ほぼ日・デリバリー版。

第5号 200人の先輩ことば・後編。


こんにちは!

昨日と今日のこのコーナーでは、
「先輩が言っていた印象的なことば」
という特集を、まとめてお届けしています。

現在もつづいている人気コーナーから、
200通の投稿ぶんの、後半100人ぶんを、
さっそく、今日もご紹介してゆきますよー!!!!
どうぞ、たのしんで読んでみてくださいませ。

(そして、まだデリバリー版に入っていないという方も、
 これをきっかけに、新規登録してくださると嬉しいです)





 101
 「真剣になることと深刻になることは違う」
 大学時代、サークル内で人事や人間関係が
 ごちゃまぜにもめていたとき、
 なにげなく昼ごはんに誘ってくれた先輩が言ってくれました。
 お父様を亡くされた時でも、けっして人に気を遣わせるような
 落ち込んだ様子を見せなかった先輩が見かねるほど
 私たちが「見苦しかった」であろうことと、
 それが先輩が実践して体現していることなのだということが、
 たちどころに伝わってきて素直に聞き入れることができました。
 それ以来、なにかにつまずいたらば
 「暗い顔で悩むよりも笑顔で考えよう」と。
 人生の大切なコツを教えてもらいました。
 (z)

 102
 何年か前、父親が女のひとと一緒に蒸発してしまいました。
 いろいろなことが、ぐちゃぐちゃになり、
 残された家族3人、もうぼろぼろになりそうだった時に、
 たまたま家に1人で居た私がとった電話は、
 父の会社の上司の方からでした。
 「見つかりませんか?」「そうですか」
 短いやりとりの後、最後にその方が
 「御家族お力合わせて、お幸せになって下さい」
 と言われました。私は顔も存じあげない方でしたが、
 そのまっすぐな言葉の暖かさが、張り詰めていた心に染みて、
 絶句し、涙が止まりませんでした。
 家族を守る為、しっかりしなくちゃ、
 と自分に言い聞かせて今日まで生きてきました。
 御本人は、きっと覚えていらっしゃらないでしょうが、
 あの日以来、私の生きる糧となっている言葉を
 ありがとうございます、とお伝えしたいです。
 (tomoco)

 103
 「一日は短い。悩むにはもったいない」
 バイトを辞めるにあたっていろいろと悩んでいた時に、
 バイト仲間さんからいただいた言葉です。
 ちょうど母くらいの歳の、とても物静かな方なんですが、
 お話を聞くと、今まで大変なこともたくさんあった模様。
 「そんな時、この言葉で乗り切ってこられたのかなぁ」
 と思って、じぃ〜んときちゃいました。がんばります!
 (ぺもぺも)

 104
 大学時代に初めて下宿していた時のことです。
 その時私は大風邪をひいてしまい、
 高熱にうなされながらベッドで寝こんでいたら、
 新聞の集金の電話がかかってきました。
 「今から集金に行ってもいいですかー?」
 財布を見ると、1000円くらいしか入っていない。
 高熱のため、下ろしにいく事もできないので、正直に、
 「すいません、今風邪をひいて寝込んでいるので、
  また今度にしてもらえますか?」と頼むと、
 「しんどい時に悪かったねぇ。
  集金はまた今度でいいから。早く元気になってね」
 と、集金のオバちゃんは
 やさしく電話を切ってくれました。

 しばらく寝ていると、ピンポーンと玄関のベルが鳴り
 友達かなと思って覗いてみると、
 集金のオバちゃんが立っているではありませんか!
 「お金ないのになぁ……」と思いながら
 開けてみると、オバちゃんは私に
 コンビニの袋を押しつけて
 「おねーちゃん、一人暮らしでしょ?
  これ食べて元気になってね」
 と言い、すぐに帰ってしまいました。
 袋の中身はコンビニの冷凍うどん
 (コンロにかけるだけのもの)でした。
 一人暮らし+病気という超心細い中、
 心遣いがすごく身にしみ、本当に涙が出ました。

 後日、新聞代とうどん代を払おうとしましたが、
 新聞代しか受け取ってもらえず、
 仕方ないので実家から送られてきた外国のチョコレートを
 オバちゃんの子供さんにという事で
 強引にもらってもらいました。
 (小学生の息子さんがいると聞いたので)
 その下宿を引き払うまでの4年間、
 オバちゃんとは仲良くしてもらいました。
 オバちゃん、ありがとー!!
 (み)

 105
 5年前の夏、私はとあるパフォーマンスの
 コンテストに出場しました。
 ところが、緊張の余り、その時の出来は最悪。
 はるばるヨーロッパまで、一体何をしに来たのかと、
 ひどく自己嫌悪に陥り、もうこんなことは
 やめてしまおうとさえ思っていました。
 自分の出番が終わり、客席側に戻る時のことです。
 劇場の入り口の所にとある女性が座っていて、
 私に向かって一言、「Cute!」と言ってくれたのです。
 すっぴんの私はキュートでもなんでもないので、
 パフォーマンスについて言ってくれたのは明らかでした。
 私はこの後、いじけてパフォーマンスをやめることもなく、
 何度も転びながらも、今年の夏、
 ついに大きな賞を獲得することが出来ました。
 私が知らせたわけではないのに、
 何処からか聞きつけてきて、真っ先に
 「おめでとう!」とメールを送ってきてくれたのは、
 あの時の彼女でした。

 彼女の言葉だけが私を励ましてくれたわけではありません。
 いろんな人が色々なことを言ってくれました。
 しかし、シンプルなだけに、
 一番心に残っているのが彼女の言葉でした。
 彼女は既にその時有名なパフォーマーであり、
 今でも精力的に活躍していますが、
 そこに来るまでには長い道のりがあったと聞いています。
 あの時の私の未熟な姿に、
 昔の自分を重ねていたのかもしれません。
 いつか私も、自分と同じような道をたどってきている人に、
 彼女が私にくれたのと
 同じような光を当ててあげられたら、と思います。
 (か)

 106
 10代の後半、高校生の遊びたい盛りに
 私は突然足の激痛に襲われました。
 近所の整形外科をはしごしてもお手上げ。
 日に日に、状態は悪化し歩行困難に……。
 最終的に、大学病院を紹介していただき、
 そこで、数例しか症例のない
 疾患だということが判明しました。
 術後、数ヶ月に及ぶ入院期間中には、
 病名は違えど同じ痛みを理解出来る
 大切な友達が沢山出来ました。

 中には、同じ年代で
 悪性の腫瘍と闘う仲間も何人もいました。
 一人、また一人……。
 大部屋から個室に移り最期を迎えていく方を見ていると、
 「次はあの子が危ないかも?」
 という思い空気が病棟内に立ち込めるんです。
 N君は、私と同じ年齢でした。
 抗がん剤で頭髪が抜け告知も受けていたので
 「俺は、癌や」
 と顔見知りになった頃に話してくれました。
 そのN君が個室に移ってしばらくして、
 ひょっこり顔を出しました。「久し振りやのぉ!」と。
 体調のことなんか話さず、当時流行してたドラマが
 どうなったとか、たわいないことで笑ってた後、彼は、
 「お前は、大変な疾患かもしれないけど、
  悪性じゃなかったよな?
  長くかかっても、生きろよ。ちゃんと生きろよ……」
 返事が出来ずに黙っていると、
 「もうちょい元気になったら
  病院抜け出して、パチンコ行こうなぁ」
 と約束し、彼は病室に戻りました。
 それから2日後、早朝にN君は旅立ちました。

 私の方はその後、退院したものの
 松葉杖での生活が数年続き
 思うようにならない自分の足に苛立ったり、
 その間には高校中退したり。
 何度も逃げ出したい、早く死にたいなんて
 甘ったれた考えに陥ったこともありました。
 でもそのたびに
 「ちゃんと生きろよ」って言葉を思い出します。
 今、自殺者が年々増加してたり、連日、
 親が我が子を殺してしまうニュースが何件も報道されてます。
 その反面今も病院で、生死を見つめながらも
 懸命に生きようとしてる命もあるはずです。
 辛いこともいっぱいある。
 でも、楽しい事もいっぱいあるよ。
 生きてると色んな事があるよなぁって、実感できる。
 同じ年齢だったけど、
 人生を一生懸命闘ったN君からの大事な言葉です。
 (みち)

 107
 私がよく思い出すのは、
 子育て中に言われた父の言葉です。
 本当にいろいろな事を言われたのですが、
 その中でも「本当にその通りだ!」って思ったのは、
 「子どもを叩くのは小学校に上がるまで。
  それ以上大きくなったら言い聞かせなさい。
  大きくなって叩くと、叩かれた理由は忘れても、
  叩かれた痛みだけが残って、それが嫌な思い出になるよ」
 という言葉でした。
 子育て中は「フン、フン」という感じで
 「そんな事言ったって実際に大変なのは私なんだから」
 と、ほとんど耳ちくわで聞いていました。
 今年25歳になろうとする娘は時々
 「あの時は凄く叩かれた!」って、
 自分が悪い事をした事なんてなかったように言います。
 そのたびに
 「お父さんの言った事ほんとうだよーー!」
 って思います。
 父が亡くなって3年経ちますが、
 「ほら、だから言ったじゃないか!
  親のいう事はちゃんと聞くもんだよ」
 って、遺影を見るたびに言われているような気がします。
 そう言えば、私は1度も叩かれた記憶がありません。
 (凪)

 108
 私はシステムエンジニア(SE)の仕事をしてるのですが、
 まだSEになれない、プログラマの頃に、
 先輩に言われたことで
 今でもいつも忘れないようにしている言葉があります。
 ひとつは、
 「デジタルの世界に不可能なことはない」
 ふたつめは、ひとつめと関わるのですが、
 「お客さんに対して『できません』と言ってはいけない」
 このふたつです。

 どんな難しい注文をお客さんから受けても、
 デジタルの世界には出来ないことはありえない、
 と言うのです。
 当時はムチャなことを言う人だなあと思っていたのですが、
 今、ある程度経験を積んでくると、
 これはあながち間違っていなくて、
 デジタルの世界とは、半ファンタジーというくらい、
 実現不可能なことはないと思うのです。

 ただその要望を実現するためには
 莫大な工数(=お金と時間)がかかる可能性があって、
 そこからが折衝の対象になるのです。
 「これだけの工数を頂ければ実現可能です」
 と答えることが、SEの仕事だと、最近分かりました。
 その見積もりをいかに現実的に出せるかが、
 SEとしての力量ではないかと今は思っています。
 この二つの言葉を常に念頭に置くことは、
 正直すごく辛いです。
 「できません」って言えたらラクだろうなーって思います。
 でもこの二つの言葉をいつも守って仕事することが
 自分の仕事に対するプライドであると
 信じて頑張っています。
 (りなみ)

 109
 秋晴れの気持ちいい日ですね。
 この7月に父が急死して3か月になります。
 母は8年前になくなりました。
 父は東京の下町で雑貨屋を営んでおりました。
 当然のことながら、店はしばらくの間
 休業していたのですが、
 今後姉妹で続けていくつもりはないので、
 先週末、在庫処分のセールをしました。
 子どもの頃は学校でからかわれるので、
 家がお店をやっているというのが
 イヤでイヤで仕方がなかったけれど、
 いざ閉店となるとすっごくさびしいです。
 父がなくなったときと、お店の閉店と
 なんだか2度大事なものを失った気持ちです。
 (こまめ)

