怪録テレコマン! hiromixの次に、 永田ソフトの時代が来るか来ないか?! |
第51回 横尾忠則さんの展覧会を観た 横尾忠則さんの展覧会に行って来た。 行こう行こうと思うまま日が経って、 どうやらもうすぐ終わりだというので 慌てて東京都現代美術館まで行って来た。 先日会った友人が展覧会を観ていて、 「1日じゃ絶対観きれない」と言っていた。 その日はほかに予定もあって 時間に余裕があるとはいえなかったけれど、 どうやらもうすぐ終わりだというので とにかく東京都現代美術館まで行くことにした。 駅から15分ほど歩く。 左手の街道をびゅうびゅうと車が行き交い、 右手の公園には悠々と緑が茂る。 秋の高い空に見事な雲が気持ちのよい模様を描いている。 横尾忠則さんの作品ときちんと出会ったのは 大学生のころである。 僕は荻窪に住んでいて、 駅前のレンタルビデオ屋でアルバイトをしていた。 地方から上京した多くの大学生がそうであるように、 僕は自分がひどくものを知らないような気がしていた。 それで荻窪に住んだ何年かのあいだ、 とにかく僕は知識を吸収しようと努めていた。 中古CDを買い漁り、バイト先から無料でビデオを借りて、 無理に本を読み、週に一度情報誌を必ずチェックした。 いま思い返すと当時のそれはなかば強迫観念じみていた。 何もそんなにぎゅうぎゅう詰め込むこともないのにな、 といまとなっては苦笑するほど無鉄砲な勢いがあった。 もちろん、その無鉄砲な吸収が いまの僕の血肉となっていることに疑いがない。 無鉄砲な時期に僕はやはり多くの人と出会い、 それは絵や音や本や映画と同じように僕の血肉となっている。 たとえば尊敬する書家の女の子がいて、 当時彼女は荻窪に住む画家とつき合っていた。 僕と彼らはしょっちゅうその画家の家で過ごした。 一晩中馬鹿馬鹿しい話をしたり、 美味しい料理を食べたり、 それは駄目だと言い合ったりした。 画家の家には横尾忠則さんに関する書籍がたくさんあった。 話や料理の合間に僕はそれを何度も眺めた。 画家は部屋の照明を点けることがなかったので、 仄暗い間接照明の灯りを頼りにそれらを何度も眺めた。 いま画家と書家がどうしているかわからない。 駅前のレンタルビデオ屋はつぶれて TSUTAYAになってしまった。 美術館の前には何人かの女子高生が集まっていた。 通り過ぎるときにこんな言葉を耳にした。 「美術館代とかさ、学校が出すべきなんじゃねえの?」 女子高生のひとりは見事な男言葉で不満を告げていた。 訴えられていたのはひょろひょろとした若い男の先生で、 失礼ながら完全に生徒に押されていた。 「いや、学校全体で観るなら学校が払うんだよ……」 引率担当の美術教師らしき彼は頼りなく弁解していた。 入口でパンフレットをもらい、 軽く眺めて展示のだいたいの規模を把握する。 展示フロアーは3階と1階だ。 僕の頭には先日友人が言った 「1日じゃ絶対観きれない」という言葉があったので、 それほどでもないじゃないかと少し思った。 ところが大間違いだった。 ひとつひとつの作品にあるいろいろな量が尋常ではないのだ。 足を止めてさまざまに考えを巡らせ始めると、 誇張ではなく、そこから本当に動けなくなってしまう。 引き込まれて動けないということもあるし、 考えることや発見が楽しくて そこを離れたくないということもある。 僕はいくつかの部屋を回った段階で 簡単に友人と同じ結論に達してしまった。 「1日じゃ絶対観きれない」。 僕は全体の鑑賞をすっかりあきらめてしまった。 あきらめながら、ぼちぼちと気張らず観ることにした。 その日のうちに済ませておきたい用事があったけれど、 これはもう今日は無理だ、と早々に結論を出した。 それでもぜんぜん時間が足りない。 たとえばひとつの絵にどっぷりと浸り、 長い時間をいつの間にかそこで費やしたあとで、 混雑する人の流れに押されるようにようやくつぎの絵に移る。 移った先でまた根を生やしかけるのだけれど、 無理に振り払ってその絵はあきらめることにする。 しかし、意識してふたつほど浅く眺めていると、 その先の絵でついにつかまってまた動けなくなってしまう。 そして僕は猛烈に腹が減っていることに気づく。 強烈な量を伴う展覧会を観るときにいつもこうなる。 もちろん、観て回る距離が長いから 物理的にそうなるということもあるだろうけど、 移動量のせいばかりとも思えない。 いろんなものが込められたいろんな作品を つぎつぎに観ていくと、 僕はまるで燃費の悪い車のようになってしまう。 たぶん、駐車しながらアクセルを吹かしたり、 ローギアのまま坂道を無理矢理上ったりするからだと思う。 僕の知り合いのひとりは、 こういう展示を観ると逆にお腹がいっぱいになって 何も食べられなくなってしまうと言っていた。 方向は反対だが原理は同じだと思う。 観ながら僕はさまざまに考えた。 そこにある風景について考えたり、 そこにある意味について考えたり、 描かれた時代について考えたり、 描かれる手法について考えたり、 過去について考えたり、未来について考えたり、 僕について考えたり、これを描いた人について考えたり、 荻窪に住んでいた画家について考えたり、 仕事について考えたり、宇宙について考えたりした。 お腹がぺこぺこになって当然である。 なんだかいろんなものを得たような、 いろんなものを消費したような、 わけのわからない気分で出口にたどり着くと、 やはり3時間以上が経過していた。 家に帰ってから、ほぼ日に連載されていた 横尾忠則さんご本人による解説をじっくりと読んだ。 僕はすべからく物事の事前情報を入れないようにするので これまであえて読まないようにしていたのだ。 読んでいたらやっぱりまた最初から観たくなった。 もちろん、何度観たところで 全部観終わったという気にはならないのだろう。 けっきょく僕はテレコを回さなかったけれど、 東京都現代美術館の中で印象に残っているのは、 僕の背後で女子高生がつぶやいたこんな言葉だ。 「観るだけで、なんでこんな体力使うんだろ?」 そうそう! と、そのとき僕は心で相づちをうった。 荻窪に住んでいた画家の彼も この展覧会を観に訪れただろうか。 2002/10 東京都現代美術館 |
2002-10-31-THU
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