕はもっともっと、各業界で生きてきたプロの人、
……映像のプロなり、物を書くプロだったり、
それから絵を描くプロだったり、写真のプロが、
インターネットをひとつの道具として、
面白いと思って選択してくれたときに、
「活版印刷じゃなくてオフセット印刷ができたから
 自己表現もよくなったね」
っていうレベルに実際にたどり着いたと、
認めていただけたらいいと思うんです。
たとえば下版までのスケジュールがあと3日
余裕ができるだとか、それから実際に印刷したときには、
色の表現にしてもよくなったと認められるような
メリットを感じられるような。
いまのインターネットというのは、
他の業界で生きてきたプロが混ざらないうちに、
技術者だけが固まって、「こんなものができる」
なんて言ってるようなものなんです。
それは素人の文化祭の発表会だよ、ってことでね。
糸井 やっぱり、新しいメディアに関わっている人達って、
今までと違うことをしようという意識がとても強いから、
アンチ・テレビになったり、アンチ・雑誌になったりして
インターネットをやっちゃったりしがちなんですよね。
僕は、たまたま素人として始めたおかげで、
へたくそなんだけど、アンチの気分は何にも持ってない
んですよ。「全部ほんとうはつながれるはずだ」
っていう気持ちがあるんで、ひとつのセットにならなくても
「俺はいま、じゅうぶん、マルチメディアだよ」
っていう気分はあるんですよね。

(つづく)

1999-11-19-FRI

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