ほぼ日・デリバリー版。

第4号 200人の先輩ことば・前編。


みなさん、こんにちは!!!

今日と明日は、いままでデリバリー版のなかで
いちばんお問いあわせの多かった特集をお届けいたします。

「先輩ことば」というタイトルで、
現在にいたるまで、もう2か月ほど続いている、
「先輩から言われたことばで、印象に残っているモノ」
についての投稿コーナーなのですが、
みなさんからのメールが、とっても質がいいんです。

「この言葉を大切にして、
 今もどこかでがんばっているんだろうなぁ」
と思えるようなメールが多いなかで、
現在まで、200通以上の投稿が、
デリバリー版&本紙「ほぼ日」に掲載されていきました。

このコーナーめあてにデリバリー版に登録するかたも
たくさんいたという特集ですので、このたび、
「まとめて読みたい!」
「まだ読んだことがないよ?」
という人のために、
200人ぶん以上の先輩ことばを、
まとめて、ご用意いたしました!!!

今日は、まず、100人ぶんを味わってみてくださいませ!
後編の100人ぶんは、明日お届けいたします。





 
 以前働いていた会社でものすごくテンパってた時、
 先輩から
 「1週間後には、ラクになってると思おう」
 と言われたことがありました。
 先輩も辛い時にはそう思っているんだろうなぁ。
 (とと)

 
 高校時代、都内でも当時は強豪の野球チームで
 ベンチに入るか入れないかというボーダーラインにいた
 自分がもうこれ以上無いというくらい練習をして
 どうしたらベンチ入りできるかをコーチに聞いた時、
 返された言葉が・・・
 「『こんなに努力したんだから…』
  『こんなに努力してるのに…』と思った時点では、
  圧倒的に『努力』が足りないのだよ」
 確かに、身と心がスーッと物事に集中できた時
 その行為に対しての見返りって気にならないものですよね。
 当時は真の意味を咀嚼できずにいましたが
 その後、一生懸命やっても結果が出ないとき
 上の言葉が頭によぎり、
 冷静さを取り戻すことがよくあります。
 (も)

 
 アルバイトをしていた会社で、
 大好きだったひとから言われたコトバ。
 「自分の仕事に枠を作るな」
 ・・・その言葉を聞いて以来、
 社歴が一番長いのに
 お茶くみの出番がなぜか多いワタシ。
 誰かが喜んでくれたり、新しいことを覚える喜びって
 文句ばかり言っていては味わえません。
 (ほの)

 
 私の心に残る先輩の言葉ですが、
 「自分の中で満足の収支が合ってればそれでいい」
 ・・・これは尊敬するパン屋さんのご主人の言葉です。
 睡眠時間3時間ほどでもう5年位、
 パンを焼く生活を中心にしている方です。
 パンは仕込みに時間がかかるため、
 丸一日の休みはなく、遊びにも行かず、なまけず、
 さぼらず、日々をパンに捧げているという感じ。
 まさにパンのために生きている人。
 なのにパンは単価が低いため、あんまり儲からず、
 人からは変人扱いをされ、体もぼろぼろ、
 年齢以上に老けておじいちゃんみたいになってます。
 でも、自分の中での収支決算はトントン(黒字ではない)
 ということで、満足の様子です。
 人からは変わって見えても、彼の自己評価は高い。
 そして、そのパンはやはり旨いっ!
 これからもパンを買うことで応援していこうと思ってます。
 なんか、ほぼ日の皆様にも近いモノ、かんじてますけど。
 (yuki♪)

 
 大学受験で私立をいくつ受けるか悩んでいたとき
 「受けなくちゃ受からないのよ」
 と、母に、事も無げに言われました。
 母は小さな頃から優等生で、強気な発言が多い。
 (MI)

 
 高校時代、朝晩夢中でやってた柔道部の練習。
 とっても心に残ってる先輩の言葉は、二つ。
 「苦しくて倒れそうな時にふんばって出るのが本当の技」
 「辞めるのはいつでもできる。」
 (とも♀/33)

 
 「長く家を空けるときは、家をきれいにして出なさい」
 という母の言葉を、小さいときは「ふん」と思っていたのですが、
 最近はなんだか「生きる覚悟」みたいに思えて来ました。
 一瞬先もわからないから、大事に生きよう、みたいな。
 母は今日、家中をきれいにしてから
 入院していきました(検査入院ですが)
 私も午後から出張なので、
 これから部屋に掃除機をかけようと思います。
 (なおなお)

 
 某デパートの広告担当で
 すごいかっこいい人生を送っているおじいさんがいました。
 ある日わたしが、若気の至りで
 「こんな会社、やめてやる」とスキルアップのために
 転職することをこのおじいさんに告げたら、止めもしないで、
 「どこに行くか、じゃなくて、何をやるか、だよな?」
 と、わたしの門出を祝ってくれました。
 (マチス)

 
 「人に迷惑をかけてでも、好きなことをしなさい」
 と、父から、わたしが高校生なりに
 真剣に悩んでいたとき、言われました。
 10年経った今でも忘れられません。
 「人に迷惑かけてでもやりたいコト」を
 見つけることができれば、幸せですよね。
 (エリア)

 10
 わたしが今の事業を始める前、
 いったい自分に何ができるのかと
 途方にくれていたとき、
 色んな事業を成功させてきた父に初めて訊ねました。
 「これからはどんな業種が当たると思う?」 
 すると父曰く、
 「何をするかじゃないよ、誰がするかの問題なんだ」
 「何をしたって構わない。誰が何を思って、
  何を提供できるか、成功するかどうかは人次第」
 いつもこの言葉に励まされて、仕事に励んでおります。
 (わ)

 11
 父は物理学者で、白内障になろうが
 網膜剥離になろうが、一時も本を離さない人でした。
 勉強大好き・新しい事大好きで、15年近く前、
 今では考えられないちゃちなコンピューターで
 UFOゲームを作って遊んでいました。今年13回忌です。
 生きていたら80過ぎのおじいちゃんですが、
 何をしていたか・・・ふっと思い出しました。
 「自分のやりたい事、夢中になれる事をみつけろ!」
 いつも、そう言ってました。
 (陽だまり猫)

 12
 「あたりまえと思った時から不幸が始まる」
 色々な事に慣れてきて、自我が強くなったり
 ワガママが前面に出そうになった時
 私の頭をコツンと叩いてくれる。この言葉を思い出すと、
 人から受けた親切に、より一層の喜びを感じます。
 (ノリ)

 13
 会社を辞めたはいいものの、やりたいことに向かいきれず
 立ちすくんでいたときに頂いた言葉です。
 「飛び込む勇気と引く勇気。プライドを捨ててごらん。」
 それなりに大手の企業に勤めていたので、
 いつのまにか「こんなことは私のすることじゃない」とか、
 失敗する事に臆病になっていた私に
 すーっと入ってくる言葉でした。
 そんなことを言っていただける先輩がいる会社に
 勤めていられたことを、幸せに思っています。
 (を)

 14
 「人に迷惑かけてもいいから、やりたいことをやれ」
 この言葉を、私も言われてたら、
 もっと、人生変わってたかも。
 私の親は「人には迷惑かけるな」と言っていました。
 何をするにも、自分がしたいと思うより、
 「人に迷惑になるから」と
 いろんな事あきらめてたような気がします。
 この年(51)になって、最近良く思うのは、
 やりたいことをどんどんやることが、
 どんなに大切かと言うことです。
 出来ないことや日ごろの不満などを
 人のせいにしてるのは、結局やりたいことを
 してないからだと気がついたからです。
 遅いですが、今からはどんどんやりたいことを
 やろうと思います。
 (NANA)

 15
 かなりナンパなのですが
 どうしても忘れられない先輩ことばがあるので
 メールさせてくださいませませ。
 「3年間ここにいて、いい男が
  みつからなかったから職場をかえるのさっ」
 尊敬していた先輩のセリフです。
 当時まだへなちょこの学生だった私は
 「おぉ!かっこいい」と、大感動してしまいました。
 (やす)