 110
 わたしは高校を卒業し、
 夜学に通うため新潟から上京しました。
 職場は大手スーパーの子供服売場。
 寮生活をしながら7時に出勤し、
 学校から11時に帰るような生活を続けていました。
 本当にきつかった生活のなかで、
 職場にパートで来ていた50歳くらいのおばさんから
 とても優しくしてもらいました。
 お昼に一緒に食べたナスの糠漬けが
 美味しかったことを思い出します。
 あのころまだ子供だった私は、
 その中に田舎の母を重ねていたのでしょう。
 ほかにも数人のおばさん達と仲良くしていただきました。
 よほど頼りない田舎娘だったのかもしれません。
 今思えば、何とか卒業できたのも、
 おばさん達のおかげでした。
 ……そう言う私も、46才の立派なおばさんです。
 あのときお世話になった分を、
 これから返していかなくては。
 元気で優しかったあのおばさんたちに感謝しながら。
 (せ)

 111
 今朝、通勤のラッシュの駅で
 10代後半の孫とおじいちゃんの姿を見ました。
 彼らを追い越す時に聞こえた会話が、
 おじいちゃん「時間は大丈夫か?」
 お孫さん「あと15分あるから、大丈夫だよ」
 おじいちゃんが、お孫さんのところに
 遊びにきたのでしょうか?
 しきりに電車の発車時間を気にしていました。
 おじいちゃんは、耳が遠いのか、
 お孫さんが大きな声で答えているのが印象的でした。
 私の利用している駅は、
 地下鉄とJRの乗換えができるので
 通勤のラッシュは結構混むのですが、
 背の高い「今時の若者」という外見のお孫さんが、
 自分よりも小さく背中の丸くなった
 おじいちゃんを気遣って歩いている姿が印象的でした。
 月曜の朝のラッシュで、なんとなく
 気分もどよんとしてた私には、とても爽やかな光景でした。
 「こういう、若者もいるんだなあ」
 しみじみ日本も捨てたもんじゃないと思ってしまいました。
 (匿名希望)

 112
 ひょんなことから根っから日本人の私が
 日本でない国に住むようになって
 何をするにも言葉のかべにぶちあたるので
 思わず「はぁぁぁぁぁ・・・」と深いため息をついたとき、
 そばにいたひとがひとこと。
 「ため息つくと幸せが逃げていくよ。はい、すってすって」
 なんだかとてもほわっとした気持ちになって笑ってしまいました。
 実はこのひとこと、先輩ではなく
 13歳のムスメから出たことば。
 いっしょにこの国にやってきたのに
 今や私の通訳となってますが……。 
 それからは、ため息つきたい気持ちになるときは
 このことばを思い出して
 ちょっとだけほわっとあったかくなってます。
 (ふぁ)

 113
  中学生の頃、柔道の練習で鬼教官に
 「身が入っていない!」と怒られて落ちこんでいると、
 1年うえの先輩が、
 「つらいと思うけど、いつか柔道が好きになるから」
 と僕の背中を叩いてくれて、
 ラーメンを放課後おごってくれました。
 今では柔道が好きです。
 (m)

 114
 大手メーカーの工場に就職しました。
 交代制の工場勤めに入ってまもなく、人事部長が、
 「この仕事を好きでやっている者はいない。
  皆、生活するお金を得るためにココで働いているんだ」
 と言われました。当たり前の事なんだけど、
 学生気分の抜けてなかった自分には、目からうろこが落ちた。
 生活するために働くのがオトナなのかなぁ、と。
 (ためごろう)

 115
 今、17歳なんですけど、今年の夏に、3年間くらい、
 ものすごく好きだった人に、別れを言い渡されてしまいました。
 私が海外に引っ越して、遠距離恋愛で頑張っていたけど、
 やっぱり距離に勝てず、彼は、ずっと二股をかけていて、
 新しい彼女に、学校の先輩を選んで、私から去っていきました。
 「自分の何が悪かっただろう?」
 「なんで、先輩を選んで、あたしじゃなかったんだろう?」
 毎日悩みました。苦しくて、嫉妬して、泣いて、眠れない。
 寝ると、夢をみて、写真で見たことのある、
 その新しい彼女である先輩を殺してしまう夢すら見る。
 17歳というこの年で言うのは、ばかげてるかもしれないけど、
 本当に大好きで愛していた人でした。でも、彼は遠くにいった。
 そしたら、ある晩、母親が、
 「あんた、それでも、後悔してない恋愛なんでしょう?」
 と、あきれたように言うので、目が覚めた気がしました。
 その人を好きになった事だけは、後悔していないからです。
 私は母親とは昔からものすごく仲が悪くて、
 その相手と付きあったとき、母親には罵られ続けていましたから、
 今の自分を見て、そういってくれたのは、ビックリしました。
 親に言わせると、どんなことでも、
 「後悔をしない」ってことは、とても大切なことだそうです。
 何かを真剣にする、て、カッコ悪いことじゃないですよね。
 (さ)

 116
 高校の頃、野球部でした。
 練習はけっこうスパルタのきついもので、
 甲子園という目標があっても、それを忘れて、
 妥協してしまいそうなメニューの連続でした。
 その時、1つ上の先輩が
 「こういうのは、自分のためと思うと妥協するだろ?
  違うんだ……『地球のためにやってるんだ』と思え!」
 全然意味わかんないけど、なんかおもしろくて、
 いまでも、なんだか我慢しにくい時
 「地球のため、地球のため」と唱えてます。
 (波平)

 117
 日本を出てからもうすぐ4年目。
 ヨーロッパでの生活もすっかり慣れた。
 海外で一番辛い時は体を壊した時ですね。
 体調が悪く、失恋もして、仕事面でも大きな壁に当たり、
 目の前が真っ暗になってしまったときがあります。
 「日本に帰ろうか……でもここで帰ったら、
  今までの私は何だったのか?」
 そんな事ばかり考えた時、母に電話しました。
 いつもどおり話したつもりですが、
 母はなぜか、そのあと長いメールをくれました。
 「貴女は私たちの大切な娘です。
  遠く離れていても、いつでも、どんな時でも
  貴女のことをお父さんとお母さんが
  見守っていることを忘れないでね。
  今が貴女の人生で苦しいときですが、
  大きく深呼吸をして、凛としてプライドをもって
  悠々として生きてください。必ず道は開けます」
 ただ泣いてしまった。わかってたんだ……。
 やっと目が覚めたんです。
 本当はそんな勇気もないくせに、ちょっと
 「死にたい」なんて思いあがったことを考えたり、
 こともあろうに、つらさを親に気がつかせてしまったり。
 そんな甘えや子供っぽさが、許しがたく恥ずかしかった。
 おとなになろうと思いました。
 今でも挫けそうになると母からのメールを読み返します。
 (Ki-Ti)

 118
 人間関係でつらい気分の時に思い出すのが、
 「言いたいやつは100万人。信者ひとりの神だった」
 という、高校を卒業する時にクラスでつくった本に
 書いてあった、国語教師のI先生の言葉です。
 はっきりいって、意味はよくわからないのですが、
 なんだかこころが軽くなります。
 (か)

 119
 今、私は、アメリカの大学生です。
 去年、アメリカの大学に編入してきました。
 来たばかりの学期に、私は、生物を取ってました。
 果てしなく難しく(医学部の1年生の子がとる)、
 クラスが終わってから、いつも教授に聞いてました。
 ある日、クラスが終わって聞きに行くと、教授が、
 「今、時間ある?」と聞いてきて、他の教室へ移りました。
 そして、クラスでのことを聞いていると、教授は、
 「何でクラス中に、手をあげて聞かないんだ!
  君が手をあげたことによって、
  クラスが中断されるかもしれないが、それは
  いい事だし、君が手をあげることによって、
  クラスのみんなが君のレベルを分かってくれて、
  これから助けてくれるようになるんだよ!
  これからは、遠慮しないでクラス中に聞いて!」
 と言ってくれました。結果的に、
 私は、そのクラスについて行けず、単位を落としました。
 教授にそのことを言うと、
 「そうだよね、君はアメリカ人じゃないから大変だよね。
  特に、このクラスはね……でも、よくがんばった。
  他のクラス、がんばってね!」。
 今でもその教授と学内で会うと、
 教授の方から声を掛けてくれます。
 そして、教授の言葉は、今の私の学校生活を送る中で
 支えになっています。
 (プリン)

 120
 会社に入って早や10年目で、
 女子社員の中では上から3番目になりました。 
 そんな私が3〜4年目ぐらいの頃……。
 会社に行くのが面倒くさくて、嫌だったんです。
 週一回の朝礼にも遅刻、毎日遅刻スレスレ。
 そんな状態の私が、毎朝ちゃんと早く出勤する先輩に
 「○○さんエライ。朝礼ちゃんと出て」と何気なく言ったら、
 「あたりまえじゃん!」と一言。目からウロコが落ちました。
 そうか、早く来るのは当たり前のことなんだ。
 そう気づかされました。
 今では、後輩達にその言葉を
 言えるようにならなければいけない年齢です。
 それ以来、遅刻はほとんどしなくなりましたが、
 もう結婚退社してしまったその先輩には
 いまだに追いつけないし、かなわないのです。
 (た)

 121
 この人こそと思った人が
 別の女の人を好きだと分かった時の先輩ことばです。
 そのとき私は本屋で働いていて、哀しくて
 となりのバイトさん(元ICU治療室の看護婦さんでした)
 とも何も話すことができず……するとその女の人は、
 「わたし、すごい失恋して、手術中
  涙でモニター見えないくらいのときがあって、
  人の命の大切さ、わかっちゃいるけど
  つらくて立っていられなくて、
  変わってもらったことあるのよ。
  でも時間って、すごいよ。
  今、こうして立って本にカバーつけてるからね!」
 それを聞いて、元気になるまで待つか、と思った。
 そして傷は、ゆっくり癒えていきました。
 今でも失恋に限らず思い出す言葉です。
 (さ)

 122
 昨年定年退職した私の父の職業は、
 建設現場の作業員でした。
 毎日ホコリまみれで帰り、夏には
 真っ黒に日焼けして汗疹だらけになり、
 気の利いた会話もできない父を、
 中学・高校時代の私は敬遠していました。

 高校3年の夏、たまたま、私の学校の近くが、
 父の建設現場になったことがありました。
 友達と下校途中通りかかると、
 父はヘルメットをかぶりタオルを首に巻き、
 1人で図面をにらんでいました。
 次の日は同僚と談笑しながら
 家から持参した麦茶を飲んでいました。
 次の日はスケールで寸法を測っていました。
 友達と一緒だったので声を掛ける事も出来ず、
 毎日毎日父の仕事姿を見ていました。
 そして思ったのです。
 「こうやって父が働いてるおかげで、
  今の私があるのだ。
  父が汗水垂らした働いてくれたから、
  毎日食べてこられたのだ」と。

 数日後、友達も一緒でしたが
 初めて父に声を掛けました。
 父はびっくりしながら、とても嬉しそうでした。
 家に帰って来てからも、父は
 そのことを母に何度も話していました。
 今、私はいわゆる大手建設会社で働いています。
 ともすれば、金銭的な事など
 机上の事ばかり目が行ってしまい、
 末端の現場で働いている人を忘れてしまいそうになります。
 そんな時、あの夏の父の姿を思い出すようにしています。
 (陽子)

