パリを経由して、日本から世界へ、
そしてもういちど日本を拠点に
ブランド「L'UNE」(リュンヌ)を立ち上げた
前沢祐子さんにお話を聞きました。
18歳から服づくりひとすじ、だったとはいうものの、
「壁にぶつかっては、乗り越える」
「つねに新しいことに挑戦する」
ことの多かった前沢さん。
いまに至るまでには、縁と強い意思、
高い技術への尊敬があったようです。
伊藤まさこさんとの対談、
3回にわけておとどけします。
前沢祐子さんのプロフィール
前沢祐子
服飾デザイナー。
26歳の時に単身パリに渡り、
フランス語やオートクチュールについて学ぶ。
2000年フランスから帰国、
デザインオフィスを立ち上げ、
フリーのデザイナーとして
数々の国内有名ブランドと企画契約をする。
2015年、
「Ageless・Genderless・Timeless」をテーマに
L’UNE(リュンヌ)を立ち上げる。
既製服のほか、
アトリエでのオーダーメイドも好評。
01君は何しにパリに来たの?
- 伊藤
- こんにちは、前沢さん。
weeksdaysでは、初登場となるL’UNEですが、
まずは、これを読んでいる方々へ、
ブランドの成り立ちを教えていただけますか。
そもそも、なぜ服をつくる道へ?
- 前沢
- 私は東京モード学園という専門学校を出て、
日本のアパレル企業に就職をしたので、
学生の時から服をつくることが日常でした。
その後20代半ばにパリに行きました。
その当時、日本はバブルの最盛期だったんですけれど、
若気の至りで「えいやっ」って。
そして、行ってから、フランス語の勉強をしつつ、
作品みたいな形で、洋服をつくっていました。
ジャン=ポール・ゴルチエにとても憧れていて、
そこで何かスタージュ‥‥見習いができたら、
と思っていたんです。
けれども、現実はそんな甘いものじゃなく、
どうしよう? ‥‥と思いながら、
日本の雑誌のスナップ写真の
コーディネーターのお仕事や、
アシスタントのお仕事をして
生計を立てていました。
- 伊藤
- ファッション雑誌でよく見かける
「パリのおしゃれスナップ」みたいな?
- 前沢
- まさしくそうです。
ほかにもセレクトショップのコーディネーターを
やらせてもらったり‥‥。
そんなある時、先輩デザイナーが
パリに来て、私の現状を見て、
「君は何しにパリに来たの?」
って言ったんですよ。
というか、すっごく怒られました。
「生活をしていくためのお仕事がいただける、
それはもちろん素晴らしいことだけれども、
君は、じゃあ、そのままでいいのか?」って。
- 伊藤
- 「洋服をつくりたかったんじゃないのか?」
みたいなことですよね。
- 前沢
- はい。たぶん私が悩んでいたのを
察してくださったんだと思うんです。
そして、コーディネーターのお仕事も
すごくプロフェッショナルですから、
中途半端な気持ちであれこれやるのは、
どうなんだ? ということでもありますよね。
それで叱られて、言われたんです。
「とにかくブラウスを10枚つくりなさい」
- 伊藤
- その先輩って、何者? すごいですね。
- 前沢
- デザイナーの方です。
もう引退されているんですけれど。
- 伊藤
- 男性ですか?
- 前沢
- 男性です。
- 伊藤
- 大先輩なんですね。
きっと心配なさったんでしょう。
その方から、10枚のブラウスを作りなさいと‥‥。
それをどうしようと?
- 前沢
- 「とにかく、つくれば、俺が日本でなんとかする」と。
いきなりだったので「え?」と言ったら、
「ブラウスだったら自分で縫えるよね?」
「生地はどうすればいいんですか?」
「生地は問屋で買ってくればいいじゃないか」。
もう作るしかなくなって、
マルシェ・サンピエール(Marche St-Pierre)という、
パリの生地屋街で生地を買って、自分で縫いました。
- 伊藤
- すごいことですよ。
- 前沢
- でも、わからないんですよ、
「なんとかするって、どういう意味?」
って(笑)。
- 伊藤
- それもそうですよね(笑)。
- 前沢
- それが1994年の秋冬のことでした。
出来上がったブラウスを
日本の先輩のところに送ったら、
セレクトショップ向けのインポーターの展示会に
出してくださったんです。
- 伊藤
- へぇぇ。
- 前沢
- それで、ほんの少しですけれど、
オーダーをいただくことができました。
- 伊藤
- すごい。その先輩のおかげで、
パリに暮らしながら、
日本でデビューしたんですね。
- 前沢
- でも、大慌てですよ。
どうしよう、オーダーがついちゃった、
つくらなきゃ! って。
そんなことの繰り返しが、
5年間ほど、ありました。
- 伊藤
- その5年の間は、順風満帆だったんですか?