 16
 結婚退社することになった11年前。
 職場の先輩から「心の中に花一輪」。
 もう一人の先輩から
 「結婚はしても後悔、しなくても後悔
  嫌だと思ったら、すぐ別れなさい」
 という言葉をもらった。
 ある意味、対照的な言葉だけど
 このふたつの言葉が、いつも心の中にある。
 (ゆ)

 17
 恋愛がぜんぜんうまくいかなくて
 (ホントは今もなんだけどね。トホホ)
 相手のオトコノコに電話をかけたり、
 手紙かいたりバタバタしてたときのこと。
 「うまくいくときは、なにをやってもうまくいく。
  うまくいかないときはジタバタしてもムリ」
 って、ともだちが言ってくれた。
 今ダーリンのようにバタバタ業界にいますが
 「こんなに仕事の量があって、
  締め切りは守れるのだろうか」といつも思います。
 でも友達の言葉を思い出して毎日がんばってます。
 ちょっと意味違うか。ハハハ。
 (yucca)

 18
 小学校5年生くらいだったと思う。
 夏休み恒例のアニメ祭りか何かの映画を
 見に行ったときの話。
 そのときはなぜか母ではなく父と弟と3人だった。
 映画の前に父が知っているという
 喫茶店でパフェを食べた。700円だった。
 私は当時のわが家が裕福ではないことを知っていた。
 両親は共働きだったし、外食は年に1度くらい。
 なのに700円もするパフェを食べてしまった。
 あの時「高いからいいよ」って言って
 パフェなんて食べなければよかったと
 10年以上ずっと後悔にかられていたのです。
 で、今年とうとう両親に謝ってみました。
 「あの時、あんな高いもの頼んでごめんね」って。
 二人ともそんなこと覚えてもいなかった。
 でも何だか笑いと涙が止まらなくて困りました。
 (しみみち)

 19
 私の先輩は母です。
 憧れのイギリスの大学に留学する準備中、
 興味のあった出版社でバイトの口にありついたのですが、
 そこがなかなかの人気のところだったので、
 ヘタに留学するよりも、
 このままいた方が就職には有利かも…と
 心が揺れたことがありました。
 その気持ちを母に言うと、
 「仕事は帰ってきてからでもできるけど、
  留学は今しかできないから、
  今しかできないことをしなさい。
  したいと思ったことをしておかなければ、
  一生後悔が残るから」と後押ししてくれました。
 結果、留学から帰ってその会社に就職できたので、
 二兎とも得たわけですが、
 留学中の2年間は、人生の中で
 一番素晴らしい2年間だったと今でも思ってます。
 (momo)

 20
 おはようございます。
 「先輩のことば」というより、
 日常的に感じる言葉なんですが・・・
 何もやらない人ほど、言い訳が多いです。
 生活や仕事でミスした時に言い訳している時って
 実際は何にもやっていない時が多いんです。
 ちゃんとやっている人って殆ど言い訳しないですよね。
 (凪)

 21
 高校時代、ずっとあこがれていた先輩からは、
 「何も話さない」という言葉を教えてもらいました。
 落ち込んでいた私に、
 黙って渡してくれたホットミルクティー。
 黙って、隣で缶コーヒーを飲むだけ。
 その時飲んだミルクティーはとても温かくて、
 優しい気持ちになれました。
 いまでも時々、ホットミルクティーを飲みます。
 (き)

 22
 たしかに「努力しました」とかまして
 「自分にご褒美」なんて、人に言うことではないですね。
 それも仕事となると…。
 同じ仕事を努力して徹夜でやられるより、
 鼻くそほじりながらでも半日でちゃらっと
 やってくれた方が良いに決まってる。
 それがわからんと社会では辛い。
 (あまこ)

 23
 私が新卒で就いた仕事はガテン系。
 毎日怒られながら仕事してるのに評価されない。
 「こっちだって一生懸命やってるんです」
 と、つい言ってしまった。
 それに対して先輩から
 「金貰ってるんだから一生懸命やって当たり前!」
 と一喝されました。
 それからいろいろ仕事は変わりましたが
 あれ以来仕事で「一生懸命」は
 絶対言わないようにしています。
 (Pinco)

 24
 一時期お世話になったレストランのオーナーから
 言われたことばが印象に残っています。
 フリーとして様々な仕事に携わることにした私に、
 「みんな人生どうしたら正しいかなんて分からないんだ。
  自分を信じろ、信じたものが勝つ」と言われました。
 フリーとして働く場合、稼げない人が多いと聞くし、
 会社勤めをした方がよっぽど安定して稼げるだろうし、
 でも会社勤めだとやりたいことが出来ないしなぁ・・・と
 悩んでいた時期だったので、心にジーンと染みました。
 (みかりん)

 25
 「どんなに大変に思える仕事でも、必ずいつか終わる」
 と以前後輩に言った事がありました。
 ただの経験談だったのですが、ある日
 「あの言葉を思い出すとがんばれるんです」
 と言われて、言ってよかった、と思うと同時に
 自分の言葉が、思わぬところで
 影響を与えている事に驚きました。
 なーんてメールを、夜中2時に会社で打っている私自身に、
 この言葉は必要なんですが。(まだまだ仕事中)
 (も)

 26
 自分と違う人が、
 自分と違う目線から見た世界で得た言葉って
 ものすごく貴重なんですよね。
 それを聞くことができるのは
 とてもすばらしいことなのに
 たまにそれを跳ね除けてしまうこともあります。
 自分からチャンスを捨てているのでしょうね、
 わかっていてもなかなかうまくいかないものです。
 誰から聞いた言葉かは忘れてしまったのですが、
 とても印象に残った言葉があります。
 「最悪だと思えるうちはまだまだいける」
 (きょ)

 27
 もう数年前になりますが、
 フジテレビの「ダウンタウンのごっつええかんじ」の
 刑事物のコントを見ていると、背景の壁に
 「心配すな、安心すな」とはり紙がしてありました。
 コントそのものとは何の関係もない小道具なのですが、
 すごく心に残っています。
 その頃僕は、まさにその言葉の「逆」。
 困った事が起るとすぐヘコみ、
 少しうまく行くと有頂天になるという人生でした。
 ・・・実は、今も事務所の壁に貼ってあります。
 (JIN)

 28
 辞めてしまった会社の先輩から、
 「もっと笑ったほうがええぞ」
 「お、今日は笑顔やな!」
 と言われつづけたことに、本当に感謝しています。
 (こ)

 29
 ほんの興味程度でデザインの学校に通いながら
 何をしたいのか分からない、
 自分に何が向いているのか分からない、
 とばかり考えていたころ、担当のセンセイから、
 「興味を持った時点で、その人には、
  そのことに対する最低限の才能があるんだから」
 と言われた言葉が、目からウロコでした。
 「あ、なんだ。
  私にもデザインの才能があるんじゃん」
 ・・・で、今、広告のデザイナーやってます。
 私には絶対向いてるよ、この仕事。
 今は胸はって言えますよ!
 (くり)

 30
 先輩の言葉でそのとおりだ!と思ったのは・・・
 「神様は頑張っている人のところにしか降りてこない。
  ただし、あー頑張ったなあぐらいでは来ない。
  あーもう本当に頑張ってるでもまだ来ない。
  もーほんっとーに死にそう誰か殺してくれえ!!
  と、叫ぶほど頑張ってると、ふと降りてくるよね』
 です。締め切り前の苦しい時はいつも思い出します。
 (やすぽん)

 31
 地元の商店街のジーンズ屋さんが、
 「好きなものを仕事にしてるとラクだから」
 と言っていた姿が、とても印象的でした。
 (かよ)

