「ずっとお目にかかってみたかった」という
内田也哉子さんを、伊藤さんの部屋にお招きして、
のんびり、ゆっくりと話をしました。
テーマをとくに決めずに始まった対話ですが、
自立の話であり、
母であること、娘であることの話であり、
人生の理不尽の話でもあり、
出会いと別れの話であり‥‥。
尽きない話題を、7回にまとめました。
ふたりといっしょにお茶を飲みながら、お読みください。
(写真=有賀 傑)
その2覚悟はない。
- 内田
- ところで、今日はどうして私を
呼んでくださったんですか。
- 伊藤
- お話がしてみたかったんです。
- 内田
- はい。おおー。
- 伊藤
- 強い人なんじゃないかな、って思って。
- 内田
- 強いですか。強そう?
- 伊藤
- 強い‥‥強いといっても、
怖い強さじゃなくて、
也哉子さんって、
根がしっかり張ってる木みたいな印象で、
そこに繁ってるのは若葉っぽいイメージなんです。
- 内田
- うれしいです。
- 伊藤
- もし、バサッと急に伐られたりしても、
根がしっかりしてるから、
また葉が生えてくるみたいな。
- 内田
- しぶとい。
- 伊藤
- 私がそう思った理由を、
お目にかかって理解したいと思ったんですね。
それは言葉の選び方なのか、佇まいなのか、
その理由が知りたいって。
- 内田
- そんな、恥ずかしい。
なんにもないですよ。
- 伊藤
- なんだかそういう気がするんですよ。
子ども時代にはぐくまれたのかな。
- 内田
- 1歳半からプリスクールに預けられて、
その上の小学校に行き、
3年生の9歳のときにいちど、
ニューヨークのものすごい田舎に、
1年間、音信不通で預けられ。
- 伊藤
- ええっ?
- 内田
- アメリカ人の校長先生の紹介で、
先生の弟さんのところに行ったんです。
というのも、母はすごく忙しく、
いちおう夫婦ではあったけれど、仕事をしながら、
シングルマザーのように
何もかも一人でやっていたわけです。
お母さんを休ませてあげたいっていう気持ちと、
もしかしたらその弟さん家族も
ちょっとお金が入り用だったのかもしれません、
そして先に親と話したのかどうかは定かではないけれど、
私に学校で「兄弟欲しくない、也哉子?」って
突然、校長先生に話しかけられたんですよ。
そりゃあ欲しいから、「うん」って言ったら、
もう次の週には出発していました。
ニューヨークのJFK
(ジョン・F・ケネディ国際空港)から
また国内線に乗り継いで、
すごい北のほうのほんとに田舎の、
日本人なんかもちろん一人もいないようなところに、
母が連れてってくれた。
- 伊藤
- えーっ!
- 内田
- で、近所の子どもたちにあいさつしようねと言われて、
アメリカ人の家族といっしょに
30分ぐらい出かけて帰ってきたら、
母はもういなかったんです。
- 伊藤
- いろいろ激しい‥‥。
- 内田
- 「こんなスピードで帰るとは‥‥」って、
アメリカ人の家族のほうがビックリしちゃって。
今思えば、母は英語は話せないし、
コミュニケーションもとれないから、
いたたまれなくて早く帰ったのかもしれないですけれど。
- 伊藤
- 「じゃあね、がんばってね」みたいな、
そういうのもなく?
- 内田
- まったくなく。
- 伊藤
- そのとき、どう思われたんですか?
- 内田
- そのときは、
「母らしいな」と思いました。
母の洗礼は生まれたときから受けてますから。
- 伊藤
- そうか。
- 内田
- たぶん、お別れを言わないで置いてったほうが早い、
って思ったんじゃないですか。
吹っ切れるだろうと。
- 伊藤
- なるほどね。
- 内田
- でも、本人はそうは言わなかったですけど、
母の友だちにのちのち聞いたら、
あのとき、じつはすごく、
辛そう‥‥とは言わないけど、
「置いて来ちゃったのよね」っていうような、
ちょっと遠い目をしてたそうです。
「それは心配だったんじゃない?」って。
- 伊藤
- ああ、ちょっとホッとする気持ちです。
それで、アメリカにはきょうだいっぽい人が‥‥?
- 内田
- 3人いたんですよ。
お兄ちゃん、お姉ちゃんが。
もう、楽しくって楽しくって。
- 伊藤
- そうなんですね。
- 内田
- 東京では、家へ帰ってくると鍵っ子で、
母も遅くまで仕事でいなかったりするから、
置いてあるご飯を温めて食べるという、
小学校低学年ぐらいからそういう生活でしたから。
インターナショナルスクールって、
お友だちを家に呼んだりとか
バースデイ・パーティをやったりとか、
すごく家族ぐるみのおつきあいが多いなか、
母はお見送り以外の行事で
学校に来たことは一度もないですよ。
6年プラス幼稚園の期間。
- 伊藤
- へえー。
- 内田
- そういうこともあるし、
私も変わってる印象がきっとあったんでしょう、
なにか異質な波動を出していたんだと思います。
お友だちもいなかった。ほとんど。
ほんとに数えるほどです。
それだけ長い間ひとつの学校に行っていたのに、
3人ぐらいかも。友だち。
いちばん大切だった友だちも、
アメリカから帰ってきたときにすぐにお葬式の話があって。
だから、とっても孤独な子ども時代で、
温かい記憶、ほとんどゼロです。
というか、記憶があんまりないんですよね、子ども時代の。
- 伊藤
- でも、逆に今は3人のお子さんを育てていて、
それってなんかこう、
「たくさん子どもがいたらいいな」とか、
そういう気持ちもあったんでしょうか。
結婚されたのも早かったですよね。
- 内田
- そうですね。19歳でした。
- 伊藤
- その覚悟って、なんでした? 結婚。
- 内田
- いやあ、覚悟は微塵もなかったです。はい。
10歳年上の人に、15歳で出会って。
- 伊藤
- えー!
- 内田
- たまたま父の紹介だったんです。
父には、年に1回、父の日に会っていたんですよ。
強制的に、嫌々。
ところが、15歳の父の日を、すっぽかされたんです。
待ち合わせに来なかった。
そうしたら次の日に「今、寿司食ってるから来い」。
行ったら、父がプロデュースしていた
『魚からダイオキシン!!』っいう
変わった映画のスタッフや共演者のみなさんがいて、
そのひとりが本木さんでした。
- 伊藤
- ええ。
- 内田
- あのとき、本木さんが25歳で、私は15歳で。
おっきなテーブルにみなさんがワイワイしてて。
私は「あっち座ってろ」って言われて、
一人で誰とも交わらず、小一時間ぐらい、
ご飯だけ食べさせてもらって、
「じゃあ、帰ります」って。
- 伊藤
- えー。
- 内田
- だから、そのときはごあいさつを
したっていう程度だったんです。
父も、気まずかったんでしょうね、
すっぽかしたことに気づいて。
それで罪償いをしたかったけれど、
一対一だと「ごめんな」から入らなきゃいけないから。
- 伊藤
- なるほど。
- 内田
- 謝りも入れずに済むように、どさくさにまぎれて
私を呼んだんでしょうね。
- 伊藤
- じゃあ、仕事仲間に会わせたいとかじゃなくて‥‥。
- 内田
- まったくそういうことじゃなかったです。
- 伊藤
- たまたま本木さんがいた。
そして、それから4年後に結婚。
- 内田
- そうですね。そこからどうしてそうなったのかは、
やっぱり、ご縁としか‥‥。
(つづきます)
2019-12-28-SAT