(これまでの「はじめての中沢新一」連載はこちらです)




第26回 ぼくの、いちばんの基本

(中沢新一さんの、イベントでの
 ひとり語りをおとどけしています)

「お釈迦様よりも
 ずっと昔に覚醒者がいた」
という
「ずっと昔」は
新石器時代ぐらいと
考えてもいいのではないでしょうか。

「ずっと昔に伝えられていた教え」と、
「あらためて、
 現代的なかたちで
 お釈迦様、
 ゴータマ・ブッダが
 語りはじめた考え方」とは、
おなじだと言っているんですね。

ブッダの教えというのは
ある意味でいうと
東洋的な思考の典型的なもので、
完成度の高い思考方法からなります。
あきらかに
西欧的な知性とは
ちがう作り方をしています。

西欧的な知性のあり方だと、
ます物事を分離して、
分析してというように
分離を出発点にするんですが、
お釈迦様は
そういうやり方をしないんですね。

仏教の基本的な考え方ですと、
ものを分離して考えることは
幻影=イリュージョンの世界を作る
いちばんのおおもとになってくると。
世界はおおもとでは分離されていない。

あらゆるものが
平等の資格をもって
この世界を動いて変化していく。
それをダルマと呼ぶけれども
これがおおもとにあるというわけです。

このダルマを
人間の頭脳が分離させたり、
対立させたりして思考をはじめた。

だけど
仏教の基本的な考え方だと、
論理的に分離していく考え方は
正しくない、と考えるわけです。

そして人間の知性の働かせ方の
最も高度なやり方は
そういう分離的で分析する
知性のやり方ではなくて
ものごとの全体性を
直感的に捕まえていく智慧というものだ、
という風にブッダは言っているのですが、
それが7代前の、
歴史を遥かに超えた昔から
釈迦族に伝えられた考え方だ、
とブッダが言っているということが
ぼくには心に刺さった
大きい謎だったんです。

それは
岡潔が言っているような
考え方とおなじで、
つまり分析的知性だけで
物事を分離して、分析して、そして
力の体系を組みたてていくのではなく、
パワーを生み出すのではないんですね。

むしろパワーを消していくために
人間の心、智慧の働かせ方を
最大限発揮したところに
芸術的な文明が築かれるということを
彼はしきりに強調していました。

実際、彼の数学というのは、
当時のヨーロッパ人の作っていた
数学とはちょっとちがうんですね。

それを
うまく表現することはできないけれど、
何かそこには
岡さんの考えているような
右脳的な考え方、情緒的という言葉で
彼は表現しましたけれども、
ブッタが言っている智慧というものに
つながると思いますが、
そういうものと共通したものがある。

「これは一体なんだろう?」
という疑問が
ぼくの学問というのか、
思想というのか生き方というのか、
それのいちばんの基本に
すえられたと思います。

(明日に、つづきます)

2006-01-14-SAT


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