1995年、パリに暮らしていた
山井孝さん・自子さん夫妻が立ち上げた
レディースブランド、t.yamai paris(ティー ヤマイ パリ)。
パリに行く前のこと、
パリでの15年のこと、
日本に戻ってきてからの10年のこと、
そして、大好きなリバティプリントのこと。
長らく、おふたりの作る服のファンだという
伊藤まさこさんが、東京のアトリエに伺って、
おふたりとたっぷり話しました。
山井さんたちの、のびやかで明るい空気は、
そのまま服づくりにもつながっているみたい。
3回連載で、おとどけします。
t.yamai parisのプロフィール
●t.yamai paris(ティー ヤマイ パリ)
1995年、パリでブランドをスタート。
リュクサンブール公園近くにブティックをオープン。
2010年、東京に拠点を移す。
ベーシックを軸に甘さとモダンさをミックスした
大人の日常着を提案。
エレガンス、フェミニン、クラシカルをキーワードに
自分らしい着こなしを大切にする
女性のための服作りを続けている。
●山井孝(やまい・たかし)
文化服装学院卒業。
(株)BIGI に入社しデザイナーとして数年活動。
パリで経験を積んでみたいと渡仏。
TOKIO KUMAGAI のアトリエでアシスタントとして働いた後、
Zucca paris の企画、フランス生産等を経て
パリで自身のブランド t.yamai paris を立ち上げる。
●山井自子(やまい・よりこ)
文化服装学院卒業。
アクセサリーの企画、プレスを経た後に渡仏。
ブランド t.yamai paris をパリで立ち上げ、
パートナーとしてサポート。
その2好きなものは変わらない。
- 伊藤
- 孝さんが情報収集の仕事を離れたのは
なぜだったんですか。
- 孝
- その頃、小野塚秋良さんの
「zucca(ズッカ)」っていうブランドが
日本でスタートしたんです。
そこに「TOKIO KUMAGAI(トキオクマガイ)」
のときにお世話になった
テキスタイルの担当だった女性がいて、
その縁で僕は「zucca paris」の
仕事をすることになりました。
「今、なんにもしてないんだったら、
手伝わない?」って。
僕は情報収集の仕事しかしてなかったから、
すぐに「やります!」と。
- 伊藤
- じゃあ、パリにいながらにして、
日本のブランドの仕事をすることになった。
- 孝
- そうですね。「zucca」を運営していた
会社の社員になって、
パリでたくさんのことを経験させてもらいました。
それが5年ほど続いたんです。
- 自子
- それで情報収集の仕事は私が引き継いで。
- 伊藤
- いいコンビですね。
- 自子
- お互い、忙しくて、楽しくて、良かったですよ。
- 伊藤
- 孝さんは、パリで
「zucca」の仕事を、ひとりで?
- 孝
- もちろんフランス人の現地スタッフも何人かいましたよ。
窓口なので、なんでも屋さんです。
とにかく「zucca」に関することの依頼が全部来ちゃう。
荷物の管理からショーの手伝いまで、すべてです。
そのなかで、僕は作ることも提案したんですね。
「メイド・イン・フランスで、
なにかやりましょうよ」って。
- 伊藤
- どんなものをつくったんですか。
- 孝
- オリジナルで、マダガスカル産のかごや、
パリのマルシェバッグや、ニットでしたね。
あっ! 作業着も面白かったなあ。
うまくいったのもあれば、
ダメだったのもありましたけれど、
そこで、いろんなことを覚えました。
それが独立のきっかけにもなったんです。
- 伊藤
- なるほど。
いろんなことっていうのは、
いろんなものを作るっていうってことですね。
- 孝
- そうですね。
- 自子
- こういうものを作るにはこの工場がいい、とか。
- 孝
- 例えば、南仏に行き、
エスパドリーユの工場にとびこんで、
なんとか頼みこんでサンプルを作り、
できあがったものを日本に送ったり。
今みたいに、写真やデータが
簡単に送受信できる環境はないから、
いつも実物でした。
- 伊藤
- それを5年くらいやっているうちに、
独立の気持ちが高まっていき、
二人一緒にブランドの立ち上げをなさった。
- 自子
- ハイ、一緒に立ち上げました。
- 伊藤
- そのとき、こういうことをやろう、みたいなことは、
言葉になっていたんですか。
こういう人のために、こういうものを作ろう、とか?
