「ずっとお目にかかってみたかった」という
内田也哉子さんを、伊藤さんの部屋にお招きして、
のんびり、ゆっくりと話をしました。
テーマをとくに決めずに始まった対話ですが、
自立の話であり、
母であること、娘であることの話であり、
人生の理不尽の話でもあり、
出会いと別れの話であり‥‥。
尽きない話題を、7回にまとめました。
ふたりといっしょにお茶を飲みながら、お読みください。

(写真=有賀 傑)

内田也哉子さんのプロフィール

内田也哉子 うちだ・ややこ

エッセイスト、翻訳家、作詞家、歌手、俳優。
1976年東京生まれ。
日本、アメリカ、スイス、フランスで学ぶ。
父はミュージシャンの内田裕也、
母は俳優の樹木希林、
夫は俳優の本木雅弘
二男一女の母。
著作に『BROOCH』(リトルモア)、
『9月1日 母からのバトン』(ポプラ社/樹木希林との共著)、
訳書に『たいせつなこと』
『恋するひと』
『岸辺のふたり』などがある。
2019年9月の「おかあさんといっしょ」の“月歌”で
『たいこムーン』を作詞(リトル・クリーチャーズ
(LITTLE CREATURES)の青柳拓次さん作曲)。
作詞、翻訳は「うちだややこ」名義。