- 前沢
- いえいえ、もう、大変なことばかりです。
- 伊藤
- ‥‥ですよね。
ブラウスだけ?
それを日本で販売していたんですか。
- 前沢
- いえ、ブラウスだけじゃなくて、
パンツ、ワンピース、
コート、ジャケットなどのサンプルをつくり、
そのサンプルを担いで、もう今はない、
パリのレアール(Les Halles)の
すてきなセレクトショップに持っていったり、
ロンドンに持っていったりしていました。
そこでオーダーを受けたら、量産です。
その先輩からパリ近郊の工場を紹介していただいて、
そこに依頼するんです。
- 伊藤
- 前沢さんのパリ時代、すごいですね。
忙しい!
- 前沢
- でも、すごく楽しかったんですよ。
いろいろな経験と出会い、そして
友人たちもいろんな目標をもっていて、
毎日励まし合っていました。
ただ、あまりのたいへんさに、
「もうこれは続かないな」と思うに至りました。
自分でつくるには資金が底をつき、
2000年、日本に帰国することに。
- 伊藤
- そうだったんですね。
そこからは、どんなふうに?
- 前沢
- 誰かの役に立ちたい、と、
デザインオフィスを立ち上げ、
数社の企業からの契約をいただいて、
デザイン活動を始めました。
約15年間、その契約のお仕事を
やらせていただいていました。
- 伊藤
- 一つのブランドに絞って専属になるのではなく、
いろんなところからお声がかかったんですか。
- 前沢
- そうですね。
日本に戻ってきた時、30代半ばでした。
もう正社員としてはなかなか難しいと言われ、
自分でも専属デザイナーというイメージがつかめなくて、
「さあ、どうしよう」っていう時に、
その先輩が紹介してくれたインポーターが、
私がブランドを辞めて日本に来るんだったら、
オリジナルラインを業務委託で仕事をしてもらえないかと
オファーをくださったんです。
ありがたかったです。
その後、数社からお声掛けをいただきました。
その仕事がだんだん忙しくなり、
ひとりじゃできなくなって、
アシスタントやアルバイトを雇い、
4人でやっていた時もありました。
- 伊藤
- じゃあ、日本に帰ってきてからも、
経済的には安定したけれど、
あいかわらず大忙しみたいな?
- 前沢
- はい、大忙しでした。
海外ブランドの日本用ライセンスラインのお仕事も
やらせていただいていました。
パリ、ロンドンに、年に3回位出張し、
MDとともに先方のApproval Meeting(承認会議)に
出席していました。
その仕事を紹介してくれた方は、
「前沢は、外国人慣れして、
度胸もあるし、行けるよな?」みたいに言うんですよ。
私も「まあ、それは大丈夫だけど」って(笑)。
- 伊藤
- すごい。たしかに度胸がありますよ。
それが、いつまで続いたんですか。
- 前沢
- 2013年まで、忙しい状態でした。
- 伊藤
- すごいことですね。
外国でビジネス的な会議にも
出られていたって。
- 前沢
- 現地では、ずいぶんしごかれましたけど(笑)。
「君は私達の文化のこと、わかっていない」って。
「いや、わからないですよ、私?」みたいな応酬。
- 伊藤
- それはそうですよね。
- 前沢
- 「だって、イギリス人じゃないもの!」
「じゃ、君はフランス向きだな!」
「いやいや、私、日本人です!」みたいな。
今では笑い話です。
- 伊藤
- すごい(笑)。
- 前沢
- そうこうしているうちに、
2011年、東日本大震災が起こり、
それを機に、私が大切にしていたアシスタントが
結婚をして東京を離れる事になりました。
もちろん喜んで送り出しつつも、ひとりになり、
「さあ、どうしよう」。
そこで、それまでの仕事を、
彼女に引き継いでもらい、
私は一回、ひとりになって、今後を考えようと。
その時40代後半でした。
そこからです、L’UNEの立ち上げに動いていくのは‥‥。
(つづきます)
2023-02-05-SUN