 123
 消防という仕事に就職してまる1年。
 本来自分が就職したかった
 消防士という仕事でがんばってます。
 一時期先輩たちとなかなか馴染めず、
 自分はこの仕事に向いてないんじゃないかとか
 人間関係がつらくてやめようかなぁと
 思ったことがありました。

 ちょうどそんな時期に大きな火事があって、
 逃げ遅れた人はいなかったのですが
 1匹の犬が鎖につながれたまま逃げれずに
 背中の毛を炎に燻されて鼻を鳴らしていました。
 先輩に言われ自分がその犬を鎖からはずし逃がし救助。
 抵抗するわけでもなく
 おとなしく鎖をはずさせたその犬の姿と眼に、
 命を助けるという仕事の重さを感じました。
 その火事は家一軒全焼だったのですが、
 幸いけが人もなく鎮火。

 たかが犬といえど
 その家の人にとっては大事な家族。
 始めての小さな命を助けた事で
 くじけそうになってた自分に、
 とても大きな勇気と誇りを
 与えてもらったような気がします。
 (め組の雄樹)

 124
 こないだの深夜、(元JUDY AND MARYの)YUKIさんの
 ラジオを聴いていたら、リスナーの10代の男の子からの
 「外国に住んでいたけれど、中学生の途中で
  帰国することになってしまった時の友達との思い出」
 というはがきが読まれていました。それを読んだYUKIちゃんは、
 「大人になったらお金をためて、自分で行けるからね。
  向こうの友達を日本に呼んじゃったりして。
  大人は楽しいですよ。そういうことができるから。
  毎日がセルフプロデュースだからね!」
 と楽しそうに言っていました。
 わたしもまだ10代で、完全な大人ではないかもしれませんが、
 「毎日セルフプロデュース」は何だかすごくイイ!と思いました。
 何気なく発せられたような言葉だったけれど、
 思わずメモしておきました。
 (チェブ)

 125
 うちの近所のコンビニで、
 とても感じのよい店員(男)さんがいるんです。
 挨拶もさわやかだし、レジでの対応も手際がいいし、
 「おでんいかがですか?」なんて会話も機械的ではなく、
 ちゃんとお客さんを相手にしているので、
 いつも感心していました。
 自分より3、4歳上くらいに見える方だったので、
 職種は違っても、仕事に対する態度は見習いたいなと
 密かに思っていました。

 ところが今日そのコンビニで買い物をした際、
 「私の小、中学校の2,3年先輩の方ですよね?」
 とその店員さんが声をかけてきたのです。
 私は彼の事を全く憶えてないのですが、
 彼は私の事をよく知っているようで、どういう訳か
 昔の私に対して好感を持っていてくれていたようです。

 「レジで、おでんなんかを勧めても
  ちゃんと返事してくれるので
  昔と変わらなくて、うれしかったですよ」
 という彼に対して、なぜ私を知っているのかを
 よく聞きたかったのですが、
 後輩と知り恥ずかしくなって、聞けませんでした。
 自分のようなものを憶えていてくれたことは、
 とてもうれしかったのですが、
 今の彼の仕事に対する態度を見ると、
 とても先輩面できない自分が情けなくて、
 恥ずかしくて反省させられた出来事でした。
 (安さん)

 126
 初めての出産、主人も仕事で海外、
 陣痛に耐えるために握れるものといったら
 ベッドの柵ぐらい。「ダメだー…」とか
 ぶつぶつ独り言を言っていた時、助産婦さんは、
 「はじまれば、あとは、終わるだけだからねっ!」
 と言ってくれました。
 (…そうだ、もう、はじまってるんだから、
  あとは産むだけ。そしたら終わりなんだ!)
 この一言で、スーッと気が楽になりました。
 その後「はじまれば終わる」は私の座右の銘になりました。
 ちょっとした辛い事を乗り越えるのに、とっても便利です。
 (えつ)

 127
 料理長を経て農家になった先輩から聞いた言葉です。
 近所のおばさんに
 「いいわね、美味しいオムレツが作れるんだから」
 と、言われた時、先輩は笑ってごまかしたそうですが、
 ぼくに対して、先輩曰くは、
 「ちがうんだよなぁ。
  一日100個とかオムレツ作るんだから。
  失敗の数が違う」
 上手くいかないとき、
 「失敗の数が違うんだ」と思うこの頃です。
 (紀)

 128
 「この仕事には、ただまっすぐ突っ走るんじゃなくて、
  くよくよする力も必要なんだよ。
  立ち止まって悩む人も必要なんだ。この職場の中では、
  周りとは、外れていくこともあるかもしれないけれど、
  でも、だからこそ、あなたみたいな人も、
  うちの職場の中には居たほうがいいんだよ」
 新人研修を担当してくれていた係長が、
 就職して1年近く経とうとしていた頃の私を、
 わざわざ、呼び止めて話してくれた言葉です。
 嬉しかったのと同時に、はっとさせられました。
 私のしている福祉の仕事というのは、
 ある意味、とてもこわい仕事でもあります。
 どうすることが、その方にとってベストなのか。
 独善的にならないように、
 ほんとにこれでよかったのかなと、
 立ち止まってくよくよと考えることも
 必要なことなのだと、改めて心に刻みつけられました。
 (ひ)

 129
 私の父はとても心配性で、
 私たち娘が心配でならないようです。
 平日は忙しいだろうからと、
 我慢して我慢して、週末に電話をかけてきます。
 「ご飯食べよるね? お金は足りとるね?」
 いつも同じ事を聞いてきて、私は時々、
 うんざりしながら返事をしていました。
 もう、子供じゃないんだからさ。と、思っていたら……。
 先日、その父の頭の中に、ピンポン玉位の
 脳腫瘍が発見されました。
 悪性なのか良性なのか、手術可能なのかなど、
 検査をしていないので、詳しい事は分かりません。
 本人が一番恐くて心配だろうけど、
 私も心配でたまりません。こうなって初めて、
 「無条件に心配してもらえる」
 ということが、どんなに子供として
 有り難いことだったのかと身に染みて痛感しました。
 週末を楽しみに電話をしてくれているのに
 うとうとしていたからとか、
 ちょっと忙しくしていたからとかで
 留守番応答にしちゃったこと、
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 これからは、毎回ちゃんと出る。
 (す)

 130
 正社員として入社したものの仕事に自信が持てず、
 オロオロしていた私。ある研修に参加した時聞いた、
 他の事業所の方の言葉が今でも印象に残っています。
 「上司は使うものだよ」
 “使う”という言葉は乱暴かもしれませんが、
 上司に迷惑をかけちゃいけないと自分でこなそうとしてできず、
 自信を失っていた私にとっては、かなり衝撃的な言葉でした。
 いい上司というのは、部下の失敗も受け止めてくれる、
 それも上司としての仕事の一部なんだから大丈夫、
 とその人は言いたかったのだと思います。
 研修を終え、職場に戻ると私のまわりは幸い
 「いい上司」の方々がたくさんいました。
 今まで気づかなかっただけでカラ回りしていた自分を
 恥ずかしく思うと同時に、その頃から
 「仕事の進め方」というのがわかってきた気がしています。
 (も)

 131
 最初の就職先での課長が、
 ある日電話で部下を叱ってました。
 「君、ダメだそんなことでは。
  やはりプラスアロハを考えないと」
 これを聞いて、わたしは、
 ハワイでフラダンスを踊る上司たちという
 イヤにのどかな光景を想像してしまいました。
 この課長はいいまつがいが多く、
 「これをノミネート加工して欲しい」などとも……。
 (ki)

 132
 以前、オーストラリアに留学していました。
 さほど英語が話せるわけでもないのに、
 現地に着いてすぐに、現地の高校に通い始めました。
 2〜3週間して、母親から調子はどうか? と電話があると、
 切らなきゃならないのに電話を切ることができず、思わず、
 「英語も思うように通じなくて辛い……」と弱音を吐き、
 泣いてしまいました。母も受話器の向こうで泣いてました。
 その電話の後も部屋に戻って泣いていました。
 そんなとき、学校に3人しかいない日本人のうちの一人が
 偶然にも電話をかけてきました。
 私が泣いている理由を話したら、彼は、
 「そんなに寂しいなら日本に帰りぃ。
  でも、でけへんやろ? 留学は自分で決めたことやろ?
  だったらもう少し頑張れよ。
  それから母親を泣かしたらアカン。
  親ってな、特に母親ってな自分の夫より
  娘や息子がかわいいんや。大事なんや。
  地球の裏側で時計見ながら
  『ご飯を食べただろうか? 学校には慣れただろうか?』
  って、常に心配してるんやから」
 と言われました。
 地球の裏で私を思ってると想像しただけで
 母親に悲しい思いをさせてしまったことに気づきました。
 そして同時になんだかとてもあたたかな気持ちに
 包まれていることにも気づきました。
 (か)

 133
 うちの会社は社長の息子が独裁者のような会社で、
 日々彼の独自の経営戦略(っていうかわがまま)には
 ほとほと困り果てていますが、今の会社で学んだことで
 一番自慢できるのは、接客なんです。
 電話応対から来客時までお客様に嫌な思いは
 絶対させないことを学びました。
 「相手がお客様でも、うちの会社がお客の立場でも、
  相手が学生さんだろうと、接する態度は同じだよ」
 と実行しています。どんなな嫌な相手にもです。
 これ実践してみると、かなり気持ちいいもんですよ。
 (み)

 134
 学生で、診療所でバイトをしていた時のことです。
 夜遅くに事務長(院長の奥さん)とふたりで、
 他愛のない話をしていたのですが、私の話し方に、
 事務長が何かを感じたみたいで、突然、
 「物事はね、白と黒だけじゃないのよ」
 とおっしゃいました。とても穏やかな口調でしたが、
 本当に目からウロコが落ちました。
 (アロエ)

 135
 最近、忙しくて仕事中にかかってくる
 電話に出なかったのですが、そんな時は
 周りの人もみんな忙しく、後輩たちも電話に出ず、
 電話のベルが鳴り響くままになっていたのです。
 私は最初は心の中で
 「おめーら、出ろよ!」と思っていたのですが、
 今日、デリバリー版を読んで、
 「そういうお前が出ろ!」
 と思い、こまめに出るようにしました。
 そうしたら、先輩の私が出ているからか、
 後輩たちもこまめに出るようになったのです。
 あー、びっくり。
 言葉より態度で示すってこのことなんですね。
 (m)

 136
 アメリカのサンフランシスコから
 サンディエゴまでの
 自転車ツアーに参加した時のことです。
 渡米してきたばかりのくせに
 ひらめき一つで参加して、まさか
 海岸沿いの行程が坂ばっかりだなんて知る由もなかった。
 ツアー1日目にして現実の厳しさに気づかせられ、
 後はただ、後悔の嵐に喘いでいました。
 いつものごとく、ぶざまに顎を上げながら
 グループの一番後ろを走っていたところ、
 遥か前方にいたはずのリーダーが、
 いま登った坂を惜し気もなくピューっと下りてきて
 「坂はね、Life is good. Life is goodと
  掛け声をかけながら登ると楽になる。
  ホレ、言ってみぃ」と言うんです。
 こっちは掛け声ったって声もでないってのに。
 ニコニコとこっちを見てるので
 しょうがなくボソボソと言ってみたところ、
 自転車が急に軽くなって
 周りの景色がズンと近付いた気がしました。
 リーダーが自転車をこぎながら
 私の背中を押してくれてたのでした。
 ツアーは無事に終わり、
 私にかけがえのない思い出を残してくれました。
 でも一番印象に残っているのは
 あの時のリーダーの言葉。
 今でも人生の坂道を登ってるなと感じる時、
 自分に掛け声かけてます。
 (きみ)