その3
母が惚れた。

内田
15歳で父の食事会で本木さんにお目にかかり、
翌年から、私はスイスに留学したんですが、
その直前に、本木さんの事務所の社長と父が
仲がよかったことから、
英語が話せて、ちょっと身の周りの
アシスタントができる人を探してる、
っていう話が来たんです。
それはなにかっていうと、
ちょうど日本で初めてアメリカのアカデミー賞を
BSで生中継するっていう機会があって、
ナビゲーターを本木さんがやることになった。
そこで「バイトする?」って言われました。
もう、映画が大好きだったし、
高校1年生でそんな機会はないから、
もうふたつ返事で「ぜひ」って言ったんですね。
そうして「あ、そういえば、あのとき会った本木さん」
っていう感じで再会し、
1週間、本木さんの通訳としてお手伝いしたんです。
テレビの仕事は撮影に合間があるから、
いろんな話をしていくなかで、
もうすぐスイスに留学するということで、
住所交換をして、文通が始まりました。
伊藤
へえ!
内田
そんなに密にではなかったですよ。
忘れたころに届いたり、
私もスイスからちょっと小旅行に行ったりしたら
絵はがきを書くとか、そういうのがだんだん‥‥。
伊藤
すてきですね。
内田
話だけ聞くとそうですよね(笑)。
その後、夏休みに帰国中、
東京で初めて2人でごはんを食べた席で、
こう言われたんです。
「もし、将来、結婚っていうことを考える時期がきたら、
私を選択肢に入れておいてください」って。
まったく、ちゃんとしたおつきあいをしないどころか、
きちんと自己紹介もしてないくらいなのに、
そういう感じで。
伊藤
!!! お互い、そのやりとりや文通で
何か波長の合うものを感じ取ったんでしょうね。
内田
ええ。ほんの断片なんですけど、
そうかもしれない。
伊藤
そのとき也哉子さんはどう思ったんですか。
内田
私は正直、「あ、きっとこの人、頭がおかしい人で、
誰にでもそうやって言ってるんじゃないか」
って思いました。
伊藤
そんな‥‥!
内田
母からは「ぜったいあの人、ゲイだから」
って言われていて。
伊藤
安心よって。
内田
「いいお友だちね」って。
伊藤
そっか、なるほど。
本木さんって、女の人を口説くために
わざとそういうふうに言う、みたいな感じでもないし。
内田
雰囲気はそういう感じじゃなかったけど、
でも、違う意味で頭がおかしいんだろうなと思った。
勝手に思い込んじゃうっていうか、
あまりにもその飛躍が大きかったから。
文通から、結婚って。
伊藤
その時、一般的に子どもじゃないですか、まだ。
也哉子さん。
内田
だから、まったく結婚の「け」の字もないし、
それを言われて、びっくりして家に帰って、
母に「そんな突拍子もないこと言うんだよ」って言ったら、
なにも反応しないんですよ。
「ああ、そうなんだ? 女の人が好きなんだ‥‥」
みたいな。
伊藤
そっちの驚き?
内田
「意外だわ〜」っていう感じでしたね。
伊藤
ええー。
内田
それに、母は、自分がこの業界に長くいるから、
「結婚相手はカタギの人にしてくれ」って
ずっと言ってたんです。
伊藤
そうなんですか。カタギの人か‥‥。
内田
まったく芸能界と関係ない人がいいと。
でもそのうち密になって、
スイスにはいたけど折にふれ会うようになっていくうちに、
こんなことがあったんです。
本木さんの実家は埼玉の16代続いてる農家なんですね。
敷地の中に、もう何百年前からの、
先祖代々のお墓があったり。
母はとってもそういうことにリスペクトがあるので、
「この子は、突然変異で芸能界で役者になっただけなんだ。
この本木家のすばらしい遺伝子を、
もし内田家におすそわけいただけるんなら‥‥」と、
すっかり前向きになってしまったんです。
母のほうが、本木さんの驚くべきギャップと、
お米を育てて何百年も続いている家系ということに、
強く尊敬を感じたんですね。
ただでさえ、3代で絶えるって言うじゃないですか。
伊藤
たしかにね‥‥。
内田
だけど、そこまで守り続けられた本木家。
役者って、よく根無し草の人たちって言われるけれど、
それこそ地に根がしっかり張って、ほんとに慎ましいし、
お父さんもお母さんもお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、
みんな、大切なものを見極めて
丁寧に日々を暮らして生きてらっしゃる。
それがどれだけすばらしいことかって、私も言われて。
伊藤
ほんとですね。うん。確かに。
内田
で、本木さんは3人の男兄弟で。
長男はもう結婚して子どももいて、実家に暮らしてたから、
「次男だから、なんとか、
うちにお婿さんに来てもらえないか」って。
だから、結婚の方法については、
私の気持ちがどうこうっていうよりも、先に母が‥‥。
伊藤
盛り上がったっていうか。
内田
うん。「もし、本木さん‥‥」って母が言うんですって。
私は外国にいて、日本にいないとき、
本木はときどき仕事で母と一緒になったりして、
そのときに「たとえば‥‥」みたいな話で、
婿入りをお願いされたんだそうです。
伊藤
おもしろいなあ。
内田
本当に結婚したいんだったら、って。
自分も「中谷」っていう姓から内田家に嫁いで、
主はいないんだけども、責任感が強く、
古風なマインドを持っているんです。
どうしてそこまで家というものにこだわったのか、
私もいまだにわからないけれども、
彼女のロジックのなかでは、内田家に嫁いだ女として
それがいちばん正しいと思ったんでしょうね。
伊藤
そんな、外国に9歳の娘を置いてくるみたいな、
ちょっとハチャメチャなところもありつつ‥‥。
内田
そうなんです。
伊藤
でも、根を張るということについての覚悟や考えは、
そんなに古風なんですね。
内田
そう。ものすごく激しい落差です。
間がちょっとないんじゃないかっていうか。
自分の信じてること、
大切にしてることについてはとても古風です。
私はよく母と揉めたんですけど、
男性はこういう性質、女性はこういう性質って。
男女差別っていうことではないんだけど、
母は「その性質を活かしなさい」っていうことを、
周りにも言ってた人で、
今の時代には珍しいような考え方をずっと持っていました。
伊藤
ええ。
内田
なのに父はああいう破天荒の代名詞みたいな人で、
家には一度も一緒に暮らしたことがない。
けれども、ずーっと私のなかで
「あの人が父親なんだ。尊敬しなきゃいけない存在なんだ」
っていうことが皮膚感覚で残ったのは、
母がそれを大事にしてきたからなんでしょうね。
伊藤
うん、うん。
内田
小さいときから
いっさい父の悪口は聞いたこともないし、むしろ
「とても尊敬に値するすてきな人なんだ」
「普段はいないけれども」っていうふうに思っていました。
思春期になって、
私がいろんな疑問を投げかけるようになるまでは。
伊藤
日本の家庭だけじゃないかもしれないけど、
家父長的に、お父さんが「うちの愚妻が」と
家族を下に見るというようなことや、
逆に、不在がちなお父さんのことを、
お母さんが悪く言うみたいなことは、なかったんですね。
内田
そういうことはいっさいなかったですね。
伊藤
うん。そのほうが絶対すてき。
内田
それが、思春期になって、
私が「やっぱりおかしいぞ」と。
父の日以外に会うときはだいたい酔っ払っていて、
夜中の2時、3時に来て、外でわめいて、
仕方がなく鍵を開けて入れて、
そうするともう家の中のものはひっくり返すし、
母にももう悪態をつくし、寝てても私を叩き起こして
「座って俺の話を聞け」っていう状態は、
どう見ても尊敬できないっていうか、
恐ろしい、嫌な、やっかいな対象でしかなかった。
そんな人を、なぜそこまで、母は、と。
伊藤
うんうん。やっかいですね、ほんとに。
内田
「じゃあ結婚ってどういう意味があるわけ?」と。
籍だけを入れて、言ってみれば、
母がずっと父の衣食住を全部養って、
その父は私たちには1円も入れずに吸い取るだけっていう、
理不尽の象徴でした。
そこから私が母に「なぜ? 結婚とは何? 
家族とは何? 夫婦とは何?」って。はい。
伊藤
大きくなるうちに、
今まで暮らしてきた環境が、
「あれ、なんか違うぞ」って、
ちょっとずつ、こう‥‥。
内田
そうですね、感じてきたんでしょうね。
ただやっぱりインターナショナルスクールにいると、
みんな違って当たり前っていうところがあるから、
人との差をあまり濃く感じずに済んだのだけれど‥‥。
伊藤
半年ぐらい、日本の普通の学校に
行ったこともあるんですよね。
そのときにちょっとだけ
違和感を感じたとか‥‥。
内田
そうですそうです。
初めてそこで違和感を知ったというか。
小学校6年生で日本語のために
日本の学校に転校したときから、
「あ、やっぱり『普通』ってある。
目に見えないけども、『これが普通』ってものが、
日本には、ほんとうは、あったんだな」って。
「うちは違うぞ」って。
そして、母がなにを守ろうとしてるのかっていうのが
やっぱり理解できなかったから、とても辛かったですね。
思春期のころは。
伊藤
やさぐれたり、反抗したりする時期はありました?
内田
うーん。家庭で母はすっごく怖い人だったので、
1回しか言わないっていうこともそうだし、
つねにある種、切れるナイフのようでしたから。
頭がいいからなんでも早いし、ロジカルだし、
一石二鳥も三鳥も同時に、時間もすごく有効に使うし。
だけれども、なんのために父と
こういう関係を結んでいるのかっていうのは、
ずーっと、私のなかでの、ま、ある種の反抗でした。
怒りっていうか。
で、そこをぶつけると、すごく丁寧に話をしてくれました。
伊藤
そうなんですね。
(つづきます)
2019-12-29-SUN