本の話をしたくて、
「ほぼ日の学校」の学校長である
河野通和さんと、神田神保町で待ち合わせをしました。
世界一の古書店街と言われる街をぶらぶらして、
いくつかの古書店をめぐったあと
(お買い物もしましたよ)、
「自家焙煎珈琲 神田伯剌西爾(ぶらじる)」で
コーヒーを飲みながらの、おしゃべり。
夏休みにゆっくり本を読んでみたくなる、
そんな対談になりました。
河野通和さんのプロフィール
河野通和
1953年、岡山市生まれ。編集者。
東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業後、
1978年、株式会社中央公論社(現・中央公論新社)入社。
雑誌『婦人公論』『中央公論』の編集長を務める。
2008年、株式会社中央公論新社退社。
2009年、株式会社日本ビジネスプレス特別編集顧問就任。
2010年、株式会社新潮社入社、
『考える人』の編集長を務める。
2017年3月、『考える人』休刊とともに
株式会社新潮社退社、「ほぼ日」取締役に就任。
現在「ほぼ日の学校」学校長として多忙な日々をおくる。
その2 サッカー少年の挫折。
- 伊藤
- 大学を卒業されてから
編集者になられたわけですが、
10代のうちから、そうなりたいと
思っていらしたんですか?
- 河野
- そのゴールは、決めていなかったですね。
大学のときに、改めて本と出会ったわけですが、
それをどういうふうに職業として具体化していくか、
というイメージはなくて。
大学‥‥6年いたんですよ。
- 伊藤
- あら?!
- 河野
- 勉強が好きだったので‥‥本当ですよ。
それに、長くいたからといって怒られるところでもない、
とわかったので、ちょっと長めにいたんです。
でも、将来の選択肢は、そんなに多くなくて。
文学部だったし、学者になる道も考えました。
でも学者というのは、ひとつのことを、
コツコツ、コツコツやっていく仕事ですから、
向いてないと、ハッキリ思ったんです。
ではどういう仕事がいいのかな? と考えていたときに、
たまたまある雑誌で、中央公論の編集長が
仕事日記を連載しているのを読みました。
そこには彼の日常が書いてあって、
おもしろい本に出会うと、
著者を訪ねてあちこちへ行くんです。
うらやましくてね。
そこで話をしたことが翌月のプランに生きて、
会った人の著作にも反映されていくんだと知り、
そういう職業があるんだ、それが編集者なんだ、
ピーン! と思ったんです。
それで中央公論社っていうところに入りました。
- 伊藤
- いきなり、編集者に?
大学のときは‥‥。
- 河野
- サークルみたいなところで、
雑誌をつくってはいました。
何も知らないのに、最初から編集長で。
というのも、先輩がいなかったからなんですけれど。
- 伊藤
- 先輩がいないということは、
サークルを立ち上げたんですか。
- 河野
- 芥川賞作家も輩出していた由緒ある文学研究会が、
大学紛争で休眠状態になっていたんです。
でも、部室もあるし、名称も残っていた。
だから、それを復活させれば、誰かと集まって、
ダベったりするのに部室を使えていいな、と、
そんな考えで大学に申請したら、通ってしまった。
けれども
「有名無実じゃ困るので、
部としての活動を示してください」
って言われたんです。
「何をすればいいですか」
「たとえば同人誌をつくるとか?」
「じゃあ、つくります!」
みたいな形で、いきなり雑誌をつくることになりました。
どうやってつくるんだって、誰もわからないんです。
「誰か原稿書けよ!」
「書くやつ、いないよ」
「じゃあ、俺が書くか」
って。
- 伊藤
- どんなものを書かれていたんですか。
小説を?
- 河野
- 小説を書く自信はなかったですよ。
エッセイとも評論ともつかないものかな。
- 伊藤
- 河野さんは、大学紛争の世代よりは‥‥。
- 河野
- ちょっと下です。
なので文化系サークルも紛争でほぼ休眠状態。
僕よりちょっとあとに、野田秀樹さんたちが出てきて、
あらたに演劇活動を始めます。
僕の頃は、学生紛争の名残で、
内ゲバなんかもあったり、陰惨な感じがありました。
- 伊藤
- その状態をどう思われたんですか。
- 河野
- 「何をやってるんだ?」と思ってました。
学生運動そのものが形骸化して、
セクト対セクトの憎しみだけが
残っているみたいでしたから。
いっぽうで、僕の属していた語学クラスは、
吹き溜まり中の吹き溜まりみたいなところで、
そっちのほうが、おもしろかった。
- 伊藤
- 吹き溜まりって‥‥、東京大学ですよね。
- 河野
- そうなんですけどね、同級生20人で、
10人が女性なんですよ。これも珍しい。
しかもそれぞれが、かなりの個性派ぞろい。
10人の男も、僕が最年少。
大学に現役で入って来て
何も知らないっていうのは僕だけでした。
一番すごかった人は、昭和5年生まれで、
僕が28年生まれですから、23歳年上でした。
彼は中学を出て炭鉱で働いて、
そのうちいろんなことがあって
炭鉱の仕事に見切りをつけ、
そこから調理師をめざすんですよ。
調理師免許を取って、調理人になって、
料理本を出そうとしたのだけれど、
いくら自分ががんばっても、
人においしいところを持っていかれたりして、
そのことに彼はすごく憤ったんです。
そして、自分に学歴がないからだ、悔しい、と、
検定で高校卒の資格を取って、受験勉強をして
入って来たっていう人でした。
- 伊藤
- すごい‥‥。
- 河野
- 日活ロマンポルノの俳優をやっていた、
っていう男もいたんですよ。
- 伊藤
- !!!