 32
 フリーランスでデザイナーをして7年になりますが
 独立したばかりのころ、トントン仕事が入ってきて
 自信を深めていた頃、雇われデザイナー時代から
 お世話になっていた編プロの社長が、
「フリーになって2年は
 みんな独立したご祝儀で仕事をくれるもの。
 真価が問われるのは3年目からだよ」
 とおっしゃいました。
 なるほど、3年目から仕事が激減しました。
 なんとかその後もフリーで仕事を続けていますが
 フリーって実力の世界なんだなぁと日々痛感しております。
 (みっぴ)

 33
 寿退社をすることになり、最後の日に先輩から
 「いままで3年間、
  とうとう一度も嫌な顔見せなかったね」
 と言われたことが、心に残っています。
 (り)

 34
 以前、スキー場でバイトしてました。
 仕事がきつくて夜逃げしたりする人もいたけど
 私は楽しかったので冬はずっとそこでバイトでした。
 そこの社長がよく言ってた言葉なんです。
 「やめた後堂々と前を歩けないようなやめ方は絶対するな」
 こそこそ隠れなきゃならないような
 やめ方をするんじゃなく、やめてからも顔出して
 「ヨッ」って言えるような・・・。
 今でも転職する後輩とかにこの話しちゃいます
 (りか)

 35
 就職して1年たった頃。
 半年ほど一線から外された後、本社に戻された。
 半年のブランクが効いているのか、仕事が全く分からない。
 自暴自棄になり、家に帰って
 「会社を辞めたい」と泣いて母に当り散らした私。
 そんな私に、母は、
 「そんなことで泣いて、馬鹿じゃないの」
 「あんたのことだから、どうせすぐにできるようになるわ」
 突き放した口調で言いました。
 「口は悪いけれど、この人は私のことを信用しているんだ」
 と実感しました。
 今でもやっぱり駄目社員だけど、
 母のあの言葉のおかげで未だに仕事続けてます。
 できなさそうな仕事に直面しても
 「お母さんは、私ならできるって言ってくれた」
 と思うだけで、できそうな気がしてくるのです。
 (よ)

 36
 昔、測量会社に勤めていた頃。
 なんだかよくわからないけれど、
 とても忙しくて、徹夜続きの日々が続いていました。
 そんなある日、先輩と、崖下の、民家の裏で測量していたら、
 その家の持ち主から「うるさい」と怒鳴られました。
 『この家を守るために測量してやっているのに、
  何で怒鳴らなければならないのか』
 と、不満いっぱいの顔で見返したら、
 隣に居た先輩が、すかさず
 「申し訳ありませんでした。気をつけます」
 と謝り、その場は無難に過ぎ去りました。
 自分が、あとから
 「何でですか?
  家のために仕事してやっているのではないですか」
 と言ったら、先輩は
 「それは違う。仕事をさせてもらっているのだ」
 と答えられました。
 あの頃の自分にとって、衝撃的な言葉でした。
 自分の仕事の原点は、
 その言葉にあるような気がしています。
 (ito)

 37
 私が小学5年生の時に亡くなった母方のおじいちゃんの言葉。
 「外国は借金してでも行け。絶対行っただけのことはある」
 会社社長を引退後、会長職になり、
 海外生活の道楽三昧だったらしい、
 うちの親戚の中では伝説のじいさん。
 多少どんな状況であれ、吸収してきたもんの勝ち?
 (セイコ)

 38
 吉祥寺の洋食屋でバイトしてた時、そこのマスターは、
 「なにもそこまで」と思うほど、がむしゃらに働く人でした。
 ある時、お客さんがランチの皿の大半を残して、
 お金を叩き付けるように払って帰ってしまいました。
 そんなこと、私がいた限りでは最初で最後でした。
 日頃のがむしゃらぶりを見ていた私は、
 マスターがかわいそうになっちゃって、
 どう言葉をかけていいかわからずにいたんだけど、
 マスターがふと、
 「ああいうお客さんはいいんだよ」と。
 わたしは「???」状態だったのですが、
 「ああやって、言ってくれる人はまだいいんだよ。
  一番怖いのはなんにも言わないで、
  いつのまにか来なくなっちゃう人。それが一番怖い」
 その言葉は、何度も思い返してしまいます。
 (nai)

 39
 私は米国在住なのですが、
 縁あって歯医者さんで働き始めました。
 日本語が通じるようで通じない環境でして、
 英語が殆どできない私には辛い毎日。
 「言葉が通じるのと心が通じるのは別なんだなあ」と
 いまさらなことにも凹みつつ、
 言葉を目と動きでカバーして仕事してました。

 裏方仕事が続き今日初めて表に出されたのですが、
 (患者さんに
  「○○さんお待たせしました。こちらへどうぞ」
  と案内する仕事。もちろん英語です)
 ガチガチに緊張してる私を見てアメリカ人の患者さんが、
 「手をつないであげようか」と私の手を取って
 診察室まで連れて行ってくれたのです。

 帰りに「ありがとう。おかげで少し安心しました」と
 ヘタな英語でお礼を言ったところ、
 「いちばん大事なのはBeing Yourselfよ」とにっこり。
 おまけに「あなたに必要なものを忘れてたわ!」と振り返り、
 今度はぎゅっと抱きしめてくれたのです。

 どっちが患者なんだか分かりませんが、
 胸がキュンとしてわんわん泣きたくなっちゃいました。
 「もうできない。いっそ自分をバカだと認めたい」
 実は心のどこかでずっとそう思ってたのですが、
 もう少し頑張れそうです。
 (たくらまかん)

 40
 体を壊した時、バイト先のそば屋の社長が、
 「まだ若いんだからあせらなくていいんだよ」
 と、誰もいないときそっと小声で言ってくれた。
 今まで「もう28なんだし・・・」とばかり
 思ってた自分の肩の力を抜いてくれたぁ。
 (じゅの)

 41
 ぼくがまだ幼稚園に入ったか入らないかのころ。
 自転車の前のほうの幼児用椅子に座っていてさ、
 父親が自転車をこいでいたんだ。
 ぼくはオモチャの火薬で鳴らすピストルが欲しかった。
 で、父親がそれを知っていて、買ってやろうかと
 言ったんだよ。
 そしてた、ぼくがですね、
 「おとうちゃん、お金ある?」って聞いたんだって。
 その時は、つらかったと、後々、父が言ってました。
 『自転車泥棒』というイタリア映画が泣けるのは、
 その父親の気持ちが痛いほど描かれているからなんです。
 (※註:これはdarling糸井重里の「先輩ことば」)

 42
 中学何年生かの夏休み、恋愛ごとで、
 それまでの人生最大に落ち込んでました。
 その日も自分の机に向かって何時間も
 「はぁ〜っ」てため息ついてたら、
 父がふら〜っと入ってきて、
 「これ聴いてみ」ってカセットテープを1本渡して、
 またふら〜っとリビングに戻っていきました。
 下手なことばかけられるよりもずっと心にしみて、
 それ以来落ち込むとその情景を思い出して、
 頭の中で音楽鳴らしてます。
 それはなぜかベンチャーズでした。
 (nao)

 43
 高校の美術の講師は、ナゾな雰囲気のある女性でした。
 「背景が、プンッて言ってる」(生徒の絵を見て)
 「木が泣いてる」(その木をさわりながら)
 ・・・などなど、とつぜんチュ−ショ−的で
 ぜんぜんわかりませんって言葉を発していました。
 でも、私が恋やら友人やら将来やらでパニクッって、
 「どうして私ってこうなんだろう?」と凹んでいたら、
 例によって音もなく背後に近づいてきて、
 「いきすぎてみないと、ちょうどいいところは、
  わからないものだから」と言って去っていきました。
 なんだか、やっぱりよくわからなかったけど、
 すごく楽になりました。
 (ぺ)

 44
 受かると言われていた大学入試にことごとく失敗し、
 この先どうすればいいのかと
 駅前をフラフラ歩いていた高3の冬。
 そこで、成績が学年でビリとも噂される
 ヨシオにばったり会いました。
 ヨシオに入試の状況を聞かれ、死にそうな顔で
 「だめ。どこも受からない」と答えたら、
 「大丈夫だって。
  人生ナメてかかればなんとかなるって」と言われました。
 小さなことにクヨクヨしがちな私なので、
 この言葉は目からウロコでした。
 今でも、わたしのおまじない的な言葉になっています。
 (ゆ)

