「weeksdays」ではじめてあつかう、
塗師(ぬし)田代淳さんのつくる、漆のうつわ。
この「そば椀」は、
田代さんが漆の勉強をはじめて2年目の夏につくり、
コンペで賞をとり、そこからおよそ
28年もつくりつづけてきた「最初の作品」です。
つくっていても、使っていても飽きることがないという、
漆器の魅力について、たくさん話をうかがいました。
田代さんは、伊藤まさこさんが学校を出たばかりで、
スタイリングの世界に入る前の
アルバイト時代の先輩であり、
いま習っているという「漆継ぎ(金継ぎ)」の
先生でもあるんですって。

田代淳さんのプロフィール

田代淳 たしろ・じゅん

塗師(ぬし)。
塗りものと漆継ぎ(金継ぎ)を行なう。
1970年、神奈川県生まれ。
岩手県盛岡市在住。
1991年に女子美術短期大学卒業後、
雑貨店の和食器バイヤーを経て漆の世界に入る、
安代漆工技術研究センタ-修了、
岩手の研修所での指導職を経て、
2010年岩手県盛岡市で
「うるしぬりたしろ」として独立。
お椀などの漆製品を制作するかたわら、
わんこそばや片口などをモチーフにした
漆のブローチなども手掛ける。
東京や神奈川、岩手など複数の「漆継ぎ」教室で
漆の魅力を伝えている。

