<アングリー・マン>
わたしの耳には微かに聞こえる。
そう語尾だけが。
・・・だろ。とか
・・・だからぁ!とか。
おこっているのだ。おとこは。
なにかわたしの不都合を攻め立て
とにかくおこっているのだ。
わたしは、どうしようもなくあたまとこころのスイッチが
ぼんやりとしているものだから。
その理由さえわからない。
ごめんなさいをわけもなくいうおんなになれば、
ゆるしてくれそうだけど。
いやだ、それだけはいやだから。
わたしはそんなときいつもおとこの
喉元ばかりに視線を放つ。
のどの錨がうえにしたにうごくのを。
じっと焦げついてやけどしてしまうぐらい
みつめているのだ。
それはのどのなかで無断で暮らし続けているらしい。
『あだむのりんご』とかって勝手に名付けられて。
物心ついた頃から、ずっとそこに棲んでいるんだとか。
ふたりが知り合ったときもうそれはそこの住人だった。
おとこだってからだのなかに果実を隠しもってる。
いや、隠してるつもりなのだろうが、きっと下手なのだ。
嘘をつくのが上手なおんなのひとのように
果実をどこかに隠しておけないたちなのだ。
どうしようもなくにくめない場所にしか隠す術を
知らないだなんて。
かわいそうに。
でもいつだってもどかしい。
なぜって。触れているのに触れられない。
撫でているのに撫でられない。
たしかに存在をたしかめられているのに、
そこにいるとわかっているのに、
取り出してこの手に弄ぶことなどは
できないのだ、どれだけ試みようとしてみても。
それはみえない膜にしっかりと包まれているものだから。
だから、いつも所在なげにただ見ているだけだ。
それがとつぜんの活動期に入るのは、
それの保持者であるおとこがとりあえず何かを
呑みながらたまらなく怒りたくなっているときだけだ。
それもこまかくいかりをふるわせているとき。
それはたまらないりずむでゆれている。
いつかぽっこりととれてしまってうっかり
のみこんでしまわないのかとひやひやしていたのは
みるくをのみほすおとこのせんせいをみていた
しょうがくせいのころだった。
きょうもおとこの果実はすぐそばにあったのに
じぶんの指のものさしでははかれないほど遥か遠くで。
いかりがおさまると、おとこはていさいわるそうに
ありふれた感じでたばこを吸った。
それはいつのまにやらおとなしくなって、
すこしだけゆらいだ。
いつか果実がわたしのてのひらにかえるとき。
それはきっとおとこのからだもけむりのなかだろう。
ながすぎる箸でつかむおとこの果実なんてごめんだから。
わたしはいっこのゆがんだ映像をたちまちでりーとした。
禁断のそれはやっぱりそこにあるだけでいいのだから。
手のひらにしたときからよくないことがぷろぐらむされて
いるのはどこのシナリオでもいっしょだから。
わたしはこれからもおとこがいつまでもいらだちを
手放さないぐらいの
りっぱなあかんたれになって
もうろうとするまでじわりじわりとおこられていたい。
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大好きなアーチスト・立花文穂さんが全ページ
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