 137
 就職して2年目くらいのとき、
 一緒に仕事をしていた先輩が苦手で、
 上手くコミュニケーションがとれずにいました。
 それが原因で、わたしは、会社に
 大打撃を与えるミスをしてしまったのです。
 ミスを犯しても自分で
 それをフォローする能力は無く、
 部内の男性総動員で3ヶ月近くかかって
 やっと尻をぬぐってもらいました。
 部長も責任問題で首の皮一枚だったと聞き、
 「私のせいで」と、申し訳なさと惨めさで
 落ち込んでいたとき、他の部署ですが
 いつも声をかけてくれていたおじさんが、
 「部下の尻拭いが仕事なんだから気にすること無いよ」
 と言ってくれたのです。
 「その分これから頑張ったらいいんだよ」
 と言ってくれたおじさんの言葉に
 当時の私はどれだけ救われたか・・・。
 その後一生懸命仕事して5年後出産で退職するときには、
 部長をはじめ、まわりの皆から
 惜しまれて退職する事が出来ました。
 あの時のおじさんの一言が無かったら、
 私は逃げるように自ら退職していたかもしれません。
 誰か一人だけでも自分の味方になってくれるということが、
 どんなに自分の希望になり、
 力になるかを知った出来事でした。
 (ちい)

 138
 昔のアルバイトしてた職場に
 ひとつ年下の男の上司がいました。
 私達は二人とも一見脳天気に見えて超心配性で、
 お互いに不安な事をよく話をしてたのですが、
 そのうちどっちが先に言い出したのか忘れましたが、
 「ほんまに困ってから困ろう」
 と、励ましあうようになりました。
 いまでも不安な時、思い出すとちょっと楽になります。
 (煮卵)

 139
 私は今、営業のお仕事をしています。
 3年前の26歳の時に、
 年上の男の人だらけの営業部に配属されて、
 「こりゃ無理だ!
  早く周りの人みたいにならなきゃ」
 とあせっていた私に、
 3人の先輩がくれたアドバイスを、
 今でも大切にしています。
 「とにかく、まずは約束したことを守りなさい」
 「偉そうにしてはいけません。
  でも、卑屈になる必要は全くありません」
 「あなたのキャラクターにあった方法を
  自分でじっくり考えなさい」
 シンプルなことですが、
 キャラクターにあった方法と聞いた時、
 「ああ、そうなんだ。
  何も、明るい人になったり、元気な人になったり、
  怖い人になったり、ましてや
  男っぽくなったりする必要はないんだ……」
 と思いました。それからは、初対面のお客さんに
 「この小娘!」と思われようが、
 「もじもじした奴だなあ」と思われようが、
 わたしは自分の立場や性格にあったやりかたで
 きちんと対応していけばいいんだと、
 自信を持つことができました。
 この3つの言葉は、お仕事だけじゃなくて、
 ふだんのくらしの中でも時々思い出して、
 いろんなことでついつい焦ってしまう自分に
 まったをかけています。
 (29歳)

 140
 男ばかり兄弟の長女、かつ負けず嫌いで
 新入社員女一人、社内でも女一人のことが多く
 肩肘張っていた私に、社長が投げかけてくれた言葉です。
 社長は、女性のかたでした。
 「女である以上、所詮お父さんにはなれない」
 ずっと社会の中で、
 社長として女性として、そして2児の母として
 生き抜いて頑張ってきた社長だから言える
 リアルな言葉だったと思います。
 女性であることに、
 コンプレックスを抱きそうになっていた私は
 なんだかすっと心がかるくなった気がした。
 なんだかんだ言ってもまだまだ会社は男型で
 女である以上これから先、必ず障壁にぶつかる。
 その時、どうするか?って
 あの日の社長の言葉と共に考えながら
 入社2年目、頑張ってます。
 (おみ)

 141
 ミュンヘンに行ってまいりました。
 バイエルンミュンヘン・ファンハウスを覗いてきました。
 ちゃんと、オリー・カーンのCD(チェーデー)を
 置いてましたし、バイエルン・ミュンヘンチームの
 イヤーブックも、売ってました。
 カーンがとびっっきりのイイ顔でこっちを見ているので、
 迷わず買ってしまいました……。
 あと、デパートの本屋さんで、
 巷でうわさの写真集買いました。
 プロフィールに
 ドイツ語でモットーが書いてあったのですが、
 「ネバーギブアップ」あきらめるな、ですって。
 平積みで、他のものと比べて積みが少なかったのが、
 「売れてる証拠」と思ってしまいました。
 (ゆみ)

 142
 留学先の大学で、英語で自分のことを
 なかなか的確に表現できず悩んでいるとき、
 ジョブフェアの説明会に参加するかどうかで
 私は悩んでおりました。
 そんなとき、友達に言われたんです。
 「できるかできないかって考えるんじゃないよ。
  考えるのはただ一つ。どうやったら事を為せるかだよ。
  絶対やりたいと思って信じてたらできるから」
 ……いつのまにか、英語で思うように表現できないという
 コンプレックスから自分の行動に制約をかけてましたから、
 このアドバイスには救われました。
 いつも足がすくみそうになるとき、
 どうやったら成功することができるかを
 考えるようにしてます。そうすると
 「できないんじゃないか」っていう思いの
 呪縛から解きはなされることができるんです。
 (ピッピ)

 143
 転職した頃言われた言葉。
 「いい加減にやるんなら、
  やらない方がマシな場合もあるんだ」
 心にグサッ! ときた。
 以来20年「いい加減にやらない」を
 肝に銘じて仕事してるんだけど、難しいんだよね。
 「いい加減じゃない」って、どれくらいやればいいの?
 悩んで悩んで円形ハゲまで作っちゃった……。
 仕事っていくらでも手抜き出来るし、いくらでも濃くなる。
 でも、今もリストラ要員にもならず生き残っているのは
 「いい加減にやらなかった」おかげかな?
 (リンゴ)

 144
 あることがあって自信がなくなり、
 落ち込んで気持ちがコントロールできず
 毎日泣いてばかりいた時期がありました。
 「あの時ああすればよかったのか?」
 「私なんて、生きてる意味あるんだろうか?」
 子どもの前でもボロボロ泣いてしまったり。
 心配する三人の子供たちと主人の言葉も耳に入らず、
 食事ができなくなり、心配されるほど痩せました。
 そしたら、話を聞いてもらった同級生のお坊さんが、
 「それじゃ、幽霊だよ。
  過去に未練がましく後ろ髪引かれて、
  未来を夢みて手を前に伸ばすばかり。
  足がない。現在の地に足がついてない。
  ついて出てくる言葉は、うらめしや、だけ。
  これじゃ悲しいよ。今に落ち着こう」
 と言ってくれました。
 その言葉に触れていなかったらと思うと、
 ほんとうにゾッとします。
 「今」に実態のない幽霊になるとこでしたので。
 (くるこ)

 145
 新潟で教員をしているものです。
 子どもたちとのことで落ち込んだり
 子どもたちのおかげで嬉しくなったりの日々です。
 6年前、教員1年目の頃、校内の先生全員に
 見ていただく授業をしたときのこと。
 大げさに誉めるように、と
 いつも言われながらなかなかできず
 その日も上手に作文を書いた子に
 「へーよく書けてるね」の言葉だけでした。
 私としては一生懸命に誉めたつもりでした。
 その場にいた他の先生はすごく上手に誉めていました。
 あとでその先生に
 「私も先生のように誉めることが
  できたらいいと思ってるんですが・・・」
 というようなことを話しました。するとその先生は
 「そんなことはないよ。
  一年間一緒に勉強してきたあの子は、
  あなたの誉め方も分かっている。
  自分は十分誉められたって気付いているよ」
 と言われました。そっか。人と比べすぎず、
 自分というものに自信をもてばいいのだな。
 (ともとも)

 146
 今日の早朝、ぼくの親友で、
 ぼくの知る最も有名な野球選手が学校を離れます。
 チームの本拠地に移動し、
 来期の準備に向け肩の治療に専念する為らしいです。
 その彼がいつも言っているのが、
 「マイナスからスタート……それが何?」という言葉。
 ぼくは彼から、プロを志す気持ちってものを教わった気がします。
 周りで一番努力してたし、一番苦難を楽しんでいました。
 「人間って、大きくなるなあ」って感じました。
 これからも大変でしょうけれども、きっとそのうち、テレビで
 彼が一塁ベースを、イチローより早く走ってる様子が見れそう。
 ぼくたち日本人は、メイドインジャパンだからこそ、
 より努力できるんじゃないか、と思っています。
 (い)

 147
 イラストレーターでエッセイストの
 中山庸子さんの著書の中に、
 「綺麗だから幸せになれるとか、
  エリートだから出世できるという幼稚なものでないから、
  人生はおもしろいのだ」という一文があります。
 コンプレックスの塊の私にとって、
 跳び箱の前の踏み台のような感覚を覚えました。
 (カンキツ)

 148
 美容師になって15年程ですが、駆け出しの頃、
 某メーカーのベテランインストラクターの方が、
 「若いうちは お金を自分の為に使うんだよ!」
 と教えて下さいました。
 美容の仕事をする上で必要なことには
 お金を惜しむな、という意味なのですが、
 「遊ぶにしても無駄な遊び方ではなく、
  何か身に付くような遊び方だよ」というのは、
 20代になったばかりの私にはビックリするような話でした。
 「遊んじゃいけないんじゃなくて、
  遊びながらでも勉強になるんだ〜」と、
 妙に嬉しくなった事を思い出します。
 最近この事を思い出して、
 ディズニー・シーに行こうと決めました。
 うんと楽しんで、何かを見付けて来ようと思います。
 (エスプレッソ)

 149
 私が大切にしている言葉は
 三浦綾子さんの『続・氷点』に出てくる言葉で
 「包帯を巻いてあげられないのなら、
  むやみに人の傷にふれてはならない」というものです。
 以前、あることで人生のがけっぷちに立っていた私には
 「相談にのる」とか「心配している」という言葉で
 むやみやたらと傷に触れてくる友達がいました。
 私は彼女に会うたび、
 傷口に塩を塗りこまれる思いをしていました。
 今はすっかり元気になりましたが、
 自分が実感した分、
 「大事なことなんだな」と心に刻んでいます。
 (みずまる)

 150
 今、グラフィックデザイナーとして働いています。
 いつかはフリーのデザイナーになることを夢見て、
 小さなデザイン事務所で働いています。
 今、私が担当しているのは、ある風俗店の広告全般。
 最初はすごく抵抗がありました。
 何故、こんな仕事をしなくてはならないのか、と。
 ある種の嫌悪感もあったし、
 恥ずかしいという気持ちもありました。
 もっと『まとも』な仕事がしたいと・・。
 でも実際やってみて、自分が
 先入観でしか物事を捉えていなかった事に気付きました。
 業種がどうとか関係なく、
 物事を真剣にやっている人と
 仕事をするのは楽しいです。
 女のコの撮影をする時も、女のコ達の
 前向きさとかひたむきさに心打たれるばかりです。
 正直もっともっとスレてるのかと思ってました。
 だからたまに友人とかに仕事内容を聞かれ、
 答えた時にビックリされても平気になりました。
 本当に今は仕事を楽しめているからです。
 私はデザイナーでアーティストではないんだから、
 クライアントが望む広告を作り上げてこそ、
 一流なんだと思っています。
 その業種がなんであれ、ちゃんと
 作り上げる事が大事なんだと改めて最近思います。
 (22歳・スエ)