 45
 中学生だった頃のある日、ひょうきん者の父が唐突に
 「死にたいって思うことがあったら、俺に言うんだぞ」
 と言いました。
 当時、何の心当たりもなかった脳天気な私は
 「なんなんだ?おとう?」と口があんぐりしました。
 でも、大人になるうち、仕事や恋愛などで、
 「ああ、逃げ出したい、いなくなっちゃいたい!」
 と思う時、ふとこの言葉が頭に浮かびます。
 父はなぜ、私にこんなことを唐突に言ったのかなぁ?
 もしかして、当時、会社で大変な目にあっていた父が
 誰かに掛けてほしかった言葉かもしれない……。
 (あんこ)

 46
 仕事の意義が感じられない。人間関係も嫌。
 毎日が苦痛で、金曜の夜から月曜が憂鬱でした。
 もう辞めようと思うんだと母に言ったところ、
 「なに言ってんの!会社からお前なんか
  もう要らないって言われるまで
  椅子にかじりついてでもいなさいよ!」
 と言われました。
 あまりに時代錯誤な言葉に感じて、
 言われたときは大笑いしてしまったのですが、後から、
 他もいくらでもあるし、とタカをくくっていた自分と、
 母は全然違うんだと、改めて認識しました。
 こんな風にずっと仕事を続けてきたのかなあと、
 いつもは子供みたいな母を尊敬した言葉でした。
 (はるはる)

 47
 枝豆を食べる時になると、母は、
 「……豆と女には手を出すな」とよく言います。
 一度手を出すとやめられない、らしいです。
 (まりこっち)

 48
 「ひとに楽しませてもらおうなんて考えるな。
  自分から楽しもうとしないと楽しめない」
 ……コンパを前にして、言われた言葉ですが。
 (ふ)

 49
 高校のとき南米に留学が決まり、
 元気一杯、期待一杯で出発する私に
 母が言った言葉は、
 「頑張りすぎちゃだめよ」
 ・・・思いのほか、辛いことが多かった
 留学生活の節目節目に、
 そのことばの意味を噛み締めました。
 自分の無力さに悩んでいた3カ月目には、
 同じ頃北欧にいた友だちが
 「辛い時こそ笑え」という言葉を贈ってくれました。
 彼女も<世界の向こう側>で、
 笑って奮闘しているのかと思うと、元気が出ました。
 それから10年が過ぎたけれど、大変なときは
 いつもこの二つの言葉が私を支えています。
 (H)

 50
 数年前、クラブで
 足元に置いていたカバンを置き引きされました。
 財布・携帯・化粧ポーチ・手帳を
 いっぺんに無くした不便さと
 警察やカード会社への届け出
 (カードは使われていました!)の面倒臭さ、
 何よりもそんな目に遭った
 自分の不注意さにかなりへこんでいた時、
 『置きっぱなしにしてた私が悪いんだけど』
 と同僚にその話をしたら、
 『そんなの盗る方が絶対悪いよ!』
 と言われて泣きそうになりました。
 その一言で、すごく救われた気がしました。
 当たり前のことなのに、
 そう言ってくれた人は少ないです。
 (も)

 51
 かつて、会社の人間関係や仕事が
 うまくいかなくて悩んでいたときのことです。
 あまりつらいので会社を辞めてしまおうと、
 当時の上司でずっとお世話になっていた人に
 辞めることを話したところ、
 「人間関係や仕事上でのイヤなことなんか、
  どこに行っても絶対ある。
  それがつらいからといって
  逃げて辞めてしまったら、
  次のところでもまた逃げて辞めることになるよ。
  どうせ辞めるなら前向きな理由で辞めなさい」
 と言われ、止められました。

 「じゃあ、前向きな理由が見つかるまでは」
 と思ってしばらくがまんしていたら、
 問題は徐々に解決していき、
 辞めたい理由もなくなり、結局その会社には
 そこが倒産するまで(!)在籍していました。
 
 その後、次の職場でも、
 人間関係や仕事上でうまくいかないことがあり、
 「もう辞めてしまいたい」
 と何度も思うことがありました。でも、
 「どうせ辞めるなら前向きな理由で辞めなさい」
 という言葉を思い出してがまんしているうち、
 やっぱり問題のヤマは過ぎていきました。

 今回、出産のため退職することになりました。
 退社日が実は今日です。
 辞める理由が「出産」ということで、
 辞めるごあいさつの時には皆に祝福していただき、
 自分も周りの皆に感謝しつつ、
 とても幸せな気持ちで辞めることができました。
 今、いただいた言葉のありがたみを
 じっくり噛み締めています。
 (うずまき)

 52
 私は営業で、取ってくる仕事が
 美術的価値が低いという理由で
 デザイン部の人達からは評価されず
 面白くない仕事と文句を言われていましたが
 上司は「オレはお前を認める」と言ってくれました。
 ただの一人でも私のことをちゃんと見て
 評価してくれる人がいる、
 それだけで仕事やって行けます。
 (パンダ)

 53
 高校の教室の私の机に、
 前に使っていた誰かが深く彫ってた言葉。
 「から元気・やせがまん・にが笑い」縦書きで。
 クラスメイトが気づき、
 「これ、おもくない?」
 「おもいけど、響く」
 「だね」
 なんて話して以来、ずーっと残っています。
 つらい仕事してるときに、タマに思い出したりします。
 机のらくがきに気づいた彼女は
 すっごく優しく明るくてまじめな子なのですが、
 がんばんなきゃーー、って思いながら
 みんなに優しくしてくれてたのかも、
 なんてチラッと考えたり。
 (の)

 54
 中学時代の先生なんですけど、
 「お前はうちのカミさんの次にいい女になる」
 当時、私はいじめにあっていて、放課後、
 一人で落ち込んでいた時にこう言ってくれました。
 のろけも入った冗談みたいな言葉ですけど、
 今も生涯の夢になってます。
 (しゅしゅ)

 55
 17歳くらいの頃、本屋のおじさんに、
 「高校を中退したような人は信用できない」
 というような事を言われて面接を断られた。
 ショックでした……。
 初めて世間の風を受けたような気がした。
 当時はものすごく憤慨して、
 「なんて偏見なんだ!あんな人に
  バカにされないように頑張ってやる!」
 と思ったけれど、私は中退したことの
 重さを判っていなかったのだなぁと思う。
 でも、あのひと言があったから、
 私には、向上心が芽生えたんですよね。
 (四)

 56
 4年ほど前イベントの
 ナレーターの先輩に言われたことです。
 わたしはものすごく緊張していて
 「あーどうしてこんなに緊張するんだろう」
 と相談したら
 「ちゃんと覚えてないからだよ。」
 とこともなげに言われました。
 ちゃんと覚えているつもりで、
 でも自分では自信ないなと思っていたのは
 きちんと完璧に暗記してないからなんですよ、ほんと。
 時間がないとか言い訳して、
 原稿くるのが遅かったとかいって。
 プロだもん、ちゃんと覚えてないといけないんですよね。
 どなたかの言葉にもありましたが、
 これで、お金もらってるんだもんね!!
 でもお願いみなさん! 
 イベントにいくとき、初日は
 ナレーターがしゃべっている間に変なことしないでね……。
 (元デンコ)

 57
 身近な先輩ではありませんが・・・
 以前テレビ番組で若い修行僧の
 立派なお寺での修行生活見ていたとき、
 どんな質問のしかただったかは覚えていませんが、
 修行の仕事について聞かれ、中堅の僧が
 「与えられた仕事に対して一生懸命にやることです」
 と、ありきたりの返事だったのに対して、
 歩くのも大変な老高僧が、誰の支えも受けず修行し、
 「ポストでベスト」
 と笑顔で答えたの見て目から、ウロコでした。
 簡単な言葉だからか、
 老高僧のイメージとは思えぬ言葉だったからか、
 胸にスコーンと入ってきました。
 (ふーせん)