- 孝
- いや、なんとなくですかね。
- 自子
- いま思うと、それってなんだったんだろう。
- 伊藤
- 孝さんが作る服はレディースですから、
ご自身では着ないわけじゃないですか。
なので、自子さんの思いを形にしているのかなって
想像をしていたんです。
- 孝
- そうかもしれません。
だから僕がレディースの服づくりを
できるのかなって思います。
- 自子
- 全部が全部っていうわけじゃないけれど、
基本はそうなんでしょうね。
特別なものではなく、日常着を作りたい。
- 孝
- そう、最初のコンセプトは日常着だったね。
- 伊藤
- わたしの印象では、全然、変わってないんです。
でも「日常着」かと言われると、
そうじゃないものもあったような。
- 自子
- そこから変化していったんじゃないかな。
一時、規模が大きくなって、
日常着ではないものも作りました。
- 孝
- ちょっとオケージョンっぽいのや、
ドレスっぽいのも入れようとか、
そういうふうになっていきましたが、
基本は日常着のままだよね。
- 自子
- バリエーションが増えても、
「基本」はあんまり変わらないのかもしれないですね。
変わろうとしても、変われないというか。
- 伊藤
- うん、うん。そうですよね。
最初、ブランドをパリで立ち上げたわけですが、
「必ずフランスで作る」とか、
そういう決めごとはあったんですか?
- 自子
- 決めごとではなかったけれど、
パリ発ということが個性のひとつでしたから、
フランスで全部作っていましたね。
- 孝
- それから、生地はナチュラルであることかな。
リバティは英国製ですから例外ですが、
基本的に使う生地はフランスのものが多かったです。
フランスの、素朴で、
昔からやっているような生地が大好きで。
あとはヨーロッパのものを中心に使っていました。
- 伊藤
- 当時、ちょっとかわいらしい
パリの香りがする服っていう印象でした。
たぶん、二人が「普通」だと思っているものを
そのまま服というかたちにしたら、
それがとても素敵なものとして
わたしたちに見えたんじゃないかな。
二人が、仕事を兼ねていろいろ見てきたことの
蓄積がすごかったんじゃないかなと思います。
- 孝
- そうかなぁ。
- 自子
- そうだといいね(笑)。うん、うん。
- 伊藤
- ブランドを立ち上げて最初に作ったのは
どんな服だったんですか?
- 孝
- 最初に作ったものと、
今作っているものって、
じつは似ているんですよ。
- 伊藤
- へぇ~!
- 自子
- 秋冬だったんです、最初。
- 孝
- やっぱり、こういうクラシックな
素材を選んじゃう。
- 自子
- 好きなものは変わらないです。
- 伊藤
- そうですよね。
- 孝
- その頃は、ホルターネックという、
かんたんに言うと金太郎の前掛けみたいな‥‥。
- 自子
- その表現は、誤解を招く(笑)!
- 孝
- きっとみなさんわかりますよね、
首から通して、前からぐるりと
身体に巻きつけるようなタイプの服。
それをTシャツの上に着て、
さらにジャケットを羽織る、
みたいなコーディネートが好きでした。
今考えるとわりと不思議なんだけど、
素材は、ほんとクラシックで。
- 伊藤
- そうして作った服は、
どんなルートでお客様にお届けしたんですか。
- 孝
- 日本から来たバイヤーの方で、
ちょうどいろんなブランドを探して
ヨーロッパを回ってる人がいて、
その人に見せたら
「日本で展示会にかけさせてくれ」って。
- 自子
- 「売りたい」っておっしゃってくださったんです。
- 孝
- 僕らもフランスにまだ売り手がいなかったし、
日本に営業に行くのも大変だしと思っていたので、
お願いすることにしたんです。
- 自子
- そもそもブランドの立ち上げのとき、
そういうことをあまり考えずに始めちゃったのね(笑)。
だから「あっ、良かった、良かった」って。
20型くらいのスタートでした。
- 孝
- ワンピース、ブラウス、Tシャツ、
そういう基本的なものでしたね。
新しいブランドって
あんまりニットとかカットソーを入れず、
布帛だけでデビューする人が多いんですけど。
- 伊藤
- 覚えてます!
ハイゲージのニットはありましたよね?
