「ずっとお目にかかってみたかった」という
内田也哉子さんを、伊藤さんの部屋にお招きして、
のんびり、ゆっくりと話をしました。
テーマをとくに決めずに始まった対話ですが、
自立の話であり、
母であること、娘であることの話であり、
人生の理不尽の話でもあり、
出会いと別れの話であり‥‥。
尽きない話題を、7回にまとめました。
ふたりといっしょにお茶を飲みながら、お読みください。

(写真=有賀 傑)

内田也哉子さんのプロフィール

内田也哉子 うちだ・ややこ

エッセイスト、翻訳家、作詞家、歌手、俳優。
1976年東京生まれ。
日本、アメリカ、スイス、フランスで学ぶ。
父はミュージシャンの内田裕也、
母は俳優の樹木希林、
夫は俳優の本木雅弘
二男一女の母。
著作に『BROOCH』(リトルモア)、
『9月1日 母からのバトン』(ポプラ社/樹木希林との共著)、
訳書に『たいせつなこと』
『恋するひと』
『岸辺のふたり』などがある。
2019年9月の「おかあさんといっしょ」の“月歌”で
『たいこムーン』を作詞(リトル・クリーチャーズ
(LITTLE CREATURES)の青柳拓次さん作曲)。
作詞、翻訳は「うちだややこ」名義。

