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第31回 矛盾が芸術を生みだした

(中沢新一さんの、イベントでの
 ひとり語りをおとどけしています)

ホモエレクトスとか
ネアンデルタールに至るまでの人たちは
言葉でコミュニケーションをしています。

しかしこの言葉が
現実の世界の構造と、うまい具合に
対応関係が取れていないとすると
人間はこの過酷な環境の中を
生き抜いて行くのは
とても難しかっただろうと考えられます。

今わたしたちが使っている言葉は
現実の外側にある世界と大体対応しています。
言語の構造というのは
そういうふうにできているんですね。
だから、
この構造の持っている論理性というのは
私たちだけのものではないだろうと。

ネアンデルタールの言語というのも
形は違うだろうけれども
それに近い合理的な形を持っていたし、
その前も持っていたに
違いないだろうと考えられます。

ところがわたしたちの言語は、
現実とは対応しないものを
言葉の中で作り出すことが
可能になっているわけです。

そこに
創造というものが発生しています。
それから
象徴的なものの考え方が
可能になっています。
ポイントは
ここじゃないだろうかと思ったわけです。

つまり、何か脳の構造に
飛躍的なジャンプが起こって
そして今のわたしたちの人類、
ホモサピエンス・サピエンス、
新人と呼ばれている
人間のものの考え方の基本が
できあがるわけです。

このものの心の構造を
つくりあげた大飛躍は
どういう形態で行われたか、
ということを考えてみると……
合理的な言語形態からしたら、
ある意味、非合理的で、
矛盾に満ちて、
そして現代人が行っている
言語活動の中では
詩の活動に最も近いものなのです。
詩的な言語活動というのが
可能になるような脳の構造が
飛躍的に生まれたことによって
はじめて人間は象徴的な思考方法が
できるようになり、
宗教を持ち、
芸術を持つようになりました。

ということは今ある
わたしたちの心が生み出している
最初の智慧の構造、智慧というものが
どこから生まれたかというと
それはこの時の
ジャンプと同時に発生している……。

ヨーロッパ的な文明の中で
大変に精緻な形に発達させられた
論理的な言語の構造というのは、
その原型的なものは
ネアンデルタールにも
その前の人類にも
おそらく存在したものであろう。

ところがわたしたち新人の
心の本当の本質、
本物の特質というのを作りあげたのは、
そういう言語の持っている
合理的な面ではなくて
むしろ非合理的な面、
違うレベルのことを
ひとつの言葉で
同時に表現することができたり、
動きが変化しているものを
そのままつかみだしたりするという
能力なのです。

動きが変化しているものを
そのままつかみだすためには
矛盾にしたことを
そのまま表現できなければいけません。
この能力が発生しないかぎり、
わたしたち新人の心というのは
今あるわたしたちの心には
ならないだろう、ということが考えられます。

(明日に、つづきます)

2006-01-19-THU


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