<幻の蝶>
凍りついてる。
たしかにあたし以外のデスクで仕事するほかの
人々は、しゃちこばってる。
それが背中から首のあたりににじみ出ているのを
あたしは見逃さなかった。
なぜって、ひとりのおとこが彼等のまわりを
とにかく、らんだむにゆっくりとうろちょろするから。
あたしはそのおとこの後ろ姿をみながら、
ちっちゃな頃みていた、バラエティ番組のエンディングの
歌を思い出していた。
たすきで腕をあらわにした笑顔いっぱいの男の人が、
その音楽と共にすばやくやさしく言うのだ。
『風邪ひくなよ!』とか『宿題やったか!』とか
『風呂入れよ!?』とか。
オフィスを歩き回るおとこの姿をみていると、
やっぱりあたしの頭のなかは♪ばばんばばんばんばん
しか思い浮かばない。
そしてこのおとこは、腰あたりで掌を重ねあわせて
ひとりひとりのデスクの前で立ち止まる。
彼は仕事ぶりを観察するようにして、通り過ぎたりきびすを
返したりするのだ。
いつもの大阪言葉のでかい罵声もどれもなしで。
時には耳もとで囁いたり、静かに助言していく。
そしてひとしきりそれが済むとじぶんのことは棚に置いて、
ちらっと笑みをみせて『おまえちょっと煙草減らせよ』とか
週末スキーにゆく女子社員には『ケガに気ィつけや』とか
言葉をなげかけてゆく。
仕事するみんなのからだはさっきまでの緊張が
みなぎりすぎたためたやすくゆるゆるになれなくて、
まだどうにかなってしまいそうにこわばっている。
ボスは、ときどきそうやってだまってみんなを威圧する。
それはまるであたしには捕まえられない蝶のように見える。
じぶんだけのりずむであちらの木々や透けた葉脈のあいだを
すりぬけるようにひらひらする蝶。
いつか止まればこの手にできると思えるから、こころが妙に
騒がしくなる。
あたしはそのおとこの背中をみながら、いつもそんなこと
ばかりを夢想した。
そしておとこが採集していた蝶のことも。
どんな顔をして手にしたそれをやさしくなだめ、
ドレスピンよりも細い針先でその羽を綴じたのだろうって。
そしてあたしはつまんないコピーがあたまに浮かぶ。
<社長さんは、ときどき、社蝶さんになる>とかなんとか。
最悪なコピーしか浮かばないとき、
あたしは咳払いを口笛を吹きたくなる。
そういうときに限って『風邪?』などと
尋ねられてしまうのだ。
それだけであたしはとろとろと、
せなかからぐわっと熱くなる。
いつだったかあたしの家の庭にみたこともない模様を纏った
極彩色の蝶々がまよいこんできたことがあった。
窓のそとでひらりと舞うその姿が
あまりにもうつくしかったので
写真にでも撮っておこうと、外にでると、
もうそれはどこにもいなかった。ふりかえってみても
みあげてみても、葉の裏側にも
土のうえにも、どこにも。
あたしは信じたくなかったけど。そのことを強く信じた。
社長さんが死んでしまったと電話で知らせを受けた
次の日の出来事だった。
社長さんのほんとうのさよならをあたしは聞いていない。
そんなこと伝えるためにわざわざうつくしい蝶になってまで、
言いに来るなんて、涙がでるほどずるすぎる。
そう思うとあたしはいままでそこにいたはずの蝶の不在が、
ひどくかなしくて。そしていつまでも待った。
あの日の蝶はきっとバリでつかまえられなかった
あの蝶よりもすばらしくすてきだったとおもう。
♪ばばんばばんばんばん。
雲一つない空の真下にあらわれた幻の蝶は、
あれからいちどもあたしの庭を訪れてくれない。
_________________________
もりまりこの第一歌集『ゼロ・ゼロ・ゼロ』は
(フーコー/星雲社・03-3947-1021)
全国書店で発売中で〜す。
_________________________
|