そんな刺激は、高校を卒業したばかりの
十代の男の子には‥‥。
- 河野
- もう、目が点になるわけですよ。
それから、もう、とにかくね、
見てくれからしてすごいやつがいて、
風体はミック・ジャガーみたいなんだけど、
小さいときに病気をして、足に障害がありました。
そいつがギターをかき鳴らして、
吉田拓郎の「人間なんて」なんかを歌うと、
もう誰も文句の言えない迫力だったんです。
さらに、1年、2年上の学年から
落っこちてきているのもいる。
そういうのが、ひしめいてるクラスでした。
そんな中にいるとね、
タテカン(立て看板)の前でがなってるやつらのコトバが、
本当に子どもっぽくて空々しく聞こえてしまうんです。
- 伊藤
- その時代、河野さんが、
本をまた読もうと思ったきっかけは
何だったんですか?
- 河野
- 一番のきっかけは──、
そもそも、僕は高校に入ったとき、
将来就きたい職業は全日本サッカーチームの監督、
って書いたぐらいのサッカー少年だったんです。
それから高校3年になる昭和46年かな、春休みに、
当時の全日本のサッカーチーム、いまでいう日本代表が、
海外チームとの対戦を前に合宿をやります。
それを見たいと思ったんだけれども、
いまみたいに、インターネットも何もないから、
どこでやっているのかもわからない。
そうだ『サッカーマガジン』の編集部に
行けばわかるだろうと、
岡山から東京に出てきて、
神保町の近くにあった
ベースボール・マガジン社を訪ねるんです。
これが世に聞く神保町かと思って歩いたのを覚えています。
そして、練習場所を教わって、
その足で久我山にあったNHKグラウンドで、
代表チームの練習を見ます。
そこで当時の全日本のコーチや監督と
はじめて話をするんですよ。
それから、まだ
原宿と渋谷の間の岸記念体育館にあった
日本蹴球協会を訪ねて、
いろいろ資料をもらったりして帰ります。
そういう青春期なんですよ。
そうして大学に入ると、
僕の1年上の高校時代の先輩が
サッカー部に入っていたので、
有無を言わさず練習に来いって言われて。
- 伊藤
- ええ。
- 河野
- 岡山県大会で優勝してインターハイに出たこともあって、
最初からきつい練習メニューでした。
たちまち入学後の健康診断で血尿、
要再検査といわれたんですが、
その頃は血の小便が出て一人前、みたいな、
そういう時代です。
こんなもんだと思いながら、やっていたんですね。
ところが、さすがにからだの調子を悪くして、
1カ月、入院しちゃうんですよ。
さらに悪いことに医療ミスが起きて、
七転八倒してるところに
高校のときのサッカー部のマネージャーが来て、
僕のあまりの苦しみように
「河野君が死んじゃう!」って大騒ぎして、
高校サッカー部のみんなが順番に
見舞いに来たぐらいだったんです。
- 伊藤
- そんなドラマが‥‥。
- 河野
- 病院から出たときはフラフラ。
幽霊のようになって、
みんながサッカーをやってるのを見て、
どうしてもそこに戻ろうっていう気持ちが
自分の中に湧いてきませんでした。
ああ、自分は、そこまでサッカーを好きじゃないんだな、
これが才能の限界だなって、思ったんです。
それで、いずれ読もうと思っていた本の世界へ、
よしっ‥‥、と。
切り替えたら、今度はそっちに一直線。
そこからはね、もう、下宿にこもって、
夜じゅう起きて本を読んで、朝になって寝る、
そんな生活が始まりました。
- 伊藤
- 何を熱中してお読みになったんですか。
- 河野
- そうだな‥‥最初に熱中して読んだのは
『安部公房全集』でしたね。
同時に日本の近代文学は
ちゃんと読んでおかなきゃと、
主だった作家の全集を順番に読んだんです。
だから、安部公房のような現代文学、
それから外国文学、3本立てでどんどん読みました。
magnif
(つづきます)
2019-07-10-WED