トンネル。
「ねむり」についてのエッセイ、
きょうは作家の浅生鴨さんです。
あそう・かも
1971年神戸市生まれ。
早稲田大学在籍中よりゲーム会社、レコード会社に勤務、
2004年、NHKに入局し、ディレクターとして活躍。
2009年、NHK広報局としてTwitterアカウント
「@NHK_PR」を開設。
2014年、NHKを退局、番組制作や広告を手がける一方、
作家活動を開始する。
著作に『中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?』(新潮文庫)
『アグニオン』
『猫たちの色メガネ』
『伴走者』
『どこでもない場所』
などがある。
「ほぼ日」にも多数寄稿、イベントなども手がけている。
■「ほぼ日」の浅生鴨さん登場コンテンツはこちら
ふだんから暗いところも狭いところも平気なのに、
車を運転していてトンネルにさしかかると、
なぜか僕はちょっぴり緊張する。
特に長いトンネルを走っていると、
オレンジ色の照明が単調なリズムを刻むだけの景色が
続くものだから、
なんとなくグルグルと同じところを
回り続けているような気がしてきて、
そのうち、もしかすると
この光景がずっと繰り返されるんじゃないだろうか、
このまま永久に僕は外へ出られないんじゃないだろうか
なんてことを、ぼんやり頭の隅っこで考え始めるのだ。
妄想とはわかっているのだけれども、
それでも僕はゆるいカーブを曲がるたびに、
トンネルの両側にときどき現れる道路標識や
距離を示す看板の数字が
少しずつ変わっていることを頼りに、
ほら僕は世界の奇妙な裏側へ
紛れ込んでしまったわけじゃないぞと
自分を納得させようとするし、
遙か遠くに出口から差し込む光が見えてくると、
ようやくそのことを確信してホッとする。
眠ることは、そんなトンネルに似ているような気がする。
眠りは、今日と明日をつないでいるなんとも奇妙な時間で、
入口はわかるのに出口がいつ現れるのかは、
トンネルと同じように、
そのときになってみないとわからない。
僕は眠ることが大好きだし、
できればもうずっと布団の中で暮らしたいと
思っているくらいなのに、
どこか眠ることへの戸惑いのようなものがあって、
夜遅くベッドで横になるときには、
このまま永久に目が覚めなかったらと考えるし、
目を覚ませば、眠りについた自分といま目覚めた自分が
そのままつながっていることを不思議に感じてもいる。
きのうの自分ときょうの自分をつなぐ
眠りというトンネルをくぐり抜けて、
何とか僕は僕自身でいることを
保っているつもりなのだけれども、
本当に今のお前はきのうのお前と
ひと続きなのかと問われたら、あまり自信はない。
なにせ僕は自分が眠った瞬間から、
目を覚ますまでのことを知らないのだ。
もちろん夢は見ているけれども、
眠っている時間は、
僕にとっては存在しない空白の時間で、
その間にこっそり記憶が入れ替えられ、
世界のすべてリセットされていても
きっと僕にはわからない。
眠っているとき、つまり夢の中にいるとき、
僕には自分が夢を見ているのだという自覚はないし、
いま自分は夢を見ているのではないかと疑ったこともない。
どれほど奇妙に歪んだ世界でも、
そのときには現実として、
ただ受け入れているだけだから、
もしも夢の中から抜け出せないままでも、
僕はそのことに気づかないだろう。
ということは、今ここでこの文章を書いている僕だって、
本当は夢の中にいるかもしれないし、
そして、それを確かめる方法はどこにもない。
それでも僕にとって眠ることは喜びだ。
体を横にして目を閉じ、
明日の自分につながっているはずのトンネルの中へ
ゆっくりと潜っていくのはたまらなく心地いい。
たとえどれほど奇妙な世界に閉じ込められることになっても
それはそれで構わないように思う。
じつを言えばトンネルのどちら側も夢で、
僕はただ夢の中から別の夢の中へと
移動しているだけなのかもしれないのだから。