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(中沢新一さんの、イベントでの
ひとり語りをおとどけしています)
旧石器時代に行われていた探求と
仏教で行われていたチベットの探求と
まったく同じだったということが驚きです。
わたしたちの人類の発生の瞬間に
脳の構造が変わって
そしてその中に縦横無尽に
心の流動体を動かすことが
できるようになった時、
見えるようになったもの。
これこそが最初の神であり、精霊である、
というのが、ぼく自身が教わったことでした。
そしてそれは
旧石器考古学などを学ぶと
まさしくその通りであったことがわかります。
神というのは
わたしたち自身の心の中にある。
仏はわたしたちの中にある、
と仏教は言いますが
まさにその通りです。
仏というのは、無限の広がりを持ち、
絶対的に自由で、融通無碍で、
無限の包容力を持った
慈悲の力だと言われます。
慈悲の力というのは、
先ほど言った贈与の力ですね。
わたしたちを生かしてくれる為に、
命と力をわたしたちの世界に
注ぎ込んでくれる贈与の力なのです。
これはわたしたちのこの内面から、
仏としてほとばしり出てくる状態を
仏教は、
「わたしたち一人一人の中に仏がいる」
と語りましたが、
まさにそれは旧石器時代に人間が見ていた、
神の発生、あるいは精霊のあり方のかたちと
異なるものではないのです。
ゴータマ・ブッダは
まったく本当のことを言っていたんです。
7代前に先祖たちが考えていた考え方を
わたしは伝えているということと
まったく同じことが語られているのです。
じゃあ、一神教の神のようなものは
どうやって発生してくるのか。
このメカニズムを探ろうとしたのが
第四巻の部分です。
多神教から一神教へ移る過程について
かなり細かく分析してあります。
これを読んでみると、ヨーロッパの考え方だと
先ほども言いましたが、
アミニズムから多神教、
一神教とだんだん宗教が発達してきて、
キリスト教が最高の一神教であり、
一神教の中でもキリスト教が
最高の宗教形態だという考え方が発達しました。
そんなのまるでウソです。
この一神教の宗教形態は
超越性や人間を超えたものを強調しますが、
この人間を超えたものというのは
実は人間の内部にあるんです。
思考能力を超えたものを見て、理解して、
自分の生活と人生の中に組みこんでいく思想、
これが宗教であるとしたら、
一神教の神の形態というのは
非常に限定されたものの考え方です。
人間の全体性を強く制限したところでしか
生まれてこない神の考え方だというのが
はっきり見えてきます。
もしも
この一神教の考え方、
ユダヤ教、
キリスト教、
イスラム教というものが
宗教であるとしたら
他のすべての人類は
宗教は持たないと考えてもいいわけです。
日本人は無宗教だ、神を持たない、
なんてよく言われますが、
そういう考えは
ひっくり返さなくてはいけない。
わたしたちはよく考えたうえで
一神教の神を持たなかったんです。
それはわたしたちが
人類の原初的な超越性の
思考形態を大事にして、
そしてそれをもとにして、
精霊や神について考え、
わたしたちの人生に
組みこもうとしている民族だから、
一神教のように
神をわれわれの人間存在というものの
外に持ち出して、考えるというような
思考方法はとらないだけです。
そのことを堂々と語ることが
できるのではないか、と考えます。
ですから、これから
ヨーロッパの方やアメリカの方と会って
「日本人は宗教がないのですか?」
と聞かれたら、ぼくの「神の発明」を読んで
うまいテクニックを、身につけてくださいね。
「その通りです。
わたしたちは宗教を持たないほど
優れた思考方法を持っています。
超越性をめぐる思考方法として、
それは一神教とは全く別のかたちですが
凌駕する程の思考を展開することが可能です」
そうお答えになって構わないと思います。
ぼくが保証します。宗教学者が
宗教はいらないと言っているわけですから、
これはたしかじゃないか、という気がします。
(明日に、つづきます)
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2006-01-29-SUN
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