伊藤さんが使って20年ほどになるという、
シンプルな朱の漆器。
伝統的な技法でありながら、
現代の洋の生活にもなじむ、
「ちょうどいい」デザインの器です。
その器をつくったのが「輪島キリモト」の桐本さん。
いまも定番でつくっているその器2種類を、
「weeksdays」で紹介することになりました。
大学ではプロダクトデザインを専攻、
建築系の仕事を経て輪島にもどり、
伝統工芸の世界に革新をもたらす桐本さんに、
漆について、たっぷりお話をききました。

桐本泰一さんのプロフィール

桐本泰一 きりもと・たいいち

木地屋、漆デザインプロデューサー。
1962年輪島市生まれ。
江戸時代から200年以上続く
家業の木地業と漆器業の7代目。
筑波大学芸術専門学群生産デザインコースを卒業後、
コクヨの意匠設計部でオフィスプランニングに携わる。
87年、輪島に帰郷し、家業の「桐本木工所」に入所。
「桐本家」は江戸時代後期から明治・大正にかけて
輪島漆器製造販売を営んでいたが、
昭和の初めに木を刳ることを得意とする
「朴木地屋・桐本木工所」に転業していた。

木地業の弟子修行を4年半行なった後、
造形提案、デザイン提案、
漆器監修、家具製作、建築内装などを始める。
現代の暮らしでも使いやすい漆塗り技法を研究、
新開発の「makiji(蒔地)」「千すじ」技法は、
金属製のフォーク・ナイフが使えるほど、
表面を強靭な硬度にすることに成功。
代表に就任後、社名を「輪島キリモト」とし、
木地屋を続けながら輪島漆器製造販売業を復活させる。
産地内の創り手たちとの交流、
都市部のデザイナーとの取り組み、
生活の中で木や漆が当たり前に使ってもらえるようにと、
普及活動や、さまざまな可能性に挑戦している。