 151
 先週までNYに
 ジャズダンスレッスンに行ってきました。
 非常に応用級の技の練習になり、
 ほとんどの人がぶつかったりこけたり
 無様な姿をさらす中、無難な技で
 とりあえず美しくまとめつづける人がいました。
 その人に気付いたとき、先生がおっしゃいました。
 「周りを見なさい。
  こんな難しいことを初めてするのに、
  誰が上手く出来てる? 出来なくていいの。
  ただchallengeするの。ひたすらchallengeするの。
  そうすれば、いつか『あれ、今、私出来た!』って
  思える瞬間が来るの。
  そのとき、それまでの日々が
  あなたの"Good Days"に変わるのよ!」
 (なおこ)

 152
 今、小学校の学校図書館の司書という
 あまり皆さんになじみのない仕事をしています。
 事務職(といっても雑用)と兼務なのと
 臨時雇いという身分のせいもあって、
 用務員のオバサンの下働きのように
 あつかわれることも多く、落ち込む毎日です。
 しかし、先日ちょっと怖いなと敬遠していた
 年配の女性教師に学級日誌を見せられました。
 その先生が都合で休んだときに、
 図書室で自習をするというので、
 何度か面白い本の紹介をしたことがありました。
 学級日誌には毎日「きょうは暑かった」とか
 「寒かった」とか天気関係のことしか書いてないのに、
 図書室に行った日には必ず
 「図書の先生のお話が面白かった」
 と書いてあるというのです。
 うれしくてうれしくて、敬遠していた
 その先生のことも好きになってしまいました。
 辞めようかなと思った時には
 必ずそのときの気持ちを思い出し、
 自分のネジを巻きなおしています。
 (か)

 153
 私が看護士になって一年目。
 交代制勤務の中、緊張も相まって、
 一体どの先輩が初対面でどの人が
 前にあった人か分からなくなってしまいました。
 で、てっきりきちんと挨拶したと
 思い込んでいたおばさん看護婦から
 「全く、最近の若い子は挨拶もできやしない!」
 とピシャリ。
 急いで自己紹介後、即、苦手な人に分類。
 他の人からもちょっとキビシイ人として、
 特別な存在だった気がします。
 が、私を含め新人が揃いもそろって
 似たようなミスをした時にその人が一言。
 「新人を叱るんじゃないわよ!
  新人がきちんとしないのは
  先輩が教えてないからでしょ!
  自分達がきちんと教育してないのを
  新人のせいにするじゃないの!」
 確かにミスをしたのは自分なんですが・・・。
 「新人がきちんとしないのは先輩のせい」
 は目から鱗でした。
 なんて視野が広いんだろう。
 自分、こんな事が言える先輩になれるのかなあ・・・。
 一気に一番好きな人に格上げ。
 それからは先輩・後輩関係だけでなく、
 他の部署との事なども
 言われた言葉を思い出しながらやるようにしてます。
 他人がきちんとしてないのは、
 自分にも何か責任があるかも知れない。
 何気に、自分の人生観を大きく変えた一言だったかも。
 ついでに言うと、大好きな人に格上げ後、
 その人と沢山お話をしたら実は相当いい人でした。
 間違いなくキビシイ人ではありましたが。
 (y)

 154
 うちのダンナさんは、
 小さな小さな土建屋を営んでいます。
 いわゆる二代目さんで、
 お義父さんが興した会社です。
 結婚と共に実家に舞い戻って、
 数年前社長業を義父と交代しました。
 ちょうどバブル真っ最中に学生時代を過ごし、
 羽振りの良かった親のスネをかじりまくってたダンナ。
 いわゆる「ボンボン」なのです。
 それがこの不況に社長業をついで、
 私でさえもかなりかなり不安でした。
 でも、ダンナはお義父さん以上に
 仕事を取ってきて売上を伸ばし、社員を仕切り、
 時には自らも現場で重機に乗ったり測量をして
 とても見違えるほどの人になったのです。
 ある日、ダンナに
 「前と全然違うよね。正直言って不安だった」
 と胸の内を話したところ、ダンナは
 「社長になったらさ、社員の顔の後ろに
  その家族の顔が見えるんだ。不思議だけど、
  その人の奥さんや小さな子供達の顔まではっきり。
  そうするとさ、いい加減な事してられない。
  この子達を不幸にはさせれないって思うんだよ」
 といいました。
 それは社長になったら当然の事なのかもしれません。
 でも、学生時代やその後の仕事、生活を共にしてる私には
 別人に見えるのです。正直言って、惚れ直しました。
 他人の生活を担うという事は、
 これほどまで人を変えるのかとも思いました。
 私も一緒に仕事をしてるので、
 ダンナが何度も何度も壁にぶち当たって、
 悩む姿も見てきました。
 結果なんてまだまだ先すぎて全然見えないけど、
 今、私の不安はかなり軽くなりました。
 でもこんな事、当たり前すぎて知人なんかに言うのは
 とっても恥ずかしいので、ここで言わせてください。
 (b)

 155
 テレビ東京のワールドビジネスサテライトを
 ほにゃーんと見てたら、なんとカーン様が登場。
 「うわ!」とか思って、
 ともだちにメールしまくっちゃいました。
 ちなみに投資についてのキャンペーンの一環で
 インタビューに出演されていたそうです。
 久しぶりにナマのお姿が見られて、しかも
 「こんばんは、オリバーカーンです」とか喋ってたし。
 サービス精神旺盛じゃないですか、カーン様っ。
 でも、硬い株にしか投資しないらしい……さすが!(笑)
 めっちゃ、かっこよかったです。
 (にゅ)

 156
 休暇を取って石垣島に行ってきました。
 とても忙しい毎日を送っていて、
 少々仕事にも疲れ気味で、
 残した仕事のことが頭を離れないままの
 休暇でしたが、石垣にいるお友達は、
 一緒にいるだけで安らげる人達ばかりです。
 泡盛を飲みながら天の川の下で
 たわいもない話をしてくれる事は
 余裕のない生活をしている私にとっては
 どんな風に生きるのが優しいのかを
 考えさせてくれることばかりでした。
 一緒に連れてきた4歳の子に、
 おじいちゃんが何気なく話したことは印象的でした。
 その子が泣きそうになったとき、
 おじいちゃんはまったくうるさがらず、
 「泣かしなさい。泣きたいときは泣かしなさい」
 と言っていたんです。とってもホッとしました。
 この島の人達の生き方にふれたような
 とても優しい気持ちをいただきました。
 また、仕事、ぼちぼちやろーかな。
 (薫)

 157
 つい最近のことなのですが、
 私の友人のAさんのことで悩んでいました。
 彼女は私の持てなかったもの、
 私が欲しかったものを全て兼ね備えているように
 見えるのです。
 同い年ということや、
 経歴が似ているせいかもしれません。
 なににつけても彼女と比べては落ち込んでばかりいました。
 どうにかこの劣等感を乗り越えたくて、
 私の異郷の地でのお姉さんのような人に相談しました。
 彼女が以前にコンプレックスを
 感じたことがあるといっていたので、
 どうやって克服したのかと聞いてみたら、
 「克服なんてしてないよ。
  今でも彼女へのねたみのような感情はある。
  でも彼女が私を慕っている限り、
  突き放すわけにもいかん。
  彼女は何も私に悪いことしてないもん。
  克服なんてする必要ないよ。
  コンプレックスのない人間なんていないんだし」
 それを聞いて、ああ、私はAさんの事も
 自分の事でさえもちゃんと見ていなかったんだ、
 って気づきました。
 ちゃんと彼女の事を見てみれば、劣等感ではなく、
 尊敬できたかもしれないのに。
 彼女は私の見えないところで
 私よりも努力をしたり、慎重に行動してきたかもしれない。
 そして私は、自分の努力不足を他人のせいに
 したかったのかもしれないって思いました。
 それ以来Aさんとは肩の力を抜いて
 話せるようになってきました。
 (敏)

 158
 今週いっぱいで、
 4年半勤めた会社を退職する事になります。
 退職した後は、働きながら
 ガラス工芸の勉強をしようと思っています。
 久しぶりに、自分の未来を決めた!
 という気持ちで、何だか目の前が
 すごく開けている感覚がすがすがしいです。
 退職を決めた私を、なんとか
 引き止めようとしてくれた上司が、
 最後の最後に、
 「ワシを振り切って辞めるんやから、
  ちゃんとモノになれよ!」
 と言ってくれた時には、ぽーーんっ!と
 勢いよく背中を押してもらった感じがしました。
 人の言葉って、ホントに力があるんだなぁ。
 自分が退職する事で、たくさんの人に
 迷惑をかける事になってしまったけれど、
 ちゃんとモノになって「ほらね?」って
 みんなの前にもう一度たてるようになってやるぞ〜、
 という気持ちで今はいっぱいです。
 (葵)

 159
 看護師になって6年目。
 その間、病気や行き詰まりなどで、
 今3ヶ所目の病院で手術室に勤めています。
 そこでも人間関係や、
 自分のやりたいことと違う方向性などで
 悩んでいた私に、卒後すぐに勤めた病院で
 私の指導者をしてくださっていた
 男性の看護師さんがメールでくださった言葉です。
 「自分の意志ではじめたことなら、
  最後まで闘えるはず。それが自尊心というものだ」
 精神的にぎりぎりの状態の中で、
 この先輩の言葉は、空っぽだった私のバッテリーに
 どんどんエネルギーがみなぎっていくようでした。
 今、この言葉をテプラで打って
 メモ帳に貼り付けて持ち歩いています。
 これからも、いろんなことがあると思うけど、
 先輩の言葉の通り、アイデンティティーを失わず、
 がんばっていこうと思います。
 (もーちゃん)

 160
 身内のことで恐縮ですが、
 私は夫の仕事にいつもはっとさせられます。
 夫はゲームのシナリオを書いている人なのですが、
 彼の書く登場人物はみんな
 とても人間くさくていとおしい感じなのです。
 人よりうまくできなかったり、弱かったり。
 でも、そういう部分をなんとかしようと
 頑張っているところが
 私にはじんわりきてしまうのです。
 それは、彼がとても不器用だということを
 知っているからかもしれません。
 昔から勉強もスポーツも人の何倍もやらなければ
 うまくできなくて、就職活動でも何十社と落ち続けて、
 「君みたいに平凡な男はだめだ」
 なんていわれたこともあったそうです。
 でも、そんな風にいわれても
 ずっと頑張ってきた人だからこと、
 こういう弱さを持った人を
 ちゃんと書けるんじゃないかと思うのです。
 私は逆に要領ばかりがよくて、
 昔からちょっとやればまぁまぁ形になる、
 というタイプでした。
 当然、それだと自分は楽だけれど
 誰かの心を動かすなんてできないんですよね。
 夫のようにひたすら真面目に、
 手を抜かずに仕事をするということは
 ひとつの才能じゃないかと私は思ったりしています。
 (ま)