その5
自由が嫌だった。

内田
不登校といえば、母が生前、2015年に、
不登校の子どもたちや
親に向けたシンポジウムに参加したことがあるんです。
伊藤
9月1日が、子どもの自殺が最多ということについて、
メッセージを送ってらっしゃった。
内田
そうなんです、9月1日。
昨年、2018年のその日は、母が入院中で、
まさしく死に向かっているなか、
今日は、ほとばしる未来がある子どもたちが、
学校でのいじめだったり、生きづらさだったりを理由に
自殺するっていうこの現実に
もうほんとに耐えられなくて、
涙を流しながら、
「死なないでね」っていうふうに言ったんですね。
それを受けて、
私もまったくそういうことを知らなかったし、
うちの子どもたちはそこまで学校行きたくないっていう
ふうになったことがなかったので、
そういうことが日本で大問題だっていうことさえも
知らなかった自分がとても恥ずかしかった。
伊藤
学校に行きたくないって言えない環境なのかな?
内田
不登校の子どもは、学校に戻れないということは、
社会にいつまで経っても戻れないのと同じだって、
想像を先に進めてしまって、
だからもう死ぬしかない、僕は死ぬしかないって‥‥。
「学校か、死か」っていうことになっちゃうんですね。
それはもちろん、一人ひとりに聞けてるわけじゃないから、
ざっくりしすぎなんですけど、どうやらそういうことだと。
しかも、いろんな先進国のなかでも
子どもの自殺率は、日本がかなりの上位なんですって。
じゃあ私たち大人が、
「学校に行かなくても全然生きる道はあるよ。
学校という機関に行かなくても
学びのチャンスはいくらでもあるよ」っていうことを、
当たり前のように提示してあげてないっていう現実が、
選択肢を狭めてるっていうか。
伊藤
うん、うん。
内田
もし急に自分の子どもが学校に行きたくないとなったときに、
伊藤さんのように半年間も、
「いいよ、いいよ」っていうふうにできるかって言ったら、
私はもしかしたらもっと早くに不安になって、
「こうしてみろ、ああしてみろ」って
言ってたかもしれないなっていうのは想像できる。
伊藤
私、ばかなのかも?
内田
えっ、そんなことないですよ!
伊藤
その時じつはちょっとうれしかったんです。
あの年頃の娘とずっと一緒にいれたのは、
今思うとすごくラッキーだった。
内田
財産ですよね。
伊藤
そう。
内田
不登校の子どもをカウンセリングする人と
対談したときには、
そういう期間って、人から見たら
ただ闇の中で閉じこもって
なにも動いていないって見えるかもしれないけど、
熟成の期間だと思うようにって。
発酵期間っていうか、
のちに自分がおいしくなるためにっていうと変だけど、
自分がもっといろんな豊かさを持てる、
あるいはいろんな選択肢を
自分のなかで膨らませられるための
熟成期間だっていうように、
家族も本人も思えるようにって。
だから、追い込まない。
いつ? どうする? とは、
絶対言わないっていうのが鉄則だ、みたいな。
そういう話を専門家から聞いたりすると、
伊藤さんはそういうことを知らず知らずのうちに
感覚的にやってらしたっていうことが、
ほんとにすてきだなって思いました。
伊藤
もともと私も学校が苦手なタイプだったんです。
内田
伊藤さんのご両親はどういう方でしたか。
子どもに対して。
伊藤
私はなんにも言われたことがないんです。
内田
勉強をしなさいもないし、
こういうことしちゃだめよもない?
伊藤
なんにも言われなかった。
口は出さないけどお金は出すという。
内田
でも、私もそうだったんですよ。
伊藤
うん、うん。
内田
だけど、それがすっごく嫌だったんですよ。
伊藤
へえ‥‥。
内田
そこがおもしろいなと思って。
「なんでもありだよ。なんでも自由にしなさい。
その代わり、責任は自分でとりなさい」っていう中で、
私はどこか、いつも
「これで大丈夫だろうか」っていう危機感を抱えてた。
伊藤
結局、自由ってそういうことなんですよね。
内田
だから、小さいときから、
自由なんてなに一つおもしろくないし、
もっと「こうしろ、ああしろ」って
言ってほしいと思ってました。
そしたら考えなくて済むじゃないですか。
考えるのに疲れてました。子どものときから。
伊藤
そうなんですね。
内田
だから、伊藤家の、
口は出さないけどもお金は出す、
つまりサポートしてくれるっていうことは、
いい親だったって思える。
その大らかさが羨ましいです。
伊藤
うん。すっごいうれしかったです。
‥‥、やっぱり私がばかなのかも?
内田
いやいやいやいや。
それは生命力が真っ当っていうことですよ。
ちゃんと、与えられた環境を、
おもしろがりながら生きてこられた。
じゃあ、反抗期もなく?
伊藤
反抗期もなかったですね。
内田
いつも、お母さんとも仲良く、
なんでも話し合えて、みたいな?
伊藤
そうですね。でも、父は、わりとこう、
近寄りがたいというか、「父」っていう存在でした。
うちの母もやっぱり立ててる感じはありましたね。
内田さんの「自由が嫌だった」というのは面白いな。
内田
嫌で嫌で。
友だちは、お母さんやお父さんに
「何時までに帰ってきなさい」
「ああいうエリアに行っちゃだめよ」って、
いろんなルールがあって、
それをいかにすり抜けようとしてるかっていう感じで、
羨ましかったですね。
伊藤
それも言われなかったんですか?
内田
はい。でも、お友だちは私を羨ましがる。
だって、門限もないし、
誰とどこに行ってもいいし。
だから、結局、
ないものねだりだったんだろうなとも
思うんですけどね。
がんじがらめだったら、
きっとそれを打ち破ろうとしただろうし、
もっと反抗しただろうし。
伊藤
娘が戻りたいと言った学校は、
人と比べない校風なんです。
「違って当たり前」っていうのが、
親にも先生にも、子どもたちにもある。
それが普通で育ってきたので、とつぜん
「同じで当たり前」っていう環境に「あれ?」って。
内田
そんなに違うんだ。
伊藤
そのあと、「一度、外に出なかったら
今の環境がいいって思えなかった」って。
なんか区切りになったみたいで、それについて
「ありがとね」って言われました。
内田
ああ!
伊藤
私が勝手に振り回したわけだけれど、
「やだ、行きたくない」みたいのはあっても、
私の子に生まれちゃったし、って。
内田
伊藤さん、そんなに、
本能のおもむくままに、
っていう感じの性格なんですか?
伊藤
うん。わりとそうです。
内田
じゃあ、たとえば、この生活も、
がらっと変えられる?
伊藤
はい。急に引っ越したくなるし。
そういえば、のちのち、娘が18歳ぐらいのときに、
「ママが自分の人生を生きてくれてるから、すごい楽」
みたいなことを言われました。
内田
うんうんうん。
伊藤
「えー。ほんと、よかった。
ごめんね、こんな、いろいろなのにー」と。
それはすごくうれしかったことの一つです。
内田
ほんとに心の奥のほうで
なにか細くつながってるっていうのを
勝手に感じちゃったんですけど、
ほんとにそれって、親子であっても、
幸福な出会いだと思います。
なかなか、自分の親でも、
自分の子でも、兄弟でも、
そこまでのシンパシーだったり思いやりだったり、
そういうものって得られないみたいですね。
伊藤
子どもができたとき、どう思いました? 
うれしかった?
内田
いや、えー‥‥、それ、考えたこともなかったです。
伊藤
私は、なんてことをしてしまったんだろうと思ったんです。
内田
え、なんてことをしてしまっ‥‥た、って??
伊藤
もう、取り返しつかないじゃない、って。
内田
それは、負荷の意味で?
伊藤
「どうするんだろう」みたいな。
だって、一人、人間を育てるって、
やってみないとわからないし、
でも、産んだら、「やったけどだめだった」
ってことはできないので、
「よし、いちかばちかだ」みたいな気持ちになって。
内田
ええ。
(つづきます)
2019-12-31-TUE