「ずっとお目にかかってみたかった」という
内田也哉子さんを、伊藤さんの部屋にお招きして、
のんびり、ゆっくりと話をしました。
テーマをとくに決めずに始まった対話ですが、
自立の話であり、
母であること、娘であることの話であり、
人生の理不尽の話でもあり、
出会いと別れの話であり‥‥。
尽きない話題を、7回にまとめました。
ふたりといっしょにお茶を飲みながら、お読みください。

(写真=有賀 傑)

内田也哉子さんのプロフィール

内田也哉子 うちだ・ややこ

エッセイスト、翻訳家、作詞家、歌手、俳優。
1976年東京生まれ。
日本、アメリカ、スイス、フランスで学ぶ。
父はミュージシャンの内田裕也、
母は俳優の樹木希林、
夫は俳優の本木雅弘
二男一女の母。
著作に『BROOCH』(リトルモア)、
『9月1日 母からのバトン』(ポプラ社/樹木希林との共著)、
訳書に『たいせつなこと』
『恋するひと』
『岸辺のふたり』などがある。
2019年9月の「おかあさんといっしょ」の“月歌”で
『たいこムーン』を作詞(リトル・クリーチャーズ
(LITTLE CREATURES)の青柳拓次さん作曲)。
作詞、翻訳は「うちだややこ」名義。