 58
 私が保育士になろうと受験した学校に
 合格したにもかかわらず、入学金がたりなくて
 「また来年受ければいいや」と思っていた時、
 職場の先生がお金を出してくれました。
 両親がいなかった私は大変ありがたかったのですが
 あまりの事に気安く受けれる行為ではないので
 ご辞退申し上げたところ
 「チャンスとタイミングは
  いつも一緒とは限らないのよ。
  今は丁度その時だと思うの。それを今掴みなさい。
  恩を返そうとかそういう事を思うなら、
  貴女にいつか余裕ができた時、
  次に続く若い人にできる限りのことをしてあげなさい。
  それで十分恩返しになるから」
 と言ってくださいました。
 涙が出るほどありがたかったので
 その時はご好意に甘える事にして進学させていただき
 無事に保育士になる事が出来ました。
 あれから十何年。今は結婚して保育園も辞めましたが
 今でもあの言葉を忘れた事がありません。
 もちろん後輩達には
 できるだけの事はしようと心がけています。
 (じぇにふぁー)

 59
 町工場でずっと汗水たらして働いて少ない給料で
 私たちを育ててくれた両親に感謝して
 初月給で父の好物の鮨をご馳走しました。
 私の勤める会社の手帳も一緒にプレゼント。
 父は「お前も一人前やのう」と笑っていました。
 後日何気なく手帳を開いてみると真っ白でしたが
 食事にいった日付欄に、一行だけ、
 「スシハライッパイ」の文字が……泣けました。
 (モエダム)

 60
 高校三年、最後の体育祭で張り切り、
 体育祭自体は好評に終ったのですが、
 一緒にやってた人たちに、
 「つっぱしりすぎだ」
 との反感を買ってしまいまして、ぼくに内緒で、
 みんなで打ち上げに行かれちゃいました。
 人生最大にへこんでた夏休み。
 手元のバイトをしてたときに
 二十代前半の職人さんに
 「あんちゃん、よく動くなぁ」といわれ、
 「俺の動きって余裕なくないですか?」
 と聞きかえしたら
 「がむしゃらでいいんだよ」と一言。
 泣きそうになりました。多分一生忘れません。
 (まさ)

 61
 私は不器用でどんくさくて,
 何をするにも人の5倍の時間と労力が必要で、
 一つの事にかかりきりになってしまって
 周りが見えなくなってしまいます。
 学生時代は理系の研究室に在籍し、
 朝5:30に家を出て、毎日終電で家に帰っていました。
 生き物相手の研究だったため、土曜も日曜も無く、
 家ではご飯を食べて寝るだけで、
 私の毎日には、本当に研究しかありませんでした。

 そんな年頃の娘を見て、
 母はどんな気持ちでいたのでしょう。
 一人っ娘で、本当は離れたく無いのに
 「美穂(わたし)が好きな仕事をするため」
 家を離れて一人暮らしをすることを許してくれました。
 母は2〜3日に1通のメールをくれますが、
 先日の母からのメールで、泣いてしまいました。
 「7時半ごろ、
  わんこ散歩のとき、涼しい風が吹くので
  川沿いをぷーらぷーら歩いてたら、流れ星。
  何十年かぶりに見た流れ星。
  アッと言う間で、
  『美穂、美穂』の続きが出てこなくって、
  残念ながらお願いはなにも出来ませんでした。
  でもきっとママの気持ちは通じているでしょう。
  だからバランス良くいっぱい食べて、
  お風呂は入って、ゆっくりおやすみ。バイバイ」
 幾つになっても、お嫁にいっても、
 子どもは子どもなんだなぁと思います。
 わたしはがんばります。
 (mihoco)

 62
 うちの母が、
 東京で一人暮らししている私の部屋に来て言った言葉、
 掃除下手な私の部屋を見て発せられた言葉だったのですが。
 「部屋も男も、整理整頓!」
 ……男も、ですか?!
 (まるる)
 
 63
 明石家さんまさんは、
 辛い時に自分にこう言ったそうです。
 「これは現実だ。乗り越えよう」
 (たけ坊♀)

 64
 私はグラフィックのデザインをしていますが
 会社勤めの頃、毎日毎日流れ作業のように
 仕事が消化されていき、
 「くだらん仕事ばっかりで、
  どんどん感性が腐ってしまう!」
 と悩んで焦っていた時に、
 雲の上の存在とも言える尊敬するデザイナーの方が
 「どんなに小さいと思える仕事でも、
  できあがったものに君の名前が見えないインクで
  刷られていると思え。分かる人には分かるんや」
 と言ってくれました。
 「俺もそう思ってここまで来たよ」と笑ってはりましたが
 「プロなら仕事を差別するべからず」
 というような、よく言われるもっともな言葉よりも
 「私でにしかできん日本一のチラシを作ったる!!」
 と燃えました。
 それから10年もこの仕事を続けていられるのは、
 あの言葉のおかげと思います。
 (ぶっちゃー)

 65
 私は17歳の時から親元を離れて
 海外へ出てしまったのですが、
 何か辛い事や大変な事がある度に母がいつも
 「何があっても、貴方が何をしても
  貴方はいつもお父さんとお母さんの宝物よ」
 と言いつづけてくれた事に、とても感謝しています。
 何回もその言葉を聞いて泣きました。
 悲しくて辛い涙が出ていても、それを思い出したら、
 いつも嬉しい涙に代わってくれました。
 親の子供への無条件の愛を感じられたから
 今まで自分を信じてこられた気がします。
 いつか自分が子供を持った時には、
 絶対母と同じような気持ちでいたいと思います。
 (Giwo)

 66
 先輩じゃなくて先生なんですが、中学1年のとき、
 担任の理科の先生が「自主補習」をやるってことで、
 理科が苦手だった私はそれに参加。
 2時間くらい、わからないところを一人一人回って
 教えてくださった定年間近の先生が、最後に
 「わかることに時間がかかるからといって、
  自分をバカなんて思うんじゃない」と言ってくださった。
 その後も私は理科が苦手で、高校では物理でひっかかり、
 という結末だったけど、なにかと仕事で行き詰まると
 この言葉を思い出します。
 (yucca)

 67
 私が20歳そこそこの新米だった頃・・・
 隣の席の先輩(といってもほぼ父に近い年齢)
 の男の人が、仕事の締め切り前になると
 あせっている私の横で、
 「無理するな! 無理を承知で、無理を言う」
 優しさの中にも厳しさがある言葉をかけてくれました。
 それから約10年、時々思い出す一言。
 (しのっち)

 68
 私の両親は40代の後半に
 1度離婚して、また結婚しなおしました。
 原因は父の女性問題でした。
 時は流れ、娘の私が離婚することになった時、
 70歳を越えていた母が言ったのは
 「本当にもうだめかい? この年まで夫婦でいると、
  一緒にいてよかったなと思うときもあるもんだよ」
 ……思うときって言うから、
 思わないときもあるの?と聞いたら、
 「ふふっ」って笑っていました。
 ああ、きっとそういうもんなんだろうなぁ
 と納得できた言葉でした。それに私の両親は
 あんまり仲良くないと思っていたので、
 夫婦っていうのはたとえ子どもでも
 他人からはわからないものなんだなと学びました。
 (まねきねこ)

 69
 3年前、卵巣腫瘍で手術をしました。
 手術後の検査の結果悪性だったことがわかり、
 「もう子どもは産めないんだ」
 精神的にも、かなり参ってしまっていました。
 結婚を約束していた彼との結婚も
 あきらめなければいけないかも、という思いもあって。
 そんなとき、彼が
 「子どもはキャラメルのおまけみたいなものだよ。
  あればきっと楽しいけど、
  キャラメルがおいしければ幸せなんだよ」
 と言ってくれたんです。
 「おいしいキャラメルにならないと」は、
 いまでも、私の元気の呪文です。
 (たんたん)