 161
 おととい、私は彼と私の地元の駅にいました。
 夜、小さな駅であまり人気もなく、
 私達はあとちょっと一緒にいようと、
 もうこないバス乗り場のベンチに座っていました。
 そこへ1台の車が止まり、中から
 20代前半の女の子とそのお母さんが降りてきました。
 お母さんはコートが入る大きさの紙袋をトランクから出して、
 大きいけど重くないから、と言って娘に渡しました。
 「ありがとう」
 「また来なさい」
 「うん」
 「風邪ひかないようにね」
 「わかった」
 そして娘は運転席を覗き込み,
 「お父さんありがとう」
 お父さんは無言で娘の方を向いていましたが
 目はあわせていないようでした。
 そして車は発進し、娘はよくみると
 わりとギャル風に近い格好でヴィトンの
 最近のバッグを持っていましたが、
 白い車を見えなくなるまで見つめていました。
 彼女が駅の方へ行ってしまった後、
 私たちはふたりともハッと我に帰り,
 「いいもの見たね」
 「泣いてるでしょ」
 と感動を分かちあいましたとさ。
 ほんとにドラマみたいなワンシーン。
 駅から家が遠いと不便だというけれど、
 お迎えや見送りって家族の絆なんじゃん。
 (あ)

 162
 決して労働条件の良いとはいえない会社で
 また一人同僚が辞めていきます。
 私も正直揺れています。
 たくさん本を読んだり人に相談してみたりしています。
 今の仕事が本当に好きかどうか、
 10数年もやってきて、わからないのです。
 ただひとつ言えるのは、
 脳を半分くらいしか使わないでできる仕事と、
 全神経を集中させて絞りだしていく仕事では
 後者のほうが、終わった後の満足感は全く違うわけで。
 その後者の仕事に携われる私は
 苦しいけど幸せなのだろうか?
 それが報酬に伴っていないところが辛いんだけど。
 そしてこれが素直に好きな仕事だからって言えたら
 もっとスッキリするのですが・・。
 適職かどうかって見極めるのって難しいです。
 でも誰でもない、私が決める事ですよね。
 (ウ)

 163
 高校の校訓は、いまでも時折思い出します。
 わたしが通っていたのは私立の商業高校で、
 その辺りでは、どちらかというと
 「公立に落ちた子が行く学校」でした。
 中学校の途中から勉強を投げてしまった
 わたしは、そこしか受けるところがなかったのです。
 入学してみると、いわゆるヤンキーの子が多くて
 話も会わないし、感覚も違うし、
 どうにもこうにもさっぱりなじめませんでした。
 ただ、商業系の科目は高校からはじめるので
 いきなり出来の良い子になれたのはうれしかったです。
 正直、勉強をするためだけに通っていました。
 その学校の校訓は
 「水の如くなくてならない人になれ」でした。
 いかにも商業高校っぽいですね。
 でも、その言葉が好きで、仕事で躓くといつも考えます。

 仕事で目立つ結果を残せるのは一握りの人かもしれませんが、
 一人で出来ることには限りがあるのですから、
 いつでも、なくてならない人になろうと思っています。
 別にスターになりたいわけではなくて、
 でも、そうなりたいと思っています。
 投げ出してしまわなければ、なんとかなる。と信じています。
 その学校はわたしが卒業して数年後、
 系列の男子校と一緒になって共学高校になりました。
 うらやましい限りです。
 いまは「如水館高校」という名前になっていて、
 甲子園に出たりもしているみたいです。
 高校のときの友達はいませんが、
 甲子園のニュースで学校の名前が出てくると、
 ちょっとうれしいです。
 (のん)

 164
 わたしは、ついこないだ25歳になりました。
 もう、いいお年頃なのですが、
 どうしても化粧がうまくできず、
 仕事に行くときも、デートのときもすっぴんです。
 ともだちはみんなとても上手で、今どきな感じですが、
 わたしは中学生にまちがわれたり、
 男の人と勘違いされたりで、へぼな感じ。
 それを気にしてどんよりしていたころ、彼に
 「自分のことを好きになられんひとは、
  ぼくは好きにならんよ」
 「結婚式も,すっぴんで来てや」
 とサラリと言われ、なんだかハッとしました。
 「へぼでもなんでも、わたしにはこのひとがいるんやな」
 強い気持ちをもてました。
 すっぴんだろうが、へぼかろうが、
 自分なりのやりかたで大切な人を大切に思おう!
 と心に決めました。
 (さ)

 165
 この5年間の間に私の父は
 3回も脳梗塞で倒れました。
 その内の2回は死を覚悟したようなものでした。
 言葉と脳の半分を失いましたが、
 母の決してあきらめない介護と
 本人のリハビリの努力の結果、散歩したり、
 ご飯を食べたり、最近はメールも打てるようになりました。
 しかし生活の細かい所は
 すべて母がしてやらないといけないので
 端から見ても母の負担は相当なものです。
 でも、ある日、私にではなく、私の主人に母が
 「私はお父さん(父)に
  イヤな思いをさせられたことがないの」
 と言ったそうです。主人も私も衝撃を受けました。
 もともと仲のよい両親だとは思っていましたが、
 母の父に対する変わらぬ愛や思いに感動しました。
 (さと)

 166
 私の仕事って、漠然としてて、
 手を抜こうと思えば
 割とバレずに手を抜けちゃいます。
 長い目で見れば、
 将来ツケがまわってくるんですが、
 どうしても怠け心には勝てない。
 そんなコトを思ってた時、
 「手を抜く方が疲れる」
 という言葉を聞きました。
 たしかに、色々手抜きの方法を考えたり
 コソコソするのって、疲れるよなぁと、
 同感しました。
 これを言ったのって、
 木村拓哉さん、なんです。
 以来、彼に対して
 一目置くようになりました。
 (ろ)

 167
 入社して配属された部署にいた
 ある先輩は、未熟者の私なりに
 実行したことに対して、必ず
 「**してくれてありがとう」
 と声をかけてくださいました。
 ああ見てくれている人はいるんだ、
 認めてくれるんだ、と動物占いサルの私は
 どんどん木に登り、調子に乗って
 思いついたアイデアを提案したり
 行動に移したりと、
 のびのび働かせてもらいました。
 そして後輩を指導する立場になり、
 自分がしてもらったように
 「ありがとう」
 の言える先輩になりたいと
 思っていたところ、新入社員から
 「先輩だけです、
  ありがとうなんて言ってくれるの」
 と感謝の言葉をもらいました。
 なんだかくすぐったかったけど、
 こういううれしい気持ちが
 引き継がれていくというのは
 良いもんだなぁと思いました。

 ……今の私は、
 イギリスで修士論文の
 仕上げに取り掛かっています。
 この仕上げを支えるのは、
 先日紹介されていた明石家さんまさんの
 「これは現実だ。乗り切ろう」という言葉。
 口に出して自分を鼓舞しています。
 (だんご)

 168
 8月から全く未経験の業界に就きました。
 30も過ぎると、
 自分が新人を教えた経験も多く、
 「こういう新人にならないと」
 というのはわかっているのですが、
 一から覚えないといけない事が
 あまりにも多く、なかなか出来ない自分に
 悔しくて涙を流す事もしばしばです。

 そういう時って、
 例えばコンビニの店員さんや、
 電車の車掌さんが運転している姿といった、
 仕事をできぱきこなしている
 ありとあらゆる人が、
 とてもかっこよく見えてくるんですね。
 つい「プロってすごいな」と
 憧れの眼差しで眺めてしまいます。
 そして、いかにも新人といった
 店員さんを見ると、心の中で
 「がんばれ」と声を掛けています。
 ……う〜ん、焦ってるなぁわたし。
 (yamako)

 169
 今の部署に異動になって1年半。
 単調かつ外部との接触があまりない仕事に
 「手応えを感じたい!」と。
 気持ちが潰されそうになる時がある。
 そんな時は先輩の
 『仕事は自分で探すものだ』
 という言葉を思い出す。
 まだ自分にはやれることが
 あるんじゃないか、と考えなおしてます。
 (よーこ)

 170
 私はこの春大学を卒業して、
 今は臨時職員として働いています。
 毎日毎日、小学生や中学生に囲まれて、
 自分の人間としての器量を試される、
 とがんばっています。
 でも私のおじいちゃんは私を罵ります。
 「お前はダメだ。
  そんな一文にもならない仕事、
  何のために大学出たのか分からない」
 臨時職員は、世間の目を気にする
 おじいちゃんに言わせれば
 「マトモな職じゃない」のです。
 私自身を否定されているようで、
 やっぱり私はダメなのかなあ……
 と自信を失いかけていました。

 でもあるとき気がつきました。
 お前はダメだと言われるたびに、
 かわいいかわいい生徒の顔が浮かびます。
 毎日私の名前を呼んでくれる、
 大切な生徒達の顔が、いつも以上に
 はっきりと目に浮かぶのです。
 その顔が、この人になんと言われようと、
 私は誇れる仕事をしてるんだよと、
 言っているように感じます。
 そして私は、よし、がんばろ。
 と言う気持ちになれるのでした。
 (ヨッチ)

 171
 教師1年目で担任したクラスは、
 3月には授業が成り立たないくらい、
 秩序がなくなってしまっていました。
 学校へ行くのが、教室へ行くのが苦痛で、
 終業式まで、子どもたちと別れられるまで
 その日数を指折り数える毎日でした。
 そんな私の姿を見て、
 そのクラスを前年度担任していた方が
 言ってくれました。
 「あと何日で別れられる、じゃなくて、
  まだ何日かある、自分には何ができるか、
  そういうふうに考えないと
  子どもたちに申し訳ないし、
  あなたはこの仕事をする人として
  成長はできないよ」と。

 同情し、慰めてくれる人の言葉にも
 確かに救われましたが、私自身それに甘え、
 子どもたちから逃げていたので、
 この方の言葉はこたえました。
 私がこのままじゃいけないんだって
 教えてもらった言葉です。
 (さ)

 172
 私は数年前、今の職場を、
 一度リストラされました。
 原因は他の人にあり、
 その人が引き起こした事件がもとで、
 信用を失った職場は
 仕事をもらえなくなり、
 パート全員一斉に解雇。

 しかし、私を含めて半数近くが
 2ヶ月経たないうちに、
 復職することができました。
 職員の方からは
 「帰ってきてくれてありがとう」
 と声をかけられ、長年使い慣れた道具も
 そのままにしてあるのを見たとき、
 「まだ私はこの仕事を続けてもいいんだ!」
 という思いで胸がいっぱいになりました。

 小学生のころからの夢だった
 仕事を続けて、今年で12年目。
 くじけそうになったときには、
 あの時のことを思い出します。
 (い)

 173
 高校生の時に先輩が言っていた
 「中庸」という言葉を時々思い出します。
 落ち込んだと思えばすぐに
 舞い上がってしまう性格で、
 「平凡なんかつまんない」と
 どこかで思っているところもありました。

 この言葉をもらって、
 それまでの自分が恥ずかしくなったり、
 「中庸」ってなんだろう?
 と思ったりしたことを覚えています。

 干支をすでに一周した今も、やはり
 へこんだりハイテンションになったり
 アップダウンはあるのですが、できるだけ
 偏らず真ん中を歩いていきたいです。
 (まっつー)

 174
 短大を卒業して10年がたちます。
 見知らぬ土地で、
 体育会系のサークルにどっぷり浸かってた
 二年間、行事が終わるごとに
 みんなでに色紙で寄せ書きをしあいました。

 その中でも自分の中で
 最後まで苦手だった女の先輩が
 書いてくれた
 「いつでも心に余裕を持って」
 という一言は、いまだに、
 パニックになったり、真っ白になったとき、
 呪文のように頭にぱっと浮かぶ言葉です。
 今、思い出して色紙を読み返すと、
 ちょっと涙が
 ちょちょぎれそうになりました。
 (ふよう)

