すてられないもの。[2]
「ルピー/紙屑と宝物」
杉工場の「小ひきだし」再販の今週は、
「捨てられないもの」をテーマに、
3人のかたにエッセイを寄稿いただきました。
きょうは、カレー、そしてスパイスといえば! の、
「ほぼ日」でもおなじみ、水野仁輔さんです。
みずの・じんすけ
長く出張料理ユニット
「東京カリ~番長」で調理主任をつとめたのち、
現在はスパイスを通じて刺激的な体験を届ける
「AIR SPICE」代表。
カレーの世界をよりオープンにするために、
さまざまな情報や考察をつづけている。
著書多数。
近著に『スパイスカレー新手法』(パイインターナショナル)
『スパイスカレー自由自在』(大和書房)などがある。
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小さな引き出しを開けると、
そこにはいつもルピーがある。
インドの紙幣だ。
通貨単位はルピーという。
日本円にして1,000円に満たないほどだけれど、
大事にしまっている。
インドへは毎年のように通っていて、
たいてい1年で最も涼しい1月から2月にかけて旅をする。
だからその紙幣はインドから帰国すると
次の出番まで1年ほどの間、眠っていることになる。
6,500ルピーほどをキープしていたこともあった。
1万円近くになるこの紙幣は
悲劇的な結末を迎えることになる。
ある年、インド政府が紙幣を刷新する政策を取った。
期日までに銀行で新しい紙幣に変えないと
旧紙幣は無効となる。
現地を訪れるチャンスを作れなかった僕に
容赦なく期日は迫り、通り過ぎていった。
次の渡航時、ムンバイの空港に降り立った僕は、
ダメ元で期限の切れた紙幣を出してみた。
あのときの女性スタッフの反応は忘れられない。
憐みの表情さえ浮かべず静かに目を閉じて、
冷たく首を横に振ったのだ。
それもそのはず、手にしているのは無効の紙幣なのだから。
わかっていても虚しさがこみ上げ、
カウンターに紙幣を置いたままその場を立ち去った。
まさかルピーとこんなふうに
お別れをすることになるなんて。
小さな引き出しの中には、実は別のルピーも眠っている。
こちらはニセサツである。
あ、いや、違う。
紙幣を模したカレー専門店のポイントチケットだ。
僕が生まれ育った静岡県浜松市に
かつて『ボンベイ』というインド料理専門店があった。
小学校にあがってすぐ両親に連れていかれ、
高校卒業まで足しげく通った。
“足しげく”なんて表現では言い表せないほど通い詰めた。
その店ではカレーを食べると金額に応じて
通称「ルピーチケット」がもらえた。
このチケットを集めると、
オーナーがインドから仕入れてきた雑貨類と交換ができる。
懸命に集めた。
集めに集めたせいで、
今度は雑貨と交換するのがもったいなくなって、
ルピーチケットだけがたまっていった。
やがて、『ボンベイ』は閉店し、
チケットの束が手元に残った。
店がないのだからこれだって紙屑のようなものだ。
でも、こっちの紙屑は僕にとって
通い詰めたあの店の思い出を今に残す宝物だ。
海外の紙幣に貨幣価値以上の愛着を持ったのは
幼いころである。
海外を旅することが多かった父親は、
帰国すると決まって旅の思い出とともに
その国の紙幣やコインをお土産にくれた。
まだ海外という概念がぼんやりとしている頃から、
見たことのない大小さまざまなコインにひきつけられた。
ジャラジャラと重たくなる財布が、
異国を旅することへの憧れを強めてくれていたんだと思う。
だから、自由に旅ができる大人になってからも、
次にいつチャンスを作れるかわからない国の紙幣を
割と大事にしまっている。
次にインドへ行くときには、
『ボンベイ』のルピーチケットを携えて行ってみようかな。
空港のカウンターに出してみる勇気はないけれど。