 70
 高校2年の冬休み。
 初めて彼ができたことで、
 浮かれまくっていた私に母が一言。
 「男はみんな狼なんだから、気をつけなさい!」
 あまりの唐突な発言にビックリして
 「じゃあ、お父さんも狼だったの?」
 と聞き返したところ、
 「・・・・・・お父さんは違ったけどね」
 心配してくれているのが分かっていただけに、
 笑うこともできなくて、
 十数年たった今でも、なんか忘れらない一言。
 (風車)

 71
 もう6年ほど前になりますが
 当時、「どーせ私なんかっ」とかなり荒れて、
 いわゆる「暴走」してた私に、先輩が一言。
 「正しい女の使い方しなきゃ、勿体無いわよ」
 すごく綺麗な先輩だったので
 このコトバにはすごく含蓄がありました……。
 あれからずいぶん経ち、私も人妻になりましたが
 今でもよく考えます。
 私は正しい女の使い方ができたのだろうか、と。
 (硝)

 72
 大学の物理の授業で、
 誰も課題をやってこなかった時、先生が怒って、
 「おまえらは燃えないゴミだ! 少しは燃えてみろ!」
 とおっしゃいました。
 「……燃えても、ゴミってことか」
 そこにはワタシ的に、何か吹っ切れるものがありました。
 (小川商店)

 73
 高校の時の化学の先生は
 その先生はとても分かりやすい教え方で、
 将来教師になりたいと思っていた私の目標でした。
 毎年自分の授業のノートを作り直す熱心な先生でした。
 授業中、難問が有ったりすると
 「苦しい時は上り坂、楽な時は下り坂」が口癖でした。
 その頃は、皆、またあの言葉だぁ、
 などと顔を見合わせたりしてました。
 ただ、わたしは教師にはなりませんでしたが、
 52歳になるこの歳まで、仕事や子育てなどで
 先生のこの言葉に随分何回も、助けられました。
 はじめは「苦しい時は上り坂」ばかり思い出しましたが、
 「楽な時は下り坂」の方が含蓄の有る言葉だと今は思います。
 (ド)

 74
 私の仕事って、漠然としてて、
 手を抜こうと思えば割とバレずに手を抜けちゃいます。
 長い目で見れば、将来ツケがまわってくるんですが、
 どうしても怠け心には勝てない。そんなコトを思ってた時、
 「手を抜く方が疲れる」という言葉を聞きました。
 たしかに、色々手抜きの方法を考えたり
 コソコソするのって、疲れるよなぁと、同感しました。
 これを言ったのって、木村拓哉さん、なんです。
 以来、彼に対して一目置くようになりました。
 (ろ)

 75
 母が亡くなった時、
 当時つきあい始めたばかりの彼が手紙で
 「長女なんだから、つらいだろうけど頑張って!」
 と励ましてくれました。
 でも、もう目一杯頑張っていた私には
 突き放された感じでした。
 彼の前だけでは弱音をはきたかったのに、
 彼の前でも頑張らなくてはならなくなってしまった。

 とっても辛かったその時、信頼する先輩から、
 欲しかったプレゼントをいただきました。
 プレゼントに走り書きでそえられていた言葉は、
 「自分も親を亡くしたけど、こんな思いを
  体験させてもらって今では感謝してるくらいだ」
 というような内容のことでした。

 めちゃくちゃ辛いのに、何で?と思ったけど、
 確かにいろんな事を考えたり、人生観も変わったりで、
 心の激動の何年か後、こんな思いは
 経験した人でなければきっとわからない、
 まだ感謝とまでは思えないけど
 先輩の言葉がしみじみと味わえるようになりました。
 心が深くなった気がします。
 同じ言葉でも、関係の薄い人にいわれるより、
 尊敬している人に言われると
 余計に響くこともありますよね。
 (のじょ)

 76
 私は、ここ一年、
 離婚するにあたり泥沼が続きました。
 つくづく、言葉というコミュニケーションは、
 「効率良く、人を傷つけるのに最適な方法だなぁ」
 と実感する毎日でした。
 わざわざ、暴力をふるうまでもなく、
 文字通り「口先一つで、一瞬に」生きるエネルギーを
 根こそぎ奪い取ったり、取られたり……。
 でも、デリバリー版の「先輩ことば」を読んでると、
 プラスの言葉は、受け取る側の感性と
 セットになってると気づきました。
 私も、すさんだ心を修復して
 感性が機能するように、頑張ろうと思います。
 (犬2猫3)

 77
 30歳を少し過ぎたころ、
 職場で行き詰まっていました。
 尊敬して頼っていた上司が
 思いのほか利己主義だったことがわかったり、
 同年代で何でも話し合えるような同僚がいなかったり、
 8つ下の部下達の扱いにほとほと悩んでいたり……。
 密かに転職を考えた私は、ある会社に
 履歴書を出し、面接までこぎつけました。
 そこで当時40歳ぐらいの女性の方に
 「なぜ今の会社を辞めようと思うんですか?」
 と質問され、現状を素直に話してみました。
 するとその人はこんなふうにおっしゃいました。

 「あなたは甘えてますね。
  常に誰かに評価してもらえないと不満なんですね。
  職務経歴書を見る限り、あなたは
  責任ある仕事を任されて恵まれた立場にいるし、
  実際仕事も出来るんだと思います。
  でも、誰かに評価してもらえないと
  ヤル気をなくすような人なら、うちでは要りません。
  自分に対する評価は自分でしなさい。
  『今日もよく頑張った』
  と評価できるように仕事をしても、まだ
  やっていけないと思うのなら、その時は
  あらためてうちの面接を受けに来てください」

 そして「がんばってね」と握手をしてくださって。
 涙が出そうになりました。
 今も、ともすればたるみがちな自分ですが、
 あのときの言葉を思い出すと背筋が伸びて元気が出ます。
 あの言葉でひとつ大人になれたと感謝しています。
 (とらこ)

 78
 美人で上品で、大好きだった祖母の言葉。
 「できる時にできることを人にしてあげなさい」
 この言葉が心に引っかかっていまして、
 自分の心に余裕がある時や幸せな時に、
 人におせっかいして、喜んでいます。
 もちろん自己満足。見返りなんて、どうでもいい。
 今までに何度も、この祖母の言葉に救われました。
 (ビビンバ)

 79
 私の父は、
 「女の幸せは結婚だ」と言って憚らない人です。
 大学受験の時など、女は大学など行かなくてよい
 とまで明言し、家族の女衆をあっけにとらせました。
 ですから、私が20代半ばにして留学を決意した時は、
 それはそれは不機嫌で、話になりませんでした。
 「父とは、ちゃんと話ができなかったなあ」
 と思いながら荷物の最終チェックをしていた
 出発当日の朝、不意に父が部屋に入ってきて、
 相変わらずむすっとした顔をしながら
「辛かったら無理せんと
 すぐに帰って来るんだぞ。わかったか。」
 と一言だけ言って、いつものように
 さっさと仕事に行ってしまいました……。
 親の愛情を痛感し、私は泣きながら頷くだけでした。

 博士課程まで進学してしまった今、
 私の海外生活は七年目に突入しました。
 ああして激励をくれた父ですが、私がたまに実家に帰ると、
 「あら、あなたさまは、どちらさまですか?」
 と、しらじらしい意地悪を言ってくれます。
 父親の気持ちも微妙に変化するようです。
 がんばります。
 (かよこん)

 80
 高校生の頃、ぽんぽこぽんに太っていて
 着ていく洋服に困っていました。
 あれこれとっかえひっかえしながら
 「でぶだから似合わない!」
 「ああ、スタイル悪い!」
 などとごねまわっていたら、
 ふだん怒ったことのない母に、
 「私の産んだ子の悪口を言うな!」
 と怒られました。その瞬間から
 母の産んだ子の悪口を言うのはやめました。
 (すずめ4号)
 