 175
 大学を卒業しはじめて就職した会社で
 どの仕事も完璧にしようと
 仕事量的にも精神的にも
 いっぱいいっぱいになってしまい
 終電で帰る日々が続いた頃、先輩に
 「まず、どの仕事も思い切ってやってみろ、
  ダメだったり失敗したら、その時考えて
  『ごめんなさい』すればいいんだよ」
 とはっぱかけられました。
 なんだかこの言葉で
 失敗を恐れている自分に気づいて
 「失敗してもいいんだ」(良い意味で)
 と思え気持ちが楽になりました。
 (じゅん)
 
 176
 就職したばかりの頃、ある方に
 「お金の貯金ではなくて、
  心の貯金をしなさい」
 と言われました。
 ミュージカルや旅行が大好きな私に
 最高のことばでした。
 (い)

 177
 私が家でゴロゴロしていた時期、
 あるジュエリー会社から
 宣伝の電話が入り、私は当時
 あまり健康的な生活をしていなかったので
 その会社のお兄さんに
 「私が会社に出なくても
  他の人が出れば良いんだ」
 なんて口を利いていました。
 ところがお兄さんはそこで
 「若いのにそんな
  老人みたいなことを言ってちゃだめだよ」
 と本心で答えてくれました。
 (みつぽん)

 178
 どう考えても、
 1人で乗り切るには大きすぎる仕事。
 途方に暮れながら残業をする。
 フロアには私ひとり。
 少し前に帰った、
 尊敬する元上司からメールが来た。
 「『なぜ自分が?』などと言わず、
  淡々とやるように」と。
  
 PM11時をまわった時、
 突然涙があふれてきた。
 泣き出したら止まらなくなり、
 しゃくり上げながら泣いた。
 「あー、泣きたかったんだ」分かった。
 ひとしきり泣いたら、お腹が空いてた。
 大事にとっておいた
 最後のカップラーメンにお湯を注ぎ、
 メガネをとる。
 カップラーメン1つとバウムクーヘンで、
 夜が明けるまで頑張った。
 そして、無事に乗り切った。
 誰もほめてくれなかったけど、
 私は成長した。
 そう思う。いいの、それで十分。
(かよ)

 179
 仕事上のつながりはないけれど、
 とても仲良しの新入社員から
 短いメールが届きました。
 「ヘマしてしまって、
  すごく落ち込んでいます」
 本人に話を聞いてみたところ、
 ヘマしてしまったという事実にも
 もちろん落ち込んでいるんだけど、
 それ以上に上司の
 「キミ1人が悪いわけではなくて、
  誰でも出来るようにしておかなかった、
  という事実がいけないんだ」
 という優しい言葉に、
 複雑な気持ちになっているとのこと。

 それを話している彼の顔は、
 本当に落ち込んでいました。
 彼を励ましながらも、
 入社当時のあの日の自分を見ているようで、
 なんだか懐かしさを覚えました。
 そして、懐かしさと同時に
 入社当時の匂いが鼻をかすめました。
 『初心忘るべからず』
 ありきたりな言葉ですが、
 その言葉の重みを今かみしめています。
 (みゆみゆ)

 180
 高専卒業のとき、
 卒業アルバムの最後のページに
 寄せ書きをしました。
 同級生の男の子が書いてくれた言葉。
 「人生の最も損な場面を
  微笑みをもって担当せよ」
 きっと誰かエライ人の
 言葉なのかもしれません。
 でも、彼が達筆な豪快な文字で
 書いてくれたのを眺めて
 卒業のさみしさと言葉のあったかさに、
 なんだか感動してしまいました。
 あれから10年、そんな風には
 決して生きていない私がいました。
 ちょっと反省です。
 (こなつ)

 181
 私は今日も残業して、
 今かえってきたところです。
 某自動車メーカーに勤めています。
 リストラで人の減ったあと、
 仕事量は反比例して増加する一方。
 儲かるために忙しいのならいいのですが、
 親会社のワガママに
 振り回されるだけの日々。
 ヤレヤレです。
 でも、ヘンな話、私はここ最近、
 ウチの会社が結構好きになっています。
 あれだけの大赤字を出しながらも
 倒産することなく、あれだけの人数が
 一度に退職しながらも
 残った人数で働きつづけ、
 あれだけ親会社に痛めつけられながらも、
 ロータリーエンジンを死守し、
 新車量産までこぎつけた。
 みんな、すごいなあ。

 私は今まで、スタッフ部門で
 事務をやっていましたが
 どうやら11月くらいから
 異動になりそうです。
 部品買付けを担当する部門に
 配属になる予定。
 そこでどんな仕事をするようになるか
 分かりませんが、
 取引先の方々と一緒になって、
 いい部品を創っていけるような
 仕事をしたいなと思っています。
 (ぽん)

 182
 私は社会人一年生ですが、
 就職して以来、ごはんを
 つくらなくなってしまいました。
 ごはんを作るエネルギーが、
 仕事でがんばったという言葉を理由に、
 生み出せなくなって。

 自分が覚悟を決めてはじめた仕事。
 そのために恋人との暮らしを
 軽視した態度となってしまい、
 4年つきあった彼と別れました。
 家族以上の存在が
 「それぞれの道を行く、
  そのためには二人がつきあい続けても
  結婚はできない」という言葉で、
 二人の暮らしが急に一人になりました。

 それまでは彼がごはんを
 用意して待ってくれていたことが、
 なくなって気楽にもなり、
 仕事に没頭しています。
 でもまだ、ひとりでごはんを
 食べるたびに切なくなります。
 笑って毎日仕事してますけど。
 (ナガエ)

 183
 私は毎日パソコンに
 何十時間と向き合って仕事をしていて、
 たぶん会社では
 生き物として扱われていません。
 納期を守るのが使命で、その為には
 体を壊すぎりぎりまで働いています。

 それを周りもやってるし、
 もっと大変な人はいるって理由で
 続けていました。
 止めることによって
 ここまで育ててくれた親や上司に
 申し訳ないと思うし。
 ただ、もう限界が近いようで
 がむしゃらに生きてる私ってモノが、
 見えなくなってました。
 いつの間にか個性もない
 本当の機械になっていたのです。
 毎日会社と家を往復し、
 疲れてなにもできない生活。

 28の正月。私にも彼氏ができました。
 楽しい時は楽しいといい、
 苦しい時は苦しいと言う、当たり前の事が
 やっと言える様になりました。
 28からたぶん30過ぎまで
 いろんなことがありそうですが、
 今は年をとることが楽しみです。
 そして、機械も卒業。人間に戻ります。
 たぶん高校卒業以来やったことがない
 『転職』って大変だろうけど。
 なんとかなりますよね。
 こころのつぶやきでした。
 (ちゃりんこ屋)

 184
 カフェチェーンの中途採用で
 一ヶ月半の研修の後、同期の間で
 主席で社員として採用されました。
 採用されてからすごく頑張ってました。
 でもたった一ヶ月半しかなかった
 研修だけで、
 技術も知識も追いつかないまま
 店長の肩書きがついてまわり、
 周りの期待に対するプレッシャーや
 追いつかない技術……。
 そんな中で必死に働いてました。
 あの頃は何をしていても
 仕事のことしか頭になくて、
 何を食べてもおいしくなかったし、
 遊んだりする事もほとんどなかった。
 とにかく一生懸命働きました。
 私なりに努力したつもりでした。
 でも神経症になってしまい、
 最後には仕事に行かれない
 状態になってしまいました。
 今は実家で療養中です。
 私も仕事にはやりがいも
 楽しみもありました。
 でもむなしくなってしまう仕事の仕方は、
 あまり体に良くない気がします。
 (ななっち)

 185
 ボランティアをしています。
 でもだからといって
 活動に責任がないわけではないし、
 私は誇りをもって、そのことで
 頭をいっぱいにしながらやっています。
 ただ、時々、収入にもならないことを、
 しかも子どもはまだ小さいのに・・・
 と思わないことも、ないのです。
 そしてある日、4才の子どもに
 仕事をしてていいか尋ねたところ、
 「どうして辞めるの?
  パパだってお仕事してるよ?
  大人はみんな、お仕事があって、
  がんばってお仕事するんじゃないの?」
 その通りだと思いました。私は、
 収入にならないからとか、女だからとか、
 理由を作ろうとしていたんだなぁ。
 (ゆ)

 186
 『悩んだら「Yes」の方へ』
 行くか行くまいか、
 やるかやるまいか? YesかNoか?
 まあ悩んだら、とりあえずはGO(Yes)。
 考えるのは動いてからでも遅くはない。

 大学時代に聞いた言葉。
 その人は当時から、タフで、
 行動家で静かに燃えてる努力の人。
 いまや、とある企業で活躍してる。
 最近会社を辞めた自分にとって、
 随分前のこの言葉が
 今の自分の原動力です。
 (ぞ)

 187
 看護師になって、就職して間も無い時に、
 実習病院で指導をしてくださった
 看護師さんの義母が、
 勤務先の病棟に入院されていて
 偶然に再開しました。
 その頃、就職したてで、
 緊張した日々を過ごしていました。

 そんな時に偶然再会して思わず
 「私、看護師になれました」と言うと、
 指導者さんは多くの学生がいるので、
 私の顔を見ながら
 「あ〜、茶髪の○○さんね」
 と思い出してくれて、
 泣きながらしゃべる私に
 「よかったねぇ。頑張るのよ」
 と言って帰られました。

 すると、数分後に再び
 ナースステーションに来られて、
 「さっき、頑張ってねと言ったけど、
  頑張らなくていいよ。
  マイペースでいこうね」と・・・・・。
 この言葉をもらって、
 はやくも7年が過ぎます。
 何度も挫折してるけど、なんとか
 看護に関わる仕事を続けています。
 今も迷うことがあるけれども、
 この言葉を思い出しているところです。
 (なおp)

 188
 新米の頃一緒に仕事をした先輩は、
 わたしがミスをして
 「えっ!なんで?」状態に
 陥っていると、よく、ガハハと笑って、
 「信じる者は、だまされる」
 と言ってくれました。

 今はもう別々の仕事をしていますが、
 思い込みや希望的観測で
 先走らないよう、この言葉は
 いつも自分に言い聞かせています。
 (さときち)

 189
 たまたま大学の同級生には
 珍しい病気を持った友人が2人いました。
 大学卒業後、同じ病気だった友人達のうち
 1人は私が勤務してた病院で手術を受け、
 もう1人は別な病院で受けました。

 別な病院で手術を受けた友人の方が
 なぜワタシの勤務先で受けなかったかの
 理由を、風の便りに聞きました。
 「いっしょにがんばりましょう、
  と言ってくれる
  お医者さんじゃなかったから」。
 
 対面して引っ張るのではなく
 共に並んで歩んでくれる、
 患者の気持ちをきちんと
 受けとめることの大事さを、
 勤め始めたしょっぱなに聞けて
 本当によかったと思っています。

 その後の患者さんへの対応の姿勢を
 はっきり心に決めることができて
 今でも子どもと対峙する時には
 応用させてもらっています。
 (純夏)

 190
 「今を心こめて」
 これは、高校時代の書道の先生の
 作品展で出会った言葉です。
 仕事に対して、人に対して、
 雑になってるのではないか、
 いい加減になってるのではないか。
 そんな思いが、無意識のうちに
 たまっていってたんだと思います。

