<なつかしいひと>
そのタクシードライバーは、レンガ色のホテルを
軽やかに右折したとき、おもむろに話し掛けてきた。
れもんの芳香剤が充ちているタクシーだった。
わるくない匂い。
ひどく安心できる匂い。
そのおとこのひとのあたまは昔の仁侠映画に
でてきそうな額のあたりが規則正しい角刈り。
だけどミラーからのぞく目が優しいひとだった。
どこかで逢ったことがある。そんな雰囲気のひと。
彼は探してンですよここんとこずっと。
と、ふいに云う。
もう一週間になりますよ、と。
あたしはこころもち<探してる>ということばに
反応してしまいゆっくりと耳を傾けた。
何をですか? と問いかけようとしたら
おとこのひとは、ほらカギをね。
と、ことばをつなげた。
カギ?
あたしはどこのカギのことだろうとゆくえしらずに
なってしまったそのカギのことを想像しようとしていた。
絵に書いたようなカギのことを。
いや〜。おはずかしいんですけどねぇ。
と人懐っこいおとこのひとの声をきいて。
(まず思ったのは愛人宅のカギ?だった。)
と、あたしのよこしまな想像を軽くいなすように
いや〜我が家のなんですけどねぇ。
と、片手ハンドルでミラー越しに答えてくれた。
なくしちゃったって。カギをですか?
ちがうんですよ、なくしたっていうか。
はじめっからどこに置いておいたか忘れちゃったってゆうか。
まぬけでしょう。
うちは、むかしっから長屋住まいでしてねえ。
カギとかかけて眠ったことないんですよ。
と、一気にしゃべり終えると
笑われちゃいそうだな〜とミラー伝いに視線を送られて
つられてあたしもなんとなく笑った。
そしてなにげなく車窓からのぞく歩道脇の
こんもりまるい<ツゲ>のつらなりを見ていた。
カギをなくしたタクシードライバーのはなしは
まだまだ続きそうだった。
あたしもいま探してるところなのだ。
ほんとうは探し物なんてだいきらいなのに。
なくしたものが気になってしょうがないから、ずっと探してる。
でもそれはちっちゃなポーチの中や
冷蔵庫の隅やクローゼットのひみつの引き出しには
隠れていなくて。
たくさんをいちどきになくしてしまったから
もうみつからないかもしれないけれど。
時間がかかってもかまわないから
すこしずつでもみつけたいと、思う日々がつらい。
あの日まで形があってあざやかな輪郭をもっていたはずなのに
あたしは見失ってしまった。
突然、雷に打たれたみたいに、なくしてしまった。
探し物は愉快だ。
そんなふうにあたしとまったく反対のベクトルでもって
喋りかけてくれる。
今度の連休にですねぇ、家族はじめての海外旅行に行くんですよ。
ほら、よく芸能人がいくハワイに行くんです。
弾んだ声でおとこのひとが声を放った。
そんなことで、みんな出払っちゃうんでこりゃたいへんだ
ってことになって、なんせ初めてでしょ。カギかけんの。
で、ちまなこになって探してるんですよ。
もう時間ないですからね。はやくしないと。
せっぱつまってそうなのにへっちゃらへっちゃらに聞こえる
<ちまなこ>ということばが新鮮だった。
タクシーは、ロータリーにじわじわ近付いてる。
れもんの香りは車窓から差し込む日射しのあたたかさによって
すこし生きているみたいに匂いをふくらます。
この懐かしい感じのするおとこのひとが探してるものは
きっときっとみつかるだろう。
あたしのよりはくらべものにならないぐらいはやくに。
彼の運転するこのタクシーにいつの日か
偶然に乗り合わせることがあるのだろうかとあたしは思った。
とある昼下がりの一期一会。
いつだって去ってしまってからわかる。
逢えなくなってしまってからわかるなんて
ひどすぎるけれど。
タクシーのドアがゆるやかに開いて、
わずかなお金を手渡そうとしたとき。
くしゃくしゃの笑みであたしに向き直って
『ありがとうございます』と角刈り頭を下げてくれた。
やさしい瞳のそのひとは、
どことなく<川谷拓三に似ている>おとこのひとだった。
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立花文穂さんが全ページ手掛けて下さった
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