 81
 小学校一年生の時の事ですが、
 お隣の男の子と喧嘩をして、
 泣きながら帰ってきた私に、母が一言。
 「あんたは女の子なんだから、泣くんじゃないの!」
 私が悪いの!?と口をポカーンと開けていた私に、母は
 「女の子が泣くと、
  男の子は絶対に謝らないといけないでしょ?
  それはズルイから、したら駄目」
 と優しく教えてくれました。
 その時は理不尽な言い草だと思いましたが、
 段々大きくなるにつれて
 その意味がわかってきたように思います。
 世の中はまだまだ男性よりも女性にとって
 厳しい場面が多いし、母はきっと私に
 強く成長してもらいたかったんだと思います。
 私をピンチから救ってくれた言葉は
 この他にも沢山ありますが、
 これが人生最初の先輩言葉だと思います。
 (あさみ)

 82
 今日、会社の外階段を下ってたら
 大きな荷物を持ったおじいさんが上がってきました。
 割としゃきしゃきしてたので、
 私はそのまま下りていったのですが、
 階段の下に会社の同僚がいて、
 その彼はおじいさんを見上げて
 「手伝わなくて大丈夫かなぁ?」と言いました。
 でも、彼自身もたくさん荷物を持っていたので
 かわりに私が階段を上がって、
 手がふさがっていたおじいさんの代わりに、
 扉を開けました。私がもとの場所に戻ると、彼は
 「いい事したから、きっといいことあるよ」
 さらっと言ったのですが、
 私にとってはとても嬉しいことばで、
 今日1日幸せな気持ちで仕事ができました。
 普通に言えそうなことばですが、
 おじいさんを気遣うところとか、そんな言葉が
 さらっとでるところとか、心に余裕がある人だなぁと
 そんな瞬間の出来事で感じました。
 私より若いのに(私は29です)、心は先輩ですね。
 久しぶりに心に響いたことばだったので書いてみました。
 (タマ)

 83
 デリバリー版の「先輩ことば」の
 「子どもはキャラメルのおまけみたいなものだよ。
  あればきっと楽しいけど、
  キャラメルがおいしければ幸せなんだよ」
 という言葉に「あらまぁ!」と思い、メールを送ります。
 わたしには、大切なひとり息子がいます。
 寝たきり妊婦の7ヶ月を経て、1ヶ月早く産まれた子。
 その子を大切にする余り、
 旦那を差し置いた生活をしている時期に
 尊敬する友だちに言われた言葉があります。それが、
 「子どもはキャラメルのおまけ。
  いつかはどこかへ行くよ。
  キャラメルを大事にしなさい」
 というもので……かなり心に響きました。
 デリバリー版に掲載されていたものとは
 別の方向から見た言葉ですが、ドキッとしたのです。
 わたしは、子どもをかまい過ぎる時の呪文としています。
 (Sumikiti)

 84
 こんにちは!
 日本はもう秋が近づいているのでしょうか?
 アメリカで大学院にかよってます。
 今日は研究やその他の懸念事項が一気にふきだして、
 ちょっとくたくたでした。
 気分まで疲れてきちゃって、一つ一つのことを
 「うまくいかないんじゃないかなあ」
 と思いだしてきて、暗くなって、ついつい、
 同じ下宿の友達(インドネシアン32歳妊娠中)に
 愚痴ってしまいました。
 滅多に弱音を吐くことはないのですが、
 なんかもう、ポロッと出ちゃった。
 そしたら彼女が「あなた、7か条!」というんです。
 7か条というのは(私事ですいませんが)私が
 部屋のホワイトボードに気ままに書いていた心構えでした。
 そういえば彼女は今朝、私の部屋に遊びにきて
 ゆったりしている時に尋ねたのでした。
 「何? あの日本語は」と。
 で、7か条その1は
 「絶対うまくいくと信じること」だったんです。
 友達は「あなた書いてたじゃないの自分で」と言いました。
 確かに一気にしゃきっとしました、その一言を聞いて。
 弱気だったのが、ふっとぶんですよね。
 「そうだ、やることしていれば、きっと」と……。
 (み)

 85
 高校の時、好きな先生の机の上に挟まっていた詩です。
 『自分の感受性ぐらい』という茨城のり子さんの詩。
 「ぱさぱさに乾いてゆく心を 人のせいにするな
  みずから水やりを怠っておいて
  気難しくなってきたのを 友人のせいにするな
  しなやかさを失ったのは どちらなのか
  苛立つのを 近親のせいにするな
  なにもかも 下手だったのはわたくし
  初心消えかかるのを 暮らしのせいにするな
  そもそもが ひよわな志にすぎなかった
  駄目なことの一切を 時代のせいにするな
  わずかに光る 尊厳の放棄
  自分の感受性くらい 自分で守れ
  ばかものよ」
 今思い返しても、この詩がすばらしいと同時に、
 先生の態度そのものが、この詩を
 体現してくれていたように思います。
 私はそんな先生から、沢山のことを
 無言のうちに教わり、憧れていました。
 (遥花)

 86
 大学を出て働き出して、
 どう仕事を進めたらが分らなく泣きそうだった時、
 「頭がつかえないなら、気を使いなさい」
 と先輩に言われました。最初はムッとしたのですが、
 仕事している人に気を使うことで、
 どんなふうに仕事を進めているのかを、
 見られるようになってきました。
 おかげで仕事の手順と、
 人と一緒に働くためのタイミングが見えてきました。
 そうですよね、たしかに、
 新卒間もない頃にすぐに働けるかって言ったら、
 そんな訳はないのでして……。
 (オカピ)

 87
 小学生の頃、何故か一度だけ、
 もし家族が生き別れになったら、
 という話になったことがあります。
 そのとき、普段は自分から話すことがない
 おとなしい母が、
 「もしそうなったら、私はお父さんを探す。
  親子は離れても縁を切っても、血でつながってる。
  その絆は消えへん。
  けど、夫婦は離れたらただの他人や。
  私はそんなん絶対いやや。だからお父さんを探す。
  あんたらはあんたらでそこまで愛し合える人を探して、
  その人と生きていって」と泣きながら話して、
 まだ思春期だった私たち子ども3人は
 驚かされたことがあります。
 その父と母が、親のせいで
 どん底の生活を余儀なくされていた者どうしで
 ずっと励ましあい寄り添って生きてきたことを
 私たち子どもが知らされたのは、
 私たちが20歳を過ぎ、結婚を考える年になってからでした。
 (なおこ)

 88
 以前勤めていた会社の社長の口癖は
 「頭を下げられて怒る人はいない」
 「不平不満は全てを破壊する」
 「お店に来られた方は、例え泥棒でもお客様」でした。
 たしかに、文句を言うと
 うまくいきそうなものもダメになりますよね。
 (neco)

 89
 知り合いのメールに、なにげなーくあったフレーズは、
 「人生なんてあっーという間。
  かっこつけてる場合じゃないよー」
 いつもグズグズ悩み好きな私でしたが、
 これを見てから、今、本当にしたいことって?
 と考えるようになりました。言霊ってあるかも。
 (青子)

 90
 突然の人事異動で慣れない仕事を山ほど目の前に積まれ、
 あっという間に疲労もストレスもピークに達した頃のこと。
 金曜の夜、コピー機の前で大きなため息をついてしまったら、
 そばにいたアメリカ人の社員が
 「"TGIF"って知ってる?」と声をかけてくれました。
 「"Thank God, It's Friday."だよ」
 なんだか涙が出るほどうれしかったです。
 (kozue)