 そのことを静かに
 諭されたような瞬間でした。
 もっと、今できることを、
 懸命に、丁寧にやろう。
 今を大切にしよう。
 それ以来、この言葉は
 胸の中でずっと漂っています。
 (せいこ)

 191
 大学を卒業して以来、
 某スーパーに勤めています。
 以後ずっと本社勤務ですが、
 内定をもらった4年生の冬休みは
 店のサービスカウンターで
 研修兼バイトをしていました。
 実は、スーパーの現場ってすごいんです。

 まずはサービスカウンターでの包装。
 「お年賀用に」って
 コーヒー豆の缶の包装を頼まれたり、
 「快気祝いだから」と
 イチゴの包装を頼まれたり、
 しょうゆのペットボトルを包装したり。
 ああいうバラエティに富んだ形のものを
 包装するのってなかなか難しいんですけど
 やっぱスーパーならではなんですよね。
 すばやく丁寧に、ただし
 ゴージャスになり過ぎないように、
 注文をさばきます。

 それからレジ。
 何気なくやっているように思えますが、
 もともとのカゴには
 一番上にタマゴとか
 壊れやすいものが乗ってますよね?
 だけど、一番上に乗っているものを
 スキャンして、そのまま
 次のカゴに入れたら、今度は
 タマゴが一番下になっちゃう。

 ベテランパートさんは、
 当然のように、あの狭いレジの所で、
 壊れやすいもの、重いものを
 より分けて次のカゴに入れかえてます。
 それから慣れないと、商品のどこに
 バーコードがあるかわからないんですよね。
 私はマゴマゴして
 いつもお客さんに迷惑かけてました。

 日常接してて当然と思えるような仕事も
 実は熟練の作業によって当然に
 見せてしまうんですよね。
 仕事に慣れた今では、
 「すごい」と思うことも
 減ってしまいましたが、でも
 新人の頃を忘れないよう心がけています。
 (ますたろう)

 192
 直接の接点はなく
 特別親しくもないのですが、
 同じ会社の別部門の、
 ずっと年上の先輩の
 パソコンのデスクトップに
 いつもある言葉です。
 『迷わない、悩まない、気にしない』
 一瞬たりとも
 立ち止まってはいられない日々に、
 臆病の振りをしてサボりがちになる自分を
 鼓舞させてくれるいい言葉だと思います。
 (nyar)

 193
 最近の小学校の部活動は
 先生の手を離れ、
 保護者達の運営する
 スポーツクラブになっています。
 練習時間は親が交代で当番します。

 フルタイムで働いていて
 近所付き合いも社交性もあまり無い私は
 他のお母さん達とする
 当番の時間が苦痛でした。
 思わず会社の先輩に
 「みんな人の噂話や悪口ばっかり
  言っていてくだらない。行きたくない」
 とグチると先輩は
 「ばかにしないで一緒になって
  噂話や悪口を言ってみてごらん!」
 え〜っ??と思いましたが
 とりあえず当番じゃ無い日でも
 行ける日は顔を出すようにして
 手伝える事は進んでやり、
 今じゃ私が部活を仕切っています。
 極端な言葉でしたが 自分で一線を
 引いていちゃダメって事に気づきました。
 (めえ)

 194
 昔、一人苦手な先輩がいました。
 ある日、その先輩と
 二人だけで仕事をする日があって、
 空いた時間が出来ても話すのが
 怖いと困った私は、
 ひたすら自分の持ち場の仕事を
 黙々とこなしていました。
 そうしていると、
 突然先輩が私の所に近づいてきました。
 何言われるんだろう?
 と身構えていると、
 「○○さんて、
  いつも自信なさそうにしてるなぁ。
  ちゃんと仕事が出来るんやし、
  もっと自信持ちや」
 そう言うと、
 あっけにとられている私を残し、
 先輩はさっさと自分の持ち場に
 戻ってしまいました。
 その数日後、先輩は退職されました。

 てっきり嫌われているものと
 思っていたので、驚きと喜びで
 いっぱいになったのを覚えています。
 確かに私は仕事に対しても
 自分自身にも対しても
 常に卑下しながら生きてきました。
 しかし、
 「見てくれている人がちゃんといた」
 という事実は、少し、私に
 自信を取り戻させてくれました。 
 (ゆ)

 195
 私は勤め初めて
 ずっと経理の仕事をしていました。
 そして仕事に誇りを持っていたのです。
 ところが会社の方針で、
 本社自体の機能を移す事になり、
 家の事情で転勤できない私は
 地元に残るために
 全然違う部署に代わったのです。

 年をとってから、今までと違う
 仕事を覚えるのはとてもきついです。
 毎日凄く疲れます。
 このまま辞めたら
 凄く楽だろうなと思う毎日でした。
 でもそう思った時、いつも私の心の中には
 木村拓哉さんの『仕事を楽しめ』という
 言葉が浮かんできます。
 どんな仕事でも嫌だと思ったらいけない。
 とりあえず頑張ってみようと
 3ヶ月経ちました。

 今では毎日たくさんの人と接して、
 案外自分にこの仕事は向いているのかな?
 なんて思えてきました。
 何より一緒に仕事をしていた方に
 会うたびに
 『頑張っているみたいだね。
  活き活きしているよ』
 って言われるのが今の元気の素です。
 経理の仕事も忘れないように、
 これからも毎日楽しんで
 仕事をしたいと思います。
 年下ですが、木村拓哉さんの姿勢が
 私のお手本になっています。
 本当にありがとう。
 (北の国から)

 196
 前の仕事について
 しばらくたったころのことです。
 やりたい仕事だったけど、
 自分のつくったものが
 人の手に届いている実感が伴わず、
 仕事が上滑りしている気がして、
 「私のやってる仕事って、
  地に足がついていない。
  こんなことやってる場合じゃない。
  農業とか、野菜づくりとか、
  生きていくのに大切なことが、
  もっとほかにあるはずだよ!」
 と仲良くしてくれていた先輩に
 ぶつぶつとぐちったことがありました。
 先輩は、
 「そう思うんだったらそうなんじゃない?」
 と、さも他人事であるというように、
 ひょうひょうと笑いながら言いました。
 若かった私は、
 「なんて冷たい人だ。きっと先輩は、
  そんなことすら考えたことがないんだ。
  もっと真剣にとりあってほしいのに!」
 とプンスカしていた気がします。 

 あれから5年がたち、
 私は職場は変わりましたが、
 結局今も同じような仕事をしています。
 最近、友人がふと、
 「今の仕事がどうも違う気がする。
  畑をつくったりして、もっと
  地に足のついた仕事がしたいよ」
 とつぶやきました。
 友人の話をききながら、私は、
 すっかり忘れていたあのころの
 先輩とのやりとりを思いだし、
 「あのとき先輩は、続けることで
  見えてくることもあるのだぜと
  言っていたのだろうか…」
 と、ぼんやり思いました。

 同じ方向をめざしていたはずなのに、
 全く別の業種についている人。
 とっくにあきらめている人。
 他の道をみつけてがんばっている人。
 私の周りの人々も、
 すいぶん道が別れてきました。 

 先輩のひとことは、
 たいした意味も込めずに発した
 何気ないものだったんだろうけど、
 当時はいいかげんだなーと
 ムッとしたその言葉が、今になって
 しみじみと染みてくるのです。
 (ひ)

 197
 飼っていたハムスターが
 去年の4月に
 突然死んでしまった時にもらった
 「ないちゃえ。
  めぐりあってよかったね。
  おぼえていてあげてね」
 ということば。
 夜中カラカラ回ったり
 ガリガリかいたりするのに
 内心うんざりしてて、
 少々蔑ろにしてた時期でした。
 「ほんとに大事にしてやれたのか?
  私なんかが飼うべきじゃ
  なかったんじゃないのか?」
 そんな後悔ばかりが頭にあったし、
 社会人として初出勤した日に死んだので
 緊張感や疲労感がごたまぜになって
 泣きに泣いたのですが、
 このことばに救われました。
 してやったこと、
 してやれなかったこと、すべてを
 みんな忘れないでいようと思いました。
 (匿名希望)

 198
 今日、仕事での日頃のモヤモヤと
 自分の未熟さが重なって噴出してしまい、
 そこから「私の問題提起」という形に
 発展して、話し合いになりました。
 結果は、
 「せっかく君が発言してくれたんだから、
  1週間、君の言うように
 やってみようじゃないか」
 という事になりました。
 しかし、本心だったとはいえ、なにせ
 「自分の未熟さ」から出た事ですので、
 どうなってしまうのだろうか
 という気持ちが大きいです。
 自分の未熟さをあらためて
 思い知らされることになるかも知れません。
 謙虚なふりではなく、
 本当に謙虚にならなければ
 成長も無いのになと
 思ってはいるのですが、
 なかなか難しいです。
 (おきゅう)

 199
 非常勤として勤められる
 3年の期限が切れ、
 いろんなお誘いを断って、1年浪人して
 公務員試験を受験することを決めたのは
 私が27才の時でした。
 不景気で就職難のこの時代に、
 27才既卒女子の私が
 受かる保証の全くない試験のために
 浪人することは、両親にとって
 大きな心配の種だったと思います。
 1年浪人し、受けられる試験を
 受けまくってなんとか合格でき、
 今は某県に勤めておりますが、
 試験当日、両親が決して
 「がんばってこい」とは言わず、
 「気をつけて行って来い」と
 私を送り出してくれたことを、
 私は今も心からありがたく思っています。
 「がんばって」という言葉は、
 気軽に言ってしまいがちな言葉ですが、
 あのときのいっぱいいっぱいの自分に、
 一番心配してくれている両親から
 「がんばって」と言われることは、
 たぶんすごくつらいことだったと思う。
 「がんばって」と言わないことで、
 がんばっていることを
 認めてくれているんだなあって思えたし、
 不安定な立場でそう思えることは
 自分にとってすごくありがたかったです。
 就職してもう4年。
 いろいろあるけど
 働くところがあるってありがたい。
 そして、そう感じるたびに、
 私は辛かったあのころのことと、
 両親のありがたさを思うのです。
 いつか、お返しができるといいな。
 (匿名希望)

 200
 先輩の言葉というわけではないのですが
 忘れられない言葉があります。

 それはわたしの母校の校訓で
 「明るく・優しく・正しく・強く」
 という言葉です。
 ちょっと長いので先生も生徒も
 明優正強(めい・ゆう・せい・きょう)
 といっていました。

 な〜んも考えずに女子高へ
 入学した15歳のわたしは
 その最後の「強く」の部分が
 女子高なのに変だな〜。
 美しくとかじゃないんだ〜と
 しっくりこなかったのですが、
 卒業後何年かたって
 社会に出てつらいことや弱い自分に
 ぶつかったときにじわっと
 浮かび上がってきたのが
 不思議とこの言葉なのでした。

 わたしが入学した当時は
 西日本唯一の公立女子高であることを
 誇っていた母校も
 共学化の流れには逆らえず
 来年度より共学になり
 名前も変わってしまします。

 あの校訓も
 変わってしまうのかもしれませんが
 女は強くあるべき(強くあろう)
 ということを
 弱弱なわたしに教えてくれた
 わすれられない言葉なのです。
 (risa)

デリバリー版への激励や感想などは、
メールの表題に「ほぼ日デリバリー版」と書いて
postman@1101.comに送ってください。

2002-10-23-WED

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