「weeksdays」はじめての「食品」ができました。
かりっとしたやさしい味の、スプーン型のクッキーと
うんとおいしいジャム3種類が入った、缶入りセット。
いっしょにつくってくださったのは、
なんと、あの、DEAN & DELUCA(ディーンアンドデルーカ)です。
ニューヨークで1977年に誕生し、
日本にやってきて15年の、大人気ショップ。
知っているようでいて、
考えてみるとあんまりよく知らなかったDEAN & DELUCA、
日本のチームを率いる横川正紀さんにお目にかかり、
伊藤まさこさんがインタビューをしました。
たっぷり、全5回で、おとどけします。
横川正紀さんのプロフィール
横川正紀
1972年東京都生まれ。
DEAN & DELUCAを日本で運営する
株式会社ウェルカムの代表。
京都精華大学美術学部デザイン学科建築専攻卒業後、
インテリアショップ「Pier 1 Imports」を経て、
2000年に株式会社GEORGE’S FURNITURE
(現・株式会社ウェルカム)を設立。
2001年「CIBONE」をオープン、
2003年日本の「DEAN & DELUCA」をスタート。
その3紆余曲折の船出。
- 伊藤
- ニューヨークのDEAN & DELUCAは、
最初から今の場所にあったんですか?
- 横川
- 1号店はソーホーなんですけれど100坪ぐらい、
いまのミッドタウンにある六本木店ぐらいの
大きさだったんです。
それが今、4倍ぐらいの面積になっています。
ブロードウェイに面して今の場所に移動したのが
創業して10年後のことだったそうです。
- 伊藤
- そうなんですね。
- 横川
- 当時、ロケーション的にもソーホーが
ドッと世界的に注目されはじめていた。
だからロケーションもタイミングも
いろんなものがバチッと合って、
一気に話題になったんです。
1軒のグローサリーが世界中に知れ渡った。
すごいことが起きたんですよ。
- 伊藤
- 本国から日本出店の話を持ってきてくださったとき、
彼らはどういう状況だったんですか。
つまり海外進出をすでにしていて、
次は日本にも、という状況だったのかしら。
- 横川
- いや、海外進出もしてなかったですし、
その時点でも本当は
するつもりもなかったそうなんです。
いまだってDEAN & DELUCAは
アメリカに6軒しかありません。
中でも、ソーホーと、ナパのお店を知ってる人はいても
それ以外はほとんどどこにあるかも知らないくらい。
- 伊藤
- え?(笑)
- 横川
- DEAN & DELUCA本体は
日本に進出するつもりがなかった。
でもその商社の、アメリカ駐在員が、
すごくやんちゃな人で、
DEAN & DELUCAが大好きで、
これをなんとか持ってきたいって思ったんです。
その商社は主に繊維が強い会社だったんですが、
「これからは絶対、食だから、
絶対日本に持っていきたい」と、
DEAN & DELUCAの当時の社長を口説いて、
「そこまで言うならば」みたいなふうに
とくに準備がないことも承知でOKをもらった。
そのときの条件が
「食べ物屋であること」だったんですね。
でも有難い話でしたが、
ぼくらはそんなことができる規模も経験も
なかったわけです。
- 伊藤
- それでお父さまに相談を?
- 横川
- そうなんです。
父も外食の次に
ライフスタイルが大切だと考えていたので
話を聞いた途端に「やろう」と一つ返事だったんです。
ぼくはどっちかというとその当時
まだ家具屋のほうが大変だったので、
「手伝うよ」ぐらいの気持ちだったんです。
「とうさんがやったら? 規模が違うから。
商社とか、わかんないし」って(笑)。
ところが、ありそうで無かったこの業態は
想像以上に難しくて、
立ち上がって半年で私が引き継ぐことになったんです。
名も無き家具屋のぼくらが
巨大な商社と合同で会社をつくることになりました。
それがDEAN & DELUCA JAPANです。
- 伊藤
- ようやく船出。
東京の1店舗目は‥‥。
- 横川
- 丸の内です。
新丸ビルがまだできる前の、
仲通りがまだオフィス街だった頃の丸の内で
カフェをはじめました。
その半年後に渋谷の「東横のれん街」という、
日本で一番古いデパ地下の発祥といわれる
本当に老舗しかいないような
屋内の食品街に2軒目。
3軒目が、品川ですが、
まだ新幹線の駅が開通する前の港南口です。
- 伊藤
- 当時の品川駅の港南口は、
いまとはぜんぜん違う、
殺風景とも言えるくらいの印象でしたよね。
そこに!
- 横川
- そんなとんでもないとこに店を開けたので、
最初、全然お客さんは来ませんでした。
でも、今になってみると、
ありがたくいただいた場所だったと思います。
- 伊藤
- 場所は、どうやって決めたんですか。
丸の内も品川も、いまの活況を見据えて?