 91
 今年は父が突然倒れて寝たきりになってしまったり、
 私自身がもうすぐ会社を辞めて独立しようと思っていたり、
 どうやら人生の節目のようなので、
 いろいろな先輩達のお言葉のひとつひとつが
 身にしみたり、不安になったり、励まされたりです。 
 高三の最後のの授業で、政経の先生が私たちに、
 「君たち、なんのために勉強しているんだ?
  世の中に負けないために勉強するんだ」と、ひとこと。
 私はずっとそれに対して否定的な意見を持っていましたが、
 30代半ばをすぎた今、ようやくその
 本当の意味がわかってきたように思っています。
 勝ち負けという単純なことではなく、
 「疑問や意見をもつことや、話し合うことを忘れないで」
 ということだったのかなあと……。
 (た)

 92
 以前、勤めていた会社に、仕事やプライベートの事でも、
 たびたび、いやみや文句を言う上司がいた。
 毎日かなり落ち込んでいたその頃、職場のお局さまが、
 「あの人がいるとホント疲れるね。
  でもいなかったら、ただ仕事だけの平凡な日々やと思わん?
  今度、なんか言われたら心の中で一句、
  『世の中はアナタがいるから面白い』これやよ!」
 と言ってくれた。スーーーっと楽になりました。
 なにかあるたび、この一句を口に出して言い聞かせてます。
 (taruru)

 93
 私が新人看護婦として配属されたのは集中治療室。
 毎日が修羅場のような過酷な現実が目の前にあって、
 何も出来ない自分の存在を感じていました。
 そんなある日 、「なかなか打解けてくれないね」
 と先輩方が話してる18歳の男の患者さんに出会いました。
 手術をはじめとした過酷な治療を受けていた彼。
 “気難しい患者さん”という先入観があったものの、
 当時20歳だった私とは年の近い事もあったせいか、
 バンドをやってた彼と音楽好きの私とでは話もあったりして、
 お互いに落ち着いた空気が持てた気がしています。
 「医者はさ、“頑張れ”ってよく言うけど、
  俺は頑張ってんだよね。医者が頑張れよ」
 「**さん(私)の笑顔はいいよね。
  よ〜し!って思えるよ。
  はったりでもいいから、いつも笑っててね」
 そう、併せて言ってくれたことは、忘れられません。
 生死をかけて戦ってる患者さんには、
 いつもうまい言葉がみつからないのですが、
 あの時の彼の言葉達は、私の大きな力になっています。
 当たり前ですが、自分の言葉には責任を持ち、
 目の前の状況の最も良い方向を思い描き、
 強く信じる事、強い笑顔……それを、大事にしています。
 (なおみゅう)

 94
 せつないキモチっを噛み締めることって、私には難しいです。
 パッっと違うこと考えたりしちゃう。
 こういうキモチから、逃げてはいけないのかなぁ。
 私の家庭は、田舎から都会での生活を築きあげてきて、
 両親共に苦労してきたせいか、
 哀しかったり、せつなくなるテレビなんかは
 「見てられない」と変えられる環境にありました。
 相談しても「気にするな」の一言で終了なんですよね。
 (宮子)

 95
 「チャンスはね、華々しく、
  チャンスってわかる形で来ることは少ない。
  一見チャンスに見えないようなピンチの時こそ、
  チャンスなんだよ」
 色々なことが重なり、前に進むことが出来なくなったとき、
 BOSSが言ってくれた言葉です。
 今も色々なことがありますが、この言葉を思い出すと、
 もう少し頑張ってみようと思えるようになりました。
 (なおこ)

 96
 まだ私が入社して3年目くらいの頃、
 仕事や恋愛についていつも相談していた
 会社の50歳くらいの主任さんがいました。
 同じ本部にいるとはいえ、部署が違うのに、
 いろんな女の子から相談を受けてた、
 ちょっとお茶目なおじさまでした。
 ある時、相談しに行ったのでは無く、
 ちょっとした雑談の中でグチっぽくなっていたら、
 「君が思うことが一番正しいんだからね。
  君が思うようにやりなさい」と言われました。
 「大丈夫だよ」って背中を押してもらった気持ちになって!
 それはそれは大きな言葉で、私の大切な言葉になりました。
 それ以来、いつも私の心の中で支えになってる言葉です。
 家庭の問題や仕事でいつもアップアップしてた私を見て、
 ニコニコしながら言ってくれた言葉。
 その主任さんは52歳で糖尿から併発した病で亡くなりましたが、
 後にも先にも、あれほど号泣した葬式は無いと思います。
 (貴)

 97
 大学を出て、念願の広告会社に入社した3年目。
 制作部門の採用だったのに3年間営業の仕事をさせられ
 毎日午前様、精神的にも肉体的にも疲れ果てたところに、
 5年つきあった彼氏にフラれ、さらに母親が借金を作って蒸発。
 マンガのような不幸の襲撃に取り乱した
 自分自身の気持ちを落ち着かせるため、
 会社をやめてしばらく海外に出かけようと思った時。
 大学時代からの男友達に
 「一人になってじっくり今後のことを考えてみる」
 と話したら「え、アンタ今ナニジンなん?」と返されました。
 それに「そんなん現実から逃げるだけなんとちゃうか?」とも。
 同情的な意見が多い中、彼の言葉は妙に新鮮で、
 「考えるだけならここでもできる。
  何かコトをおこすなら前向きな理由がなきゃダメだ」
 ってことに気づけたんですよね。
 結局仕事を続け、制作の仕事もさせてもらえ、
 今は独立して小さいプロダクションをやっています。
 あの時の彼の一言は、今でも私の独立心を支えてくれています。
 (ばけらった)

 98
 昨日、婚姻届を出してきました。
 区役所で届けが受理された後、
 携帯のメールで家族にその旨を知らせたのですが、
 すぐに返事が返ってきたのは意外にも父親で、
 しばらくして母親からの携帯の返事が届きました。
 「おめでとう。二人
  仲良く、お互い歩
  酔って生活。母」
 歩酔って、とした所に、思わず笑ってしまいましたが、
 すかさずメールが消えないよう、保存しました。
 うれしい言葉でした。
 (へ)

 99
 ある日、突然、ほんとに突然、
 クラス全員の女子からの絶交。
 1週間ぐらいしたとき、私の前の席の小林君から
 「どうしたの?最近みんなとハナシしないね」
 「うん」
 「ぼくたちがいるじゃない」
 そう言われ、目の前が開けたようでした。
 あの言葉で私は強くなれました。
 (れお)

 100
 以前勤めていた会社に、どうしても馴染めない係長が居て、
 仕事にかなり厳しい人だったので、
 係長から仕事の依頼を受けると緊張のあまり
 余計に時間がかかったり細かいミスをしたり・・・
 何度頭を下げたか分からないくらいでした。
 でも、私が妊娠中の事、他の男性が私にコピーの仕事を
 山ほど持ってきた時、係長がその男性を呼び何か話した後、
 その男性はコピーを他の人に渡し、
 私には別の仕事を頼んできたんです。
 その頃コピー機は2階にしかなく、
 階段の上り下りが少々辛くなってきてた私は
 正直ホッとしました。
 後でその男性から係長の言葉を聞きました。
 「彼女はどんなに辛くても絶対不満を言わない人だから、
  今は机で出来る仕事を頼むように」
 あまりのありがたさにトイレに駆け込み泣いてしまいました。
 仕事の事しか頭にないつまらない男だとずっと思ってたけど、
 ちゃんと私の事を評価してくれてたことが嬉しかった。
 退職してからもこの事がずっと忘れられず、
 いつかどこかで係長に会う事があったら
 絶対お礼を言おうと思っていたのに、
 その係長が自殺された事を知らされたのは
 数年後の事でした。早く言えば良かった……。
 (TM)






100人ぶんの先輩ことばを読んで、
あなたは、どのように感じましたか?

「ほぼ日」では、先輩が言っていた印象的なことばを、
今もまだ募集しておりますので、
件名を「先輩ことば」として
postman@1101.com
こちらまで、ぜひ、お送りくださいませ!!


(明日に、つづきます)

デリバリー版への激励や感想などは、
メールの表題に「ほぼ日デリバリー版」と書いて
postman@1101.comに送ってください。

2002-10-22-TUE

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