■Instagram
■「うるしぬりたしろ」
■Facebook
■冊子『漆でなおす』

01
売り手からつくり手へ

伊藤
田代さんとは、かれこれ、
30年のおつきあいになりますね。
田代
そうなんですよ。古い仲です。
伊藤
田代さんが青山の大きな雑貨店で
正社員として働いていたとき、
わたしが3か月だけ、
アルバイトで入ったのがご縁でした。
22歳だったかな、わたしは学校を卒業して、
これからどうしようかなと
思っていたときでした。
田代
人の出入りが多いお店でしたが、
まさこさんとは、辞めたあとも、
こうしてずっとお付き合いがあって。
世代が近かったし、
上下関係もなく仲良くしていましたね。
伊藤
わたしは、スタイリストのアシスタントになる
伝手ができたことで、
お店を辞めたんです。
田代
そう、辞めてすぐぐらいに、
撮影用のモノを借りに来ていた。
伊藤
田代さん、和食器担当のバイヤーでしたね。
田代
そう。入ってすぐの私でも、
仕入れを任せてもらえるような、
おおらかな時代だったんです。
和食器を担当したのも、
割り振られたからなんですよ。
伊藤
でも、すごく詳しかった。
田代
詳しくならなきゃいけなかったんですよ。
伊藤
勉強をなさったんですか。
田代
勉強というか、和食器のことが知りたくて、
休みの日に原宿のZakkaや
六本木のサボアヴィーブルなど、
作家ものを扱うような
有名店に見に行っていました。
伊藤
田代さんが揃えた棚、ほんとうに素敵でしたよ。
わたしは3か月で辞めてしまったんですが、
田代さんは3年くらい? いらっしゃいましたね。
田代
そうです、3年です。
そのうち、自分が扱っている漆器について
考えるようになって。
「もっといいものを」ということですね。
お店では産地で作っている量産のもので、
手ごろな価格帯のものがメイン。
いくら好きに仕入れていいとはいえ、
価格帯が高めのものは扱うことができなくて。
でも、他のお店には、作家ものを含め、
そういうのもあって、
ちゃんと求めてくださるかたがいるのにって。
伊藤
そんなモヤモヤが?
田代
そうなんです。そしてたまたま
旅行で盛岡に行った時、
器を売る仕事をしているのならば、
ここのお店は行った方がいいよと、
仕入れ先の方に勧められたのが、
光原社っていう盛岡の民芸品店でした。
そこは漆器に力を入れていて、
お椀がたくさんありました。
その塗り物がすごく素敵で‥‥。
無地で、ピカピカもしていないんですよ。
蒔絵とかもない、岩手県北の塗りもの、
浄法寺塗安比塗りだったんです。
すごくそれがよくて。
こういう本物を売る店で働きたい! と思って、
「求人はありますか」って問い合わせたんです。
伊藤
そうだったんですね。
田代
そうしたら「今、採っていません」。
がっかりしていたら、
そのお店を紹介してくれた知り合いが、
私が見ていいなと思った器は
ある漆の研修所で作られていると教えてくれたんです。
伊藤
その方は、いったい、どなただったんですか。
いろいろ教えてくださった方は。
田代
父の友人です。
デザイナーで、
地場産業とつながった工芸の仕事を
なさっていたんですよ。
それで、岩手の安代(あしろ)っていう、
安比高原スキー場があるあたりにある
研修所に行ったんです。
そこは昔、荒沢漆器というのがあった地域なんですが、
昭和30年代に産地として一回途絶えてしまった。
それを町おこしみたいなことで、
昭和50年代に復活させたんですね。
その時つくった研修所でした。
当時、私は漆のことを何も知らなかったんですが、
2年通ったらお椀が作れるようになるよと聞いて。
過疎の町だから若者の定住化、
またゆくゆくは小さな漆器産地になることを目指して
全国の誰でも受け付けます、というときでした。
その年の1月の末に研修所を知り、
見に行ったのが2月のあたま、
そうしたら「4月から来たら?」と言われて。
「じゃあ、来たいです!」と、すぐ東京に帰って、
「3月いっぱいで辞めたいんですけど」と、
お店を辞めて、行くことにしたんです。
伊藤
すごい行動力。
ご両親はなんと? 
横浜生まれの横浜育ちの子が、
いきなり岩手の漆の研修所に行きますだなんて、
驚かれたんじゃないですか。
田代
「いいんじゃない」って言ってました。
両親が岩手出身なんですよ。
とはいえ宮古で沿岸地域で、
安代とはずいぶん離れているものだから、
岩手の祖母は「なんで、淳はあんな雪が
いっぱいあるところに行くのか」と
驚いていましたけれど。
伊藤
それで丸2年?
田代
はい、2年でひと通りの工程を習いました。
でもやっぱり2年で自立できるほどは
覚えられなかったんですよ。
ですから、その後3年半ぐらい、
同じ場所で修業をさせてもらいました。
今はわりと人気なんですけど、
その頃はそんなに研修生が次から次へと来なかったので、
研修所にも少し場所の余裕があって、
「急にひとりじゃできないから、
少しいさせてください」ってお願いして。
仕事は、研修所が下請けの作業を
用意してくれたので、
それをやっていましたね。
伊藤
そういう収入もあったんですね。
しかも研修所を自分の工房として使えた?
田代
といっても、塗師の仕事で一番高価な機械である
「研磨ろくろ」は、自分で買うようにと。
研修所にも研磨ろくろはあるけれども、
まず自分で買うのが独立の第一歩だったんです。
それでローンを組んで、研修所の木工場の2階に
私のスペースを確保してもらって、
そこにろくろを置いて、作業をさせてもらいました。
伊藤
それは幸運。
田代
研磨ろくろは結構音が大きいので、
当時住んでたアパートでは
使えなかったんですよ。
だから間借りしての作業でした。
伊藤
下請けってことはパーツ的な仕事、
ここの作業をお願いね、
みたいな感じだったんですか。
田代
そもそも、
ベースとなる形は木地屋さんがつくるんです。
だから私は漆を塗るのが仕事でした。
それも仕上げの手前の段階まで、
「中塗り」と呼ばれる工程までを
担当するんです。
その研修所では、さらにそれを先生が上塗りして、
仕上げて、製品として出すんです。
伊藤
研修所に行く前、田代さんが
「いいな」と思っていた、
まさにその器をつくっていたんですね。
そして3年半がたち、独立を?
田代
そうなんです。
そろそろ、自分でもできるようになってきて、
漆が面白くなってきたところで、
独立を決めました。
どこにいてもできる仕事ではあるので、
東京のほうに引っ越そうかと。
いちど岩手から離れてみるのもいいのかな、
という思いもあったんです。
‥‥という話を先生にしたら、
「お前は怠け者だから、漆で食べていけない分、
アルバイトでカバーするだろう、
そうすると楽な方、楽な方に流れて、
漆じゃなくてバイトで食べていくようになる。
だから漆を続けられる環境に身を置け」
と、強く言われました。
伊藤
先生も、きっと、
いろんな人を見てきたんでしょうね。
田代
そうかもしれません。
そしてたまたまそのタイミングで、
山形の真室川(まむろがわ)というところに、
私が行っていた安代の研修所を
モデルにしてつくった漆の研修所に
勤めている人が辞めてしまうというので、
役所の人が困っていると相談に来たんですよ。
そうしたら先生が、
「ちょうどいいのがいます」(笑)。
伊藤
すごーい。
真室川って、どんなところなんですか。
田代
山形のいちばん北の方なんですけれども、
『真室川音頭』ってご存知ですか。
ある程度の年齢の方だと知っている、
民謡なんだけれど、三橋美智也が歌って
流行歌にもなった歌があるんですが、
それで有名なところなんです。
林業が盛んで、
もともと漆器がない土地だったんですけれど、
昭和50年代あたりに漆の木を植えようと
林野庁の呼びかけがあったんですね。
漆の木を植えるなら助成金を出す、って。
それで日本全国いろんな土地で
漆の木が植えられたんですが、
真室川でも、植えたんですって。
というのも杉を植えても
お金になるのは孫の代だけど、
漆の木だったら15年ぐらいで
漆が採れるようになるから、早く儲かる。
それでいっぱい植えたんです。
漆が採れるようになるならば、
漆器を作る場所も町で作ろうというので、
私の研修した八幡平市漆工技術研修センターをモデルとして
「真室川町うるしセンター」ができました。
けれども職人さんがいないから、
私のいた安代から人を派遣していたんですが、
その人が辞めてしまう、と。それで先生は、
「あそこに行くと、月に幾らもらえるらしいぞ」と、
私に勧めたんです。
すごく立派な施設だし、そこで3年働いたら、
貯金が出来るぞという話をされて。
それで「そういうのもいいかな」って、
3年の約束で山形に行き、
研修生に教えながら、
商品を作る仕事を始めたんです。
それで、3年のつもりが、
11年いることになりました。
伊藤
その研修所をベースに11年!
生徒に教えつつ、
ご自分のこともなさりながら?
田代
そうなんですよ。
私が入った時に、
すでに商品はあったんですけれど、
前の人が作ったものじゃなくて、
自分で真室川用のものをと、
企画して作りました。
それを仕事にしていました。
伊藤
どんなものをつくられたんですか。
田代
四寸のお椀と、
それより一回り小さい三寸八分ぐらいのお椀、
ほかにも菓子皿とか、
そういうのをひと通り作って、
「真室川漆器」という名前で、
山形県内で売ったんです。
その中に、当時私の定番としてつくっていた
このそば椀を、ラインナップに入れました。
これ、安代の研修所の2年生のときに、
私が自分のものとして
いちばん最初につくったものだったんです。
伊藤
その当時から、
このそば椀はあったんですね。
田代
そうなんです。
(つづきます)
2023-12-03-SUN