MASUNO
このごろのもりまりこ

<屋根の上のふたり>

バイエルで卒業してしまっていたから。
ぜったい無理だよって云ったのに
どうしてもお願いっていうから
電話で教えてあげた。

あたしはずぶのにわかピアノの先生になった。

そのメロディを聞くと、おじいさんを思い出す。
と、彼が云った。
そして、屋根の上。
それから、満月の真夜中。
彼がちっちゃな頃、おうちの青い屋根に上って
よくおじいさんと真夜中大声だして唄っていたものらしく、
今日はなんとなくそれを弾いてみたくなったんだ、と。

彼がなにかを思い出しているときは、
とても遥かに遠い目をしているときだから、
あたしはその大好きな目を思い出しながら
電話で教えてあげた。

『じゃ、ラを弾いてみて』
ちょっと先生口調で、乱暴に口にしてみる。

受話器からはなにも聞こえてこない。

『・・・ラがわからない・・・』
だからラよ。というのに受話器からは
とぎれとぎれの声で『ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ、あった!』
と聞こえた。

<教える>と<教えてあげる>。
この微妙な関係性はあたしをうっかり腰に手をやり
右足を一歩踏み出したような
とてもいけすかない態度に化粧してゆきそうで、あぶない。

そうそうあたしが習ってたピアノの先生は
いつでもヒステリーの風をそこいら中にばらまいていた。

ちょっとでもあたしのちいさな手のひらが鍵盤の上で
寝てしまうと恐い顔して先生は席を立つ。
そして、しばらくして部屋に戻ってくると
その手にはまっしろなものが握られていた。

つめたいたまごだった。
手のひらを器のかたちにさせると、つめたくてざらざらの
たまごを包ませる。
この形をおぼえてちょうだい、と。

いつまでもあたしはたまごのあのおそろしいつめたさが
忘れられなくて鍵盤をまちがえて弾いてしまう。
そして手の甲をびんたでぴしっと叩くのだ。

あたしは思ったものだ。
こんな鬼ばばぁが弾くショパンとかはぜったい聞きたくない。
聞いてやるもんかと。

『だから、ラわかった?』
あっ見失った。たしかに受話器からはそう聞こえた。
そして、オレの電子ピアノにはラはない。と云った。
だから仕方なくあたしはあたしの電子ピアノで
ラを弾いてあげた。

『それ、ラとちゃうんちゃう?』
堂々と彼は云う。
そしてまたいちからド・レ・ミを数え、あったあったと安堵し。
『ほら、オレのラはこれやん。お前のラはラとちゃうで』
と主張する。

彼はとてもおちゃめだ。
鍵盤の上に存在する<ラ>はたったいっこしかないと
信じ切っているのだから。
あたしはもといするのもすんなりやめて、その『オレのラ』
でメロディをひとつずつ教えてあげた。

いつか見た映画。
友だちの肉親の御葬式についていった
ふたりの男女が、退屈してその実家のピアノ屋さんに
ならべてあるピアノでどちらともなく連弾をはじめてしまう。
夕暮れをウインドウーににじませながら。
たどたどしく音を確かめながら。
向かい合わせになったピアノのむこうにすわる
お互いの目だけで間をとっていた。
それはちょっとばかしベッドのうえよりも
官能的なシーンだったんで憶えてる。

受話器から彼の声がする。
『なあなあって。これでおうてるやろ』
たしかにあっているのかもしれない。
でもそれはどこかの国の宗教音楽のようにも聞こえた。

満月の夜。
おじいさんといっしょに。
近所迷惑になるぐらいにはずした声で唄う童謡。
ぴちぴちの半ズボン。
脚が冷えてしまうほど、屋根の上のふたりになったあと、
そろりそろりと青い瓦を降りてゆくとき
きっと彼の半ズボンはうっすらと白くなっているのが
とても近くに見える気がした。

耳になじみはじめた、ぽろん・ぽろん。
そして夜ばかりが、ふけてゆくのでした。

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2000-04-26-WED

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