その2
覚悟はない。

内田
ところで、今日はどうして私を
呼んでくださったんですか。
伊藤
お話がしてみたかったんです。
内田
はい。おおー。
伊藤
強い人なんじゃないかな、って思って。
内田
強いですか。強そう?
伊藤
強い‥‥強いといっても、
怖い強さじゃなくて、
也哉子さんって、
根がしっかり張ってる木みたいな印象で、
そこに繁ってるのは若葉っぽいイメージなんです。
内田
うれしいです。
伊藤
もし、バサッと急に伐られたりしても、
根がしっかりしてるから、
また葉が生えてくるみたいな。
内田
しぶとい。
伊藤
私がそう思った理由を、
お目にかかって理解したいと思ったんですね。
それは言葉の選び方なのか、佇まいなのか、
その理由が知りたいって。
内田
そんな、恥ずかしい。
なんにもないですよ。
伊藤
なんだかそういう気がするんですよ。
子ども時代にはぐくまれたのかな。
内田
1歳半からプリスクールに預けられて、
その上の小学校に行き、
3年生の9歳のときにいちど、
ニューヨークのものすごい田舎に、
1年間、音信不通で預けられ。
伊藤
ええっ?
内田
アメリカ人の校長先生の紹介で、
先生の弟さんのところに行ったんです。
というのも、母はすごく忙しく、
いちおう夫婦ではあったけれど、仕事をしながら、
シングルマザーのように
何もかも一人でやっていたわけです。
お母さんを休ませてあげたいっていう気持ちと、
もしかしたらその弟さん家族も
ちょっとお金が入り用だったのかもしれません、
そして先に親と話したのかどうかは定かではないけれど、
私に学校で「兄弟欲しくない、也哉子?」って
突然、校長先生に話しかけられたんですよ。
そりゃあ欲しいから、「うん」って言ったら、
もう次の週には出発していました。
ニューヨークのJFK
(ジョン・F・ケネディ国際空港)から
また国内線に乗り継いで、
すごい北のほうのほんとに田舎の、
日本人なんかもちろん一人もいないようなところに、
母が連れてってくれた。
伊藤
えーっ!
内田
で、近所の子どもたちにあいさつしようねと言われて、
アメリカ人の家族といっしょに
30分ぐらい出かけて帰ってきたら、
母はもういなかったんです。
伊藤
いろいろ激しい‥‥。
内田
「こんなスピードで帰るとは‥‥」って、
アメリカ人の家族のほうがビックリしちゃって。
今思えば、母は英語は話せないし、
コミュニケーションもとれないから、
いたたまれなくて早く帰ったのかもしれないですけれど。
伊藤
「じゃあね、がんばってね」みたいな、
そういうのもなく?
内田
まったくなく。
伊藤
そのとき、どう思われたんですか?
内田
そのときは、
「母らしいな」と思いました。
母の洗礼は生まれたときから受けてますから。
伊藤
そうか。
内田
たぶん、お別れを言わないで置いてったほうが早い、
って思ったんじゃないですか。
吹っ切れるだろうと。
伊藤
なるほどね。
内田
でも、本人はそうは言わなかったですけど、
母の友だちにのちのち聞いたら、
あのとき、じつはすごく、
辛そう‥‥とは言わないけど、
「置いて来ちゃったのよね」っていうような、
ちょっと遠い目をしてたそうです。
「それは心配だったんじゃない?」って。
伊藤
ああ、ちょっとホッとする気持ちです。
それで、アメリカにはきょうだいっぽい人が‥‥?
内田
3人いたんですよ。
お兄ちゃん、お姉ちゃんが。
もう、楽しくって楽しくって。
伊藤
そうなんですね。
内田
東京では、家へ帰ってくると鍵っ子で、
母も遅くまで仕事でいなかったりするから、
置いてあるご飯を温めて食べるという、
小学校低学年ぐらいからそういう生活でしたから。
インターナショナルスクールって、
お友だちを家に呼んだりとか
バースデイ・パーティをやったりとか、
すごく家族ぐるみのおつきあいが多いなか、
母はお見送り以外の行事で
学校に来たことは一度もないですよ。
6年プラス幼稚園の期間。
伊藤
へえー。
内田
そういうこともあるし、
私も変わってる印象がきっとあったんでしょう、
なにか異質な波動を出していたんだと思います。
お友だちもいなかった。ほとんど。
ほんとに数えるほどです。
それだけ長い間ひとつの学校に行っていたのに、
3人ぐらいかも。友だち。
いちばん大切だった友だちも、
アメリカから帰ってきたときにすぐにお葬式の話があって。
だから、とっても孤独な子ども時代で、
温かい記憶、ほとんどゼロです。
というか、記憶があんまりないんですよね、子ども時代の。
伊藤
でも、逆に今は3人のお子さんを育てていて、
それってなんかこう、
「たくさん子どもがいたらいいな」とか、
そういう気持ちもあったんでしょうか。
結婚されたのも早かったですよね。
内田
そうですね。19歳でした。
伊藤
その覚悟って、なんでした? 結婚。
内田
いやあ、覚悟は微塵もなかったです。はい。
10歳年上の人に、15歳で出会って。
伊藤
えー!
内田
たまたま父の紹介だったんです。
父には、年に1回、父の日に会っていたんですよ。
強制的に、嫌々。
ところが、15歳の父の日を、すっぽかされたんです。
待ち合わせに来なかった。
そうしたら次の日に「今、寿司食ってるから来い」。
行ったら、父がプロデュースしていた
『魚からダイオキシン!!』っいう
変わった映画のスタッフや共演者のみなさんがいて、
そのひとりが本木さんでした。
伊藤
ええ。
内田
あのとき、本木さんが25歳で、私は15歳で。
おっきなテーブルにみなさんがワイワイしてて。
私は「あっち座ってろ」って言われて、
一人で誰とも交わらず、小一時間ぐらい、
ご飯だけ食べさせてもらって、
「じゃあ、帰ります」って。
伊藤
えー。
内田
だから、そのときはごあいさつを
したっていう程度だったんです。
父も、気まずかったんでしょうね、
すっぽかしたことに気づいて。
それで罪償いをしたかったけれど、
一対一だと「ごめんな」から入らなきゃいけないから。
伊藤
なるほど。
内田
謝りも入れずに済むように、どさくさにまぎれて
私を呼んだんでしょうね。
伊藤
じゃあ、仕事仲間に会わせたいとかじゃなくて‥‥。
内田
まったくそういうことじゃなかったです。
伊藤
たまたま本木さんがいた。
そして、それから4年後に結婚。
内田
そうですね。そこからどうしてそうなったのかは、
やっぱり、ご縁としか‥‥。
(つづきます)
2019-12-28-SAT