あれ、とっても素敵だったな。
娘も私もそのニットを着ていました。
また作ってほしいです。
- 自子
- そうなんです。
よく言われるんだけど‥‥(笑)。
- 孝
- 今、あのニットを編める機械が少なくなってしまい、
なかなか作ることが難しくなってしまっているんですよ。
- 伊藤
- そうなんですね。
でも、また着たいなぁ‥‥。
それで、日本での販売は、
すぐに軌道にのったんですか。
- 自子
- 最初は注文は少なかったと思います。
それで、自分たちでも営業をしようと、
ニューヨークに行き、
飛び込み営業もやりましたよ。
- 自子
- 3軒くらいの人が買ってくれました。
- 伊藤
- じゃあ、日本には
販売を手伝ってくれるパートナーがいて、
ニューヨークでは自分たちで営業をかけて。
パリでは?
- 孝
- パリでは、合同展に出展したんです。
公園にテントを張って開かれる、
PARIS SUR MODEという
有名な展示会があるんです。
- 自子
- Tranoi Paris Women’sという展示会にも
出したことがありますね。
- 伊藤
- そういうところには、
各国からバイヤーが来て?
- 自子
- そうです。世界中から買い付けに来るんです。
日本からのバイヤーの数もすごかったですよ。
- 伊藤
- そうして広がっていったんですね。
それから何年ぐらい、
パリを拠点になさっていたんですか。
- 孝
- パリでは15年、
日本にシフトしてからは、10年です。
立ち上げが1995年なので、
ブランドは今25年ですね。
- 伊藤
- 日本にシフトしたきっかけは?
- 孝
- 日本での販売は、エージェントに
任せていたんですが、その人が、
日本製のものもいろいろ入れていこうと、
提案をしてくださったんですよ。
- 自子
- それで日本での生産を始めたんです。
- 孝
- それがだんだん増えていきました。
- 自子
- そこで、日本製で満足のいくものを、
きっちりとしたスケジュールで
作ってもらうような方向に向かっていきました。
- 伊藤
- 日本と比べると、
フランスでものを作るのは、
やっぱりたいへんなのかなぁ?
- 孝
- フランスは人件費もすごいから、
僕らのような者がもの作りをするには
不便な国かもしれません。
日本のことを知ってるから、余計にそう思う。
- 伊藤
- みなさん、日本はすごいっておっしゃいますよね。
- 孝
- 実際、すごいです。
- 自子
- それで、だんだん、
日本生産にシフトしていったんです。
ものが作りやすいから。
- 孝
- 日本に拠点を持とうか、
ということを考えつつ、
パリと行ったり来たりのスタイルを
模索していたんですね。
そのうち、パリに年に1、2回のスケジュールで
カタログ撮影やアイデアソースを探すことを目的にして
遊びに行くほうが楽しいよ、
って思うようになって(笑)。
で、日本をベースに生活することになりました。
- 伊藤
- 時間の感覚からして、
きっと、違うでしょうからね。
- 孝
- それもありますね。
- 自子
- 1日1個しか進まないこともあるし。
- 伊藤
- そういうストレスも
おありだったんですね。
- 孝
- 大いにありましたね。
あと、納期が守られない。
約束の日までに生地があがらなければ、
日本だったらがんばるところを、
たとえばバカンスに入るタイミングだったりすると、
絶対にバカンスを取るので。
仕事は何も進まなくなるわけです。
なに言っても無理ですから。
- 伊藤
- うん、うん。
でも、そのフランス的なところも、
わたしたちにとっては憧れ。
- 自子
- そうなんです。
それはそれで素敵なことなんですよ。
- 伊藤
- お二人はお二人で、
自分たちもバカンスだ! みたいなことは
なかったんですか。
- 自子
- ありましたね。
- 孝
- そうじゃないと、大変すぎて(笑)!
気にしていても進まないものは進まないんだから。
- 伊藤
- そうかなって思って聞いてました(笑)。
- 孝
- なんとかなるよね。なんて、
そこは急にフランス人みたいになって、
バカンスに出かけてしまってました(笑)。
- 伊藤
- じゃ、日本に2010年に帰って来てからは、
いろんなことがスムーズに?
- 孝
- 作ることに関しては、
日本はシステムがちゃんとしていますから。
- 自子
- 運送業者さんも優秀だから、
工場との往復日程を入れても
3日でサンプルがあがっちゃう、
みたいなこともありますからね。
- 孝
- 向こうは、「無理」って言われたら終わりだから。
「3日で届けろ? 無理だよ、無理!」(笑)。
今はどうなのか、ちょっと分からないけれど。
- 自子
- もうあまりにもね、
いろんなことがありましたね(笑)。
(つづきます)
2020-07-07-TUE