●輪島キリモトのウェブサイト

その2
漆の世界を変えてゆく。

伊藤
そもそも、桐本さんは、どうして漆の世界に? 
代々、漆を扱っていたんでしょうか。
桐本
祖父の持っていた家系図をひもとくと、
初代の1700年代後半から、昭和の頭まで、
漆器業をやってました。
そのあと、木地(きじ)業を始めて、
そこから数えて、ぼくが3代目になります。
つまりぼくの父は漆ではなく、木を扱っていました。
いっぽう、ぼくは、金沢美術工芸大学に行って、
工芸科で漆をやろうと思っていたんです。
高校の時は、
漆のことしか考えてなかったんですよ。実は。
伊藤
そうなんですか!
桐本
ところが、思い立ったのが遅かったのか、
絶対にそこには受からないと言われました。
それで高校の先生が推薦枠を用意してくれて、
筑波大学に行くことになったんですね。
ところが、当時の筑波は、
国立大で唯一の推薦があったところだから、
そんな難関に合格するなんて
誰も思っていなかった。
だからあいつが合格するなんておかしい、
えこひいきだ、と噂になってしまって。
くやしくてね、そのくやしい一心で
再度基礎勉強をして、
金沢美工も受けて、合格したんです。
伊藤
わぁ。
桐本
それからあらためて「自分に問うて」
推薦していただいた筑波大学に進みました。
筑波では工業デザインを習ったんですが、
いちばん最初の授業で、教授がこう言うんです。
「今のあなたたちが4年間学ぶ
デザインっていうのはね、
今を暮らすこの世の中の人々が、
今よりももうちょっとホッとする、
もうちょっと気持ちよく、
もうちょっと便利な生活を送るには
どうしたらいいか、
っていうことを考える学問です。
それが工業デザインなんですよ」と。
「キレイな色だね、キレイな形だねっていうことは、
デザインとしては、狭義です。
君たちはもっとそれに対して、なにをすべきか、
つまりHowではなくて、Whatを常に考えなさい。
なにをすると、人々のためになるかを
考えるようにしなさい」
そう言われたんです。
で、その時に、
「え? じゃあ、やっぱり、
漆を広げりゃいいじゃん!」
って単純に思って。
伊藤
ほんとですね。
桐本
それからも、良かったのは、
たまたまその先生たちに、
「こいつは、伝統工芸を志しているのに、
工業デザインに来たやつだ」というので、
面白いと思ってくださったんでしょうね、
いろいろなことを教えてくださった。
ほんとうに、手取り足取り、4年間。
たしかに、ぼくの同級生はみんな、
カメラ、車、電車、飛行機、
そういうのをつくりたいと思っているわけですよ。
漆に行こうなんてのは、珍しかったです。
伊藤
それはよかったですね。
桐本
授業が終わったあと、先生の宿舎に行っては、
議論をふっかけたりして。
先生が酒の好きな人ばっかりだったので、
酔っぱらった先生によく怒られましたよ。
全然なんの経験もないのに、
ぼくがいろいろ生意気なことを言うから、
あっという間に論破されて。
伊藤
大学進学の経緯もそうですが、
桐本さん、負けん気が強いですね(笑)。
桐本
そう。「負けてたまるか!」って。
でもやっぱり最初の、
教授の言葉に感動した瞬間に戻り、
漆は、便利とは言わない。でも、気持ちよく、
ホッとさせる道具の一つではないかっていうことを、
どんどん信じられるようになったんです。
漆っていうものを世の中に広めることが、
人のためになるって。
だから、ぼくが輪島で漆を始めたのは、
自分がやりたいことが
たまたま故郷にあったということです。
そんななか、家はもう漆をやっていなかったけれど、
明治44年に三代目の桐本久太郎がつくった夜食膳が
輪島のある家の蔵から、
揃いで40人分、出てきたんですね。
お通夜の時に使う「御膳揃い」です。
今、うちでも汁椀にしたり、
アイスクリームを入れたりして使ってますが、
きれいでしたよ。
そういうことを考えると、
今から自分が漆をやることも、
おかしくないぞ、と。
伊藤
でも、大学を出てすぐには
漆に行かなかったんですよね。
桐本
はい。図面を引く勉強をしたので、
大阪で大手のオフィス家具メーカーに就職して
オフィスプランニングの設計をしていました。
当時、日本がいよいよバブルやぞ、っていう時で、
今すぐぼくが帰らなくても、家は大丈夫。
1回、人の釜の飯を食べて、
世の中のお金の動きと人の動きってどうなんだろうと
勉強をしたくて、企業を探したんです。
意匠設計という部署だったので、
家具のデザインをさせてもらえるのかなと思っていたら、
オフィスプランニングだったんですね。
大きなビルが建ったとき、
そこを使う企業のためのフロアをつくる仕事です。
ぼくは現場に放り込まれて、
在籍していたのは2年半ですが、
6年分働いた、というくらい、働きました。
伊藤
バブル期で多忙だったことでしょう。
桐本
若いからこそ、乗り切れたんですね。
大きなプロジェクトが終わったのを区切りに退社し、
輪島に戻りました。
その頃に培ったことで、
今でもためになっているのは、
建築内装の中にも漆があったらいいのに、
という感覚です。
オフィスって温かみがないな、
そこを、天然の漆で何かできないかな、
っていう想いを秘められたことが良かったです。
伊藤
ご実家では漆はやっていなかったなか、
どうやってそれを始められたんですか。
桐本
それがですね、木地屋というのは、
たとえば重箱をつくりますよね。
その底板を、漆で接着するんです。
伊藤
ええー! 接着剤として?
桐本
そうです。漆の中に、米糊から煮込んだ糊と、
ケヤキの粉末を混ぜて充填剤にし、接着剤として使う。
だから木地屋にも漆があるんですよ。
忙しいときは
「重箱四段蓋2枚、高台つき100個」
なんて注文が来る。
そんな時はすさまじい量の漆を使います。
伊藤
じゃあ、桐本さんの仕事は、
新しい漆の使い方を家業の中で提案していくこと?
桐本
まさしくそうですね。
伊藤
お父様はなにかおっしゃいましたか。
桐本
父親は、なにも言わなかった。
いいとも、悪いとも言わない。
やれとも、やめろとも言わない。
ただ父が死ぬ間際、妻は
「もう大変だったのよ」って言ってました。
ぼくには言わず、家族に言っていたんですね。
というか、ぼくには
言いようがなかったんだと思います。
なぜかというと、木地屋としての仕事をしながら
漆塗りのことを始めたわけですが、
そこに会社のお金を使わず、
自分がもらってる給料でまかなっていた。
そこから木地代を出して、下地のお願いをして、
何か月かかけて品物をためて、企画展で発表して、
売り上げ上がったら、また木地を出して、と。
社内の工場の経理も自分でやっていたから、
工場のお金に手をつけちゃダメだっていう想いがあって。
だから父も文句の言いようがなかったんでしょう。
伊藤
とはいえ、伝統工芸って大変な世界じゃないですか。
「生意気だ」みたいなことも、
きっと、言われたでしょう。
桐本
そりゃもう。
「桐本、なにしとるん」。
伊藤
分業ですものね。
桐本
輪島にも、赤木明登さんという、
雑誌編集者から転身して
あたらしい漆に挑戦した人がちゃんといるんです。
ぼくは同じ歳で、同じようにやってるのに、
あちらは
「ああ、たいしたもんやな、素晴らしい」
ってすごく褒められて、
ぼくは「なにしとんねん」。
ガンガン責められる!(笑) 
そして、ぼくはこらえたけれど、
他産地では同じような下請けの力のある人が
潰れていくのも見たし、
ちょっとした心ない言葉一つで病んでしまい、
辞めていく人たちもいた。
また、若い人が自由なことがしたいという思いを、
つぶそうとするような風潮もあります。
輪島ではぼくが若い人をたぶらかしているという噂も出て。
そんなことしていないのにね。
でもね、漆をやるなら
輪島にいたほうがものづくりはできる。
木地屋もある。道具もある。
「この漆、こんだけ売ってください」って、
少量でもいい漆が買える。
先輩に分からないことが聞ける。
つくるには、一番いい環境なんです。
伊藤
そうですよね。
桐本
だから若い人たちを集めて、人を輪島に迎える
「わじま工迎参道」というグループを作りました。
年に2回、若い人たちの作品を発表しましょうと。
そこには観光客をはじめ
各地のバイヤーさんも来ますから、
彼らの世界が拡がるでしょう? 
じっさい、阪急と伊勢丹からも声が掛かりました。
そういうようなことで、
「輪島にいて良かった」と
実感してもらえるような場をつくってます。
うれしいのはね、そういうなかから、結婚をして、
輪島に居を構えるわかい人も出てきたこと。
いいですよね、そういうのって。
伊藤
ほんと。すばらしいですね。
わたしがキリモトさんの器を知ったのは、
それこそ取材で赤木明登さんのところに行ったとき、
ギャラリーに連れて行っていただいたんです。
「わいち」というお店でした。
20年ほど前です。
桐本
2000年にギャラリー「わいち」をオープンしてるので、
間違いないと思います。
赤木さんと9人で始めたギャラリーでした。
いまはもうないですけれど。
うちの漆器を伊藤さんが
『LEE(リー)』っていう雑誌に
紹介してくださったんですよ。
それが2004年か、2005年。
伊藤
そうでしたか! 
器の特集だったかな。
こういうデザインの漆って、なかったんですよ。
(つづきます)
2020-11-29-SUN