はじめての中沢新一。
アースダイバーから、芸術人類学へ。

とんでもなく大きい視野のイベントができました!
友人たちが関係者席に座りたがってタイヘンです。
タモリさんと、糸井重里の依頼で、
中央大学教授の中沢新一さんが、登場するんです。

30年間の研究を、徹底的に濃縮し、
糸井重里に邪魔されながら、
タモリさんに突っこまれながら、
旧石器時代から現在につながる人間たちを、
そして未来に向けての人間たちの希望を……
たぶん、目の前に、想像させてくれるはずです。

「対称性、という道具を持って世界を見るうちに、
 自分の思考の中でなにか決定的なことが起きた」

縄文地図を手に東京を歩く『アースダイバー』や
全5巻の大傑作『カイエ・ソバージュ』の内容を、
いい会場、きれいな座席、長丁場で、語りつくす!

イベントがどんなにおもしろくなるか、
想像できそうな、打ちあわせの会話を、
「ほぼ日」では、連載してゆきますね。



「ひとりでイベントにきていたので、
 帰りがけに、会場から出てきた人に
 耳をすませていたのですが、
 ぼくと同じように、みんな、
 興奮がさめやらない状態らしくて……
 すごいものをきいたという熱がありました」

「中沢さんの話は、
 インスピレーションに満ちていて、
 ききながらいろいろなことにピンとくる瞬間があり、
 そのひらめきは一夜明けた今では残っていませんが、
 でもきっといつかなにかの拍子に戻ってきて、
 未来の私に、ふたたび、中沢さんの語り口のまま、
 ガッツあふれるひらめきを与えてくれるのでしょう」

「中沢さんの語りは、
 学問のための学問や情報のための情報でないと伝わり、
 ドキドキさせられっぱなしでした。
 イベントの記念に、
 善福寺川に沿って歩いて帰ってみました。
 荻窪駅から小一時間、
 川沿いに深夜歩くなんてはじめてです。
 下弦の月が、まえに見えたりうしろにいったり、
 ビリビリするような、いけないことをしているような、
 不思議な感覚がありました」

「『自分の中に、神がいる』
 中沢さんは一神教との比較としての意味で
 さらりといっていましたが、
 よく考えるとなんてすごいことなんだろうと、
 帰りの電車で、なにかボーゼンとしてしまいました。
 中沢さんの話は、それ自体が「神話」のよう。
 この神話がこれからの日本における
 トリックスターにならないかな、と思い、
 中沢さんがこれから挑戦する
 芸術人類学という学問を応援したくなりました。
 この日の会場では、文章だけではわからない
 熱気や体温が伝わってきました。
 とても刺激的な夜でした」


10月24日の「はじめての中沢新一」イベントには、
熱のあるおたよりを、とてもたくさんいただいています!

「芸術人類学と中洲産業大学と
 ほぼ日刊イトイ新聞とのコラボレーションは続きます」
とイベントの現場で申しあげたとおり、
「芸術人類学」という、生まれつつあるあたらしい学問を
「ほぼ日刊イトイ新聞」は、追いかけてゆきます。

今日からの5回は、中沢新一さんによる
「芸術人類学とは何か」の文章を、掲載いたしますね。





私たちは
「芸術Art」と「人類学Anthropology」という
ふたつのよく知られたことばをつなぎあわせて、
「芸術人類学Art Anthropology」
という耳慣れない新造語をつくり、
そのことばに導かれながら、
新しい思想の企てをはじめようとしています。
「芸術」と「人類学」はどのようにして
ひとつに結び合うことができるのでしょうか。
またそれが結びついたところに、
どんなものが出現してくることになるのでしょうか。
それは私たちに
何か幸福にみちたものを
もたらす力を持っているのでしょうか。
こうした疑問に答えるためには、
「芸術」と「人類学」というふたつのことばを、
そもそもの根源に立ち返って
考え直してみる必要があります。

芸術というものが人類の心に生まれた瞬間から、
それは社会をつくりあげているのとはちがう原理に
突き動かされていました。
社会的なものの外へ越え出ていこうとする衝動が、
生まれたばかりの芸術には
すでにそなわっていました。
はじまりの芸術活動は
暗い洞窟の中でおこなわれていましたが、
二十世紀になって発見されたそれらの芸術作品を見ると、
すでにそこに超越性への衝動が動いていたことを、
はっきりと認めることができます。

十万年ほど前のアフリカに、
こんにちの私たちと同じ人類が出現しています。
それ以前の人類と区別する意味で
「新人」と呼ばれることになった人々です。
彼らは大変に高度な知的能力をもっていたために、
ホモサピエンス・サピエンスとも呼ばれます。
それまでいた人類も知的能力が高かったので
ホモサピエンスと言われたのですが、
それ以上に知的能力が高いという意味で、
そう呼ばれたわけです。

アフリカに生まれた新人と呼ばれるこの人類たちが、
どういう精神活動をおこなっていたのか、
現在のところは
まだ十分な記録は発見されていませんが、
彼らがその後、地球にどういうふうに広がっていったか、
これはだいたいのことがわかっています。

アフリカを出たあと、彼らは北上して
いまのコーカサス山脈の麓あたりにたどり着き、
そこで長いこと暮らしたあと、
そこから三方向にグループが分かれていったようです。

ひとつのグループは
東方へ向かって、南のルートをとりました。
インド亜大陸に入り、
ヒマラヤ山脈の南麓を迂回しながら、
今日の東南アジアへと向かったのです。
その当時は
ベトナム、タイ、マレーシア、インドネシア、
ボルネオ、スマトラなどは陸続きで、
大きいひとつのスンダランドという
大陸をつくっていました。
そこからさらにオーストラリア大陸を
海路でめざしたグループもありました。
いまから五万年から六万年前のことだといわれています。