- 横川
- それが一流商社のすごいところなんです。
そこに出そうと提案してくれた
先見性はすごいなと思います。
丸の内やJRが考えていること、
10年先ぐらいを見据えた開発のことをわかっていた。
今やみんなが出店したいっていう場所に、
いいご縁でそのままいさせていただいてるので。
- 伊藤
- そんな3店舗の立ち上がりは
順調な立ち上がりだったんですか?
- 横川
- いやいや、とにかく大変でもう火の車でした。
家具屋を当時15店舗ぐらいやってたんですけど、
その全利益を回しても回らないぐらいの赤字経営でした。
3店舗しかないのに。
- 伊藤
- 多分、DEAN & DELUCAのようなお店を
待っていた人は多いと思うんです。なのに‥‥。
- 横川
- そうなんです。
待っていてくださったかたは多かったんですけど、
場所が丸の内の果てのほうと、
新幹線が停まっていない品川でしたから。
のれん街は売れていましたが、
その2店舗は全然ダメ。
とくに大きな品川が一番厳しかった。
でも、立地ということだけではなく、
ぼくらが本場のDEAN & DELUCAに憧れ過ぎて、
ニューヨークのまんまやろうとしたことが、
ダメだったんだと思います。
- 伊藤
- 「まんま」というと?
- 横川
- イタリア系アメリカ人が
ニューヨークで感度の高い人びと向けに
選んだものをそのまま持ってきたわけです。
例えばコーヒーはそもそもサイズが大きいし、
アメリカから2か月もかけて船便で来るので、
鮮度も落ちている状態でした。
惣菜は「グラム」じゃなく「パウンド」で量るし、
POP(展示する説明文)は全部英語。
当時は野菜も肉も魚もやったんですけど、
肉はそれこそ鳩が羽毛をむしられた状態で並んでて。
- 伊藤
- その記憶、ないなあ!
- 横川
- ほんとうに最初の頃ですね。
ジビエがへっちゃらで並んでて、
魚も切り身じゃなくて、
一尾ずつダーッと並んでて。
- 伊藤
- あ! それは覚えています。
格好いいけど買いにくいんですよね(笑)。
- 横川
- 今だったら、みんなに
インスタグラムにあげてもらいたいくらい
格好よかったんですよ。
でもね、ぼくが建築出身だったので、
そういうところから入っちゃったのかも。
やり過ぎちゃった。
それこそ料理する人からしたら、
「どうすんの、この鳩」みたいな(笑)。
- 伊藤
- それに、量も多い。
- 横川
- やっぱり食生活もリズムも、
コーヒーだって飲む量も頻度も全部違うのに。
好きか嫌いかといわれたら好きだけど、
アメリカ人が飲むほどの量は飲まない。
かつ鮮度に対してはもっと敏感。
となったら、量を小さくして、
単価も下げて、買い回ってもらわないと。
「この大きいのがアメリカっぽくていいよね」
って言ってるのは旅行してるときだけで、
普段の生活はそうじゃないよねって。
- 伊藤
- そうです。持て余しちゃったりとかするし、
毎日コーヒー飲みたい方は
半分の値段で2回に分けて買うほうがいいですもんね。
- 横川
- そうそうそう。そんなことをちょっとずつ
調整していきました。
最初はコーヒーを変えて、お塩の量り売りを始めて、
そのうち、今回、一緒につくらせていただいた
ちいさなサイズのジャム瓶が生まれたんです。
そうそう、その日本発のコーヒーですが、
トーキョーブレンドという、
ピンク色のパッケージだったんですね。
これまたすごく揉めたんです、アメリカと。
シルバーかブロンズか黒か白、
それがブランドカラーなのに、
東京は「ピンクだ」って。
なぜかというと「桜だから」。
海外の人が東京に来たときに、
逆に東京のお土産として買って帰ってうれしいねって。
これが思った以上に売れたんですよ。
アメリカから輸入したコーヒーはみんなでかいのに、
トーキョーブレンドだけちっちゃくて、
ほかは全部ホールビーンなんですけど、
それだけ挽いてあってすぐに使えるし、
日本でローストしているから当然フレッシュで。
その経験で「ああ、やっぱり」となって、
コーヒー豆のシリーズのサイズを
全部小さく変えました。
- 伊藤
- そこからは、事業は上向きに?
- 横川
- いえ、まだまだでした。
ミッドタウンにある六本木店ができたのが
それから5年後なんですけど、
全然うまくいかなくて、
デルーカさんに会いにニューヨークに行ったんです。
「日本でうまくいかないんだけど、
何故なんでしょう」って。
すると彼はこう言ったんです。
(つづきます)
2019-01-28-MON