某日。
もはや手狭になってきた、
糸井事務所の会議用スペース。
その長机に、スタッフ全員が集合した。



事務所の引っ越しを数日後に控え、
彼らはいったい何をやっているのか?
その答えはこちらである。



そう、事務所移転の挨拶状である。
多岐にわたる企画を抱える東京糸井重里事務所は、
じつにさまざまな職種の方々とおつき合いがある。
自然、移転のお知らせを送る先も膨大となる。
そこで、スタッフ全員の手により、
その発送作業を行うこととなったのだ。



机の上に、案内状と封筒が山積みされ、
各自が作業を分担する。



挨拶状を封筒に詰める者‥‥。



ノリ付き封筒のラベルをはがす者‥‥。



完成した封筒をたばねてチェックする者‥‥。



黙々と、しかし、なごやかに作業は進んだ。
去る不安もあるが、新地への期待も高まる。
移転とは、そのような、
異なる気持ちがないまぜになるイベントであるのだ。




某日。
ジュ〜ジュ〜ジュ〜ジュ〜。
明るいビルの台所から、なにやら音がする。
推測するに、それはなにかを炒めている音である。
裏づける要素を挙げるとすれば、
いままさに香ばしいにおいが漂ってきた。



ややや! これはベーコンである。
カリカリに炒めたベーコンである。
これを、カリカリベーコンと呼んでも
差し支えあるまいと思えるほど、
ベーコンはカリカリに炒められている。



そして、こちらでは、
いままさにニンニクがすり下ろされている。
傍らにはなんと、アンチョビの缶があるではないか。



むう、そしてこちらは、タラコである。
包丁の背などを駆使して中身だけを摘出した、
じつに美味そうなタラコである。



刻まれるサヤエンドウ!



ゆでられるブロッコリー!



ああ、そして、さきほどのタラコは
バターの海の中へとダイブした。



そして、
幾多の食材にハーモニーを奏でさせるべく、
鍋と箸のタクトを振るうのは、
りか&武井の台所コンビである。
そして、本日の演目は‥‥?



イエス! パスタ!



ウィ! パスタ!



つまりこれは、事務所移転にあたり、
明るいビルでの最後の食事をたのしもうという
いわば、「最後の晩餐」と名づけられた企画であった。



明るいビル、最後のメニューを仕上げるシェフ武井。
誇らしげにペペロンチーノを運んでいく。



引っ越し作業に疲れた乗組員たちが、
あっという間にそれをたいらげていく。



おお、現れると移転先が幸福になるという
「引っ越しの妖精」もやってきた。
なんとも、かわいらしい。



どんどん食う!



どんどん食う!
そして「最後の晩餐」の夜は更け‥‥。



「引っ越しの妖精」は空を飛んで、
帰っていったのだった。


某日。
総務の元木が、真剣な表情で
キーボードを叩いていた。
彼女はいま、とある重要なメールを、
乗組員全員に向けて送信しようとしていた。
‥‥重要度Sランク。
年に何度か送信されない、
極めて大切な意味を持つメールである。

何度もそのメールを読み直し、
元木は、送信ボタンを押した。


そのとき中林は、
新オフィスに設置するテレビモニターを選ぶべく
新宿の電気街にいた。
彼女の携帯がメールの着信を知らせた。
重要度Sランクのメールは、
乗組員の携帯電話にも送信されるのだ。

「‥‥いよいよ!」

メールを読んで、中林は身構えた。
短い文面のメールは、疲れた彼女の
背筋をしゃんとさせるに十分なものだった。


そのとき、冨田は、
12月25日に開催される
「続・はじめての落語。
 立川志の輔ひとり会」
のイベントのため、
会場となるラフォーレミュージアム六本木を訪れていた。

そのメールを読み、冨田はハッと息を飲む。
そして、同じく会場を下見している西本に声をかけた。

「西本さん」
「‥‥ああ、いま読んだ」
「いよいよですね」
「‥‥ああ」

ふたりはしばし黙り、互いの頭のなかで、
それに向けてさまざまな段取りを計算するのだった。


そのとき山口は、明るいビルの自分の席で、
できあがった名刺の見本を前に悩んでいた。

「ああ、この穴は、あったほうがいいのかなあ‥‥。
 あったほうがいいと思うんだけどなあ‥‥」

先日お知らせしたように、
山口がデザインした新しい名刺には
穴が空けられていた。



山口は穴を空けたほうがいいと思ったから
穴を空けたのだが、
どうして穴が空いているんだと言われたら、
穴が空いているほうがいいからだとしか言えない。
穴は穴以外のなにものでもない。
鳥が鳥であるように、雲が雲であるように、
それはただの穴なのだ。
否、穴が穴であってなにが悪い。
しかし‥‥。

「なにを悩んでいるんだい?」

声をかけたのは先輩デザイナーの石川である。

「石川さん‥‥この穴、どう思います?」
「穴だね。
 ぼくはこの穴、好きだな。
 名刺に穴があってもいいじゃないか。
 ‥‥グラスの底に顔があってもいいようにね」

石川がニューヨーク仕込みのウインクをすると、
山口は自分の心が軽くなるのがわかった。

やはり、穴は空いてて、いいんだ!

山口が石川にお礼を言おうとすると、
彼のパワーマックからメールの着信音が響いた。
そのメールの件名を見て、ふたりの顔色が変わる。

「重要度Sランク!」
「読んでみよう」

そしてふたりはやはり息を飲む。
いよいよそのときが訪れるのだ。


そのとき、糸井重里は本屋にいた。
棚に並んだ本の背を眺めているとき、
やはり彼の携帯電話がメールの着信を知らせた。
彼はメールの文面を確認すると、
きっと唇を噛みしめて、
なにも買わずに本屋をあとにした。

総務の元木から
乗組員全員に送信されたそのメールには、
たった2行、
つぎのような文が記されていた。

「11月○日 午後3時
『地獄orアライブ』を決行します。」

(つづく‥‥)

2005-11-26-SAT


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