もうひとつのグループは
東方をめざすのに、北方ルートをとりました。
山脈を通過して
さらにシベリアへ入っていったグループです。
彼らの旅はとても厳しかったでしょうね。
氷河がすぐ近くにまで迫っていたはずですし、
気候は厳しくステップで食料を得ることも難しく
暮らしはけっして豊かではなかったと思います。
そのため人口もあまり増えず、
ゆっくりゆっくりとしか
東方への前進の旅は進まなかったことでしょう。

第三のグループは西方に向かいました。
コーカサス山脈の麓を出て
いまの西ヨーロッパへ入っていったのです。
南を経由して地中海まわりのほうへ
まわっていったのかも知れません。
いずれにしても四万年くらい前に、
ヨーロッパのピレネー山脈の麓あたりに
新しい人類の一グループが到着しています。
そしてそこで旧石器を使いながら、
新しい生活をはじめています。

こんにちに残された芸術の最初の痕跡は、
この第三グループが残したものです。
彼らはピレネー山脈の麓から
中部フランスの渓谷あたりを生活の場所にしていました。
そのあたりを旅したことがありますが、
とてもいいところです。
渓谷沿いには陽当たりのよいテラスがいくつもあって、
そこの岩陰を住まいにしていたようです。
そのテラスから谷の底を見渡しますと、
そこには深い森があって、春先になると
そこをへら鹿やバイソンの大群が
駆け抜けていく様子がよく見えたはずです。
彼らはそういう動物を狩りしていました。
この人たちが生活の場所にしていたのは、
岩肌のテラスのような場所だったのですが、
ところが近くにはたくさんの洞窟があり、
その洞窟が原初の芸術活動の舞台となりました。

みなさんもラスコー洞窟の名前は
聞いたことがあるでしょう。
その壁面に、ベンガラに近い発色をする
赤い顔料をもちいて壁画が描かれています。
この壁画こそが
人間がつくりだした最初の芸術の痕跡です。
今日の誰が見ても、その壁画はすばらしい芸術です。
しかしその壁画の中にある何が、
それを原初の芸術たらしめているのでしょうか。
これは芸術学と人類学につきつけられた
大きな問いかけで、
ジョルジュ・バタイユのような思想家が
生涯をかけてとりくむことになった難問です。

この問題にたいして、
私はつぎのような視点
(その視点を私は別のところで
 「対称性人類学」と表現しています)
からアプローチしてみたいと考えます。
こうした壁画が描かれていた洞窟は、
いずれも大きく、深く、そして暗いという
特徴をそなえています。
生やさしい洞窟ではないのですね。
そこが真っ暗闇の世界であったということ、
これが旧石器時代の人類が生み出した
原初の芸術にとって、
決定的な意味をもっていたのではないでしょうか。

さきほども言いましたように、
家族の生活は
陽当たりのよい、渓谷の岸辺にできた
岩のテラスでおこなわれていました。
そこには男も女も子供もいたはずです。
ところが偉大な壁画が描かれた洞窟は、いずれも
そういう生活の場所からすこし離れたところにある、
近づくこともあまり容易でない藪地などに、
入り口があります。
たぶんそこは、旧石器の新人たちにとっての
「聖なる場所」で、
ふだんは厳重な禁足地になっていて、
イニシエーションを受けた大人の男だけが、
そこに入っていくこと許されていたのではないかと、
十分な根拠をもって推測することができます。

大人の男たち
(その頃は十四・十五才と言えば
 もう立派な大人だったでしょう)
だけが特殊な秘密結社のような集まり、
これをふだんの生活を送っているときの
「共同体」と区別して「組合」と呼ぶことにしますが、
この組合的な結社をつくって、
厳粛な雰囲気のなか
真っ暗闇の洞窟にもぐりこんでいきました。
洞窟の奥の方の暗いホールのようなところで、
彼らはなにかの宗教的な行為をおこなっていました。

まだ詳しいことはわかっていませんが、
動物の増殖を祈る儀礼のようなものだったと、
推測されています。私たちの生きている現代社会でも、
物質的な富の増殖には高い価値づけがあたえられて、
広告産業などをつうじて、
かたちを変えた儀礼やお祭りがおこなわれていますが、
人類が洞窟のなかで最初におこなった宗教的な行為が、
原初の資本主義
(資本主義というのは、富の増殖を言祝ぐ
 産業のかたちにほかなりませんからね)
を思わせる「増殖儀礼」だったことには、
なにかとても意味深長なものが
潜んでいるように思えてなりません。

そしてそこで、
はじまりの芸術が発生しているのです。
真っ暗闇の中で増殖の儀礼をおこなっている
組合結社の男たちを岩の壁が取り囲み、
その壁面に、
今日の芸術家たちもをたじろがせるような、
すばらしい絵画が描かれていました。
ベンガラによく似た赤い顔料を中心にして、
みごとな彩色がほどこされた、
生き生きとした動物や人物の姿が描かれているのです。
バタイユのような思想家は、
そこに芸術発生の秘密が隠されていることを、
すぐさま理解しました。
人類の心という奥の深い謎を探るためには、
芸術発生のこの現場を出発点にしなければならない、
と考えたのです。

(中沢新一さんの文章は、次回につづきます)

※「はじめての中沢新一」ご来場のかたがたへ……
 イベント現場で訂正をいれた、パンフレットP.29の
 パスカルとドストエフスキーの文章は、
 こちらから、PDFファイルでダウンロードできます。
 まちがいがありましてもうしわけありませんでした。

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2005-10-28-FRI

(C)Hobo Nikkan Itoi Shinbun