(これまでの「はじめての中沢新一」連載はこちらです)




第32回 よくわからなくなりました

(中沢新一さんの、イベントでの
 ひとり語りをおとどけしています)

お釈迦様の言い方を
もっと深めていくと
次のようなことに
なるんじゃないかと思います。

ホモサピエンス・サピエンスの前の、
わたしたちの先祖であった
ネアンデルタール人、
それからその前の人間たちは
みんなそれぞれの段階に適応するような形で
合理的な思考方法を
発達させることができたでしょう。

この合理的な思考方法を
人間の心の中で定着させ、
うまく作動させていくために、
深層構造
(今わたしたちが知っている
 この言語という構造の
 いちばん原始的な形態
 と言われています)と
同じようなものを
すでにこの先祖たちは
次第次第に発達させ、
石器と同じように、わたしたち新人に
その深層構造が受け渡されました。

ところが新人たち、
私たちの直接の先祖は
そこにまったく別の要素を
つけくわえたわけです。
このまったく別の要素というのが、
むしろ世界の本質を論理的に考えたら
どう考えても矛盾としか
表現しようのないものを
全体的に把握していくような
智慧の形態なのです。

この智慧の形態を可能にしたものの一つは
象徴的な思考です。
この抽象的にあるものが何かを
明らかにすることができれば
わたしたち人間の最初の飛躍点というものを
正確に理解することができるだろう、
と考えるようになりました。
ここまで考えた時が
20代の終わりくらいだったわけですね。

20代の終わりくらいになって、
ぼくは、もうそこから先は
よくわからなくなってしまいました。

そこから先が
よくわからなくなってしまったというのは……
いろんな学問的なことを積み重ねていっても
もうこの先へは
到底進めなくなるだろう、と気づいたんです。

構造主義の考え方や
レヴィ=ストロースの思想というのも
あるところまでは教えてくれるけれども、
ぼくが抱えているその飛躍点の
いちばん重要なところまで教えてくれません。

これは自分で
考えだすしかないだろうと思いました。
20代の終わりでした。
そこで考えたことは、
岡潔のいう智慧の文明であり、
ゴータマ・ブッダのいう
最も高度な知性の働かせ方の原型がある
智慧のかたちなのです。

レヴィ=ストロースが
「野生の思考」と呼ぶ
新石器あるいはその前からの思考方法を
今に伝えていて、
しかもそれを高度な表現や思考と
結びつけているような人々のところへ行って、

直接、
それを勉強してくるしかないだろう、
と考えたわけです。
そこでぼくはあたりをつけました。
勘ですね、ここは。

たぶん、
チベット人のところに
それがあるんじゃないかと思ったわけです。
そしてかなり思い切ったことをしました。
チベット人のところへ行って門を叩いて、
「教えてください」と入門をしたんです。

「あなたは何を勉強したいのか」
チベット人の先生に聞かれましたけれども、
わたしはここで伝えられている
いちばん古いかたちの教えを学びたい、
と伝えたんです。

そうしたら、
「今までそんなことを
 勉強しにきた人はいない」
とすごくよろこんでくれたんですね。

「おまえに言っておくことがあるけど、
 とにかくそのお前の頭の中に入っている
 知識とか思考方法、ものの考え方、知性、
 それをぜんぶ捨ててくれ。ぜんぶ忘れてくれ。
 頭の中で寝ても覚めても働いている
 その思考というやつを、
 一度、ぜんぶ捨ててしまってくれ。
 これから三ヶ月間、本も一冊も読むな。
 そしてそうやって自分の心に
 浮かびあがってくる自然な状態を
 取り戻すように。そうしたら
 教えることをはじめることができる」

そう言われました。
ぼくはその通りやりました。

ぼくの頭の中には
いろんながらくたが詰めこまれていて、
チベットへ行く前に、
新宿で見てしまったタモリさんの幻影とか
いろいろ詰まっていて
頭の中がいっぱいになっていたのですが、
とにかくこういうのを
ぜんぶ捨てなければいけない。
そして、自然に浮かびあがってくる
心の状態を待ちなさいと言うんですね。

そして
そういう状態に少し近づいてきた時に、
いろんなことを
教えてくれるようになりました。
つまり、思考というものよりも
前の段階で人間の心の中で働いている、
心のメカニズムというものを
実際に目の前に見えるかたちで
見せてくれるというそういう教え方ですね。

そして、
智慧というものが
いかにわたしたちが
ふだん知性というかたちで
考えているものとは違う構造を持っていて、
しかも脳の中の違う部分を
働かせながら見えてくるものなんだ、
ということを見せてくれたわけです。

(明日に、つづきます)

2006